Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

表現の自由を奪うテック大手が仕切る民主主義の暗黒

岩田太郎(在米ジャーナリスト)
 ソーシャルメディア大手のツイッターやフェイスブックをはじめ、SNSアプリにクラウド上の動作環境を提供するアマゾンなどが、1月6日のトランプ前大統領支持者たちによる米議事堂乱入事件を奇貨として、トランプ氏や支持者のアカウントをほぼ一斉に追放・停止し、言論の場や政治参加の機会を大きく剥奪して1カ月近くになる。
 こうした中、トランプ前大統領を支持する人々、言うなれば「トランプ党」の政敵である民主党やリベラル派の大半は、テック大手の言論封殺を全面的に支持し、そうした排除行為が米国の安全保障や民主主義の回復につながると主張した。事態がいくぶん落ち着いた今、そうした言説を検証し、本当に言論統制が民主主義を促進し、安全を高めるのか分析することは有益であろう。
 連載第2回の今回は、米放送業者に相反する意見の放送が義務付けられていた1950~80年代の民主主義の繁栄、相反する意見を放送するという義務を廃止することに反対していた民主党とリベラル派の変節、対立する意見の平等で公平な扱いが求められないソーシャルメディアが「民主主義のバイパス装置」として、反民主的な勢力を利している現状を読み解く。
※第1回から読む
かつて米国にあった政治的公平性を担保する制度
 米国において政府を信頼する国民の割合が6~8割と絶大であった1960年代(ピューリサーチセンター調べ)、大きな影響力を誇ったラジオ局やテレビ局を経営する民間放送業者に対し、独立規制機関である米連邦通信委員会(FCC)が政治的公平性を保証するために1949年に制定した「フェアネス・ドクトリン」と呼ばれる原則が適用されていた。日本で放送番組の「政治的公平」を定めた1950年制定の放送法第4条のお手本となった制度だ。
 フェアネス・ドクトリンはまず、「公共の重要性を持ち、論議の的となっている問題の公論喚起と分析」のため、放送免許事業者が相反する意見に放送時間の合理的な部分を割り当てることを義務付け、さらに公共の問題に関わる個人に対して個人的な攻撃が行われた場合、1週間以内に攻撃された者に通知して放送の複製を提供し、放送事業者が提供する設備を用いて応答する機会を与えなければならないと定めていた。加えて、放送事業者が特定の政治候補者を支持した場合には、対立候補あるいはその代理人に対し、設備を提供して応答する機会を与えなければならないとの義務が課せられた。
 これは公人に発言や政治活動の機会を公平に提供する結果をもたらし、民主主義の健全な発展をもたらした一方で、営利組織である放送局に重い経済的負担や業務上の多大な制約を課すことになった。さらに、特定の言論を強制されない権利を定めた、米国憲法修正第1条に違反する一種の言論統制であるという声も当初から出ていた。しかし、米連邦最高裁判所は1969年に、「電波の希少性」などを根拠に、フェアネス・ドクトリンの合憲性を支持している。
 だが、1970年代から放送局の数や種類が飛躍的に増え、「電波の希少性」の概念が時代遅れとされるようになった。また多くの放送業者は、新聞雑誌等の印刷メディアにこの制約が課されなかったことは不公平だと主張した。こうした中、1984年に連邦最高裁がフェアネス・ドクトリンの合憲性に関する解釈に修正を加え、これを受けた当時の与党共和党レーガン政権が「規制撤廃」を唱えて同ドクトリンの廃止に向けた動きを活発化させた。
 しかし、野党民主党は「自分たちはいつでも、反論の機会を必要とする少数派になり得る」との立場から、フェアネス・ドクトリンの成文法化を試みた。民主党が上下院を制していた1987年にこの法案は両院の賛成多数で可決されたものの、レーガン大統領の拒否権行使で葬り去られ、フェアネス・ドクトリンは同年に廃止された。
 この時期に同ドクトリンを守ろうとしたのはリベラル派であった。上院における証言や審議を議会ケーブルチャンネルのC-SPANの録画で振り返ると、現在トランプ一派の言論を排除しようとするリベラル派が「反対意見や異論にも、放送で公平に扱われる機会を与えよ」と論じ、保守派が「営利の放送事業者に、何を放送するか押し付けることはできない」と反駁するなど、34年を経た2021年の状況と「ねじれ」が生じていることが興味深い。
 なお、1987年当時に上院議員であったバイデン現大統領が、フェアネス・ドクトリンを推進する上院法案第742号の採決で他の民主党議員がこぞって賛成票を投じる中、棄権している。バイデン氏が1月20日の就任演説で、ネット上の言論の場からトランプ党が排除されていることを非難せず、逆に「真実を守り、嘘を打ち倒す義務と責任」を強調した犬笛を吹いた伏線は、この棄権に表れていたのかもしれない。
民主党が新自由主義の政党であるワケ
 いまだに民主党内の一部ではフェアネス・ドクトリン復活を望む声があるものの、党全体はすっかりレーガン的な「規制撤廃派」となっているだけでなく、同ドクトリンのソーシャルメディアへの援用など言い出そうものなら、「営利の民間企業への規制は認められない」と主張する。過去の民主党のフェアネス・ドクトリン擁護の精神に照らせば、SNSからのトランプ追放を支持する現在のリベラル派は、新自由主義を信奉する「レーガン派」になっているのである。
 事実、トランプ党に人気の米SNSアプリのパーラーが、「暴力を助長するコンテンツへの対処を怠った」との理由でクラウド提供元のアマゾンにアクセスを遮断され、サービス停止に追い込まれた措置に対する緊急差し止め命令を求めた裁判で、ワシントン州連邦地方裁判所のバーバラ・ジェイコブ・ロススタイン上席判事(民主党)は、「アマゾンは民間企業であり、独自の規約に基づく運営が認められているため、今回の訴訟において言論の自由は要件に当たらない」と判示している。
 そのロジックは、こうだ。米憲法修正第1条が保障する「言論の自由」に関しては、「法の平等な保護」を義務付ける憲法修正第14条が連邦政府・州や地方自治体などに適用されるものの、民間企業は規模の大小にかかわらず適用を受けない。だから、ツイッターやフェイスブックやアマゾンには、トランプ派に言論の自由(機会)を恵んでやる義務はないのである。本来は規制好きな民主党が、自由市場の論理を盾に、言論や政治参加の機会を政敵に拒みながら、「思想の自由市場」「異論」「多様性」を結果的に否定するという構図だ。
 評論家で、深夜討論番組「朝まで生テレビ!」の司会者である田原総一朗氏は、「バイデン大統領は民主主義を取り戻せるか」と題したブログで、「民主主義とはすなわち、トランプや支持者たちの意見もまた、認めること」だと看破したが、その基準から言えば、民主党や多くのリベラル派は反民主主義(つまり全体主義)を信奉していることになる。
民主主義をバイパスする道具に堕したSNS
 翻って、ソーシャルメディア各社やテック大手は、トランプ前大統領やトランプ党のSNS上における言論が実際に暴力につながったのか、犯罪要件成立に関わる捜査当局や裁判所の最終的な判断を経ず、「法と秩序」を彷彿とさせる解釈を用い、予防的・拡大解釈的に排除や追放を行っている。
 ツイッターやフェイスブックの経営陣が密室で下す判断は、捜査当局や裁判所の決定に等しい社会的効果を持つ。だが、ツイッターが「偽情報対策」と称して一般ユーザーに投稿を監視させる「バードウオッチ」と呼ばれる新たな仕組みや、フェイスブックの投稿削除判断を審理する「パブリックコメント募集」や「FB最高裁判所」の不透明な制度はみな、一般性も明確性もなく、手続きの適正さや内容のチェック、司法権によるコントロールもない。民主主義的な救済の装いの下に、人治で民主主義を換骨奪胎してしまう道具に過ぎない。
 社会の公器でありながらチェックアンドバランスが迂回できるSNSは、民主党のリベラルエリートにとり、極めて都合がよい。なぜなら、言論で絶大な影響力を誇るソーシャルメディアが、相反する意見の民主的で公平な扱いや、憲法修正第1条を回避できる抜け穴を利用することで、より早くより簡単に政敵を黙らせ、異論をつぶすことができるからである。
 このため、上級国民たるリベラル派には保障されている「SNSを使うか使わないかを選ぶ自由」は、トランプ党や多くの保守派にとって事実上、存在しない。ツイッターやフェイスブックのようなメジャーなSNSの代替手段はパーラーのような弱小競合しかなく、しかもその弱小競合さえつぶされたからだ。そこには、埋め難い権力の非対称性がある。
 それでも探せば、さらに弱小の代替がないことはない。選択の余地はある。だから、リベラルエリートたちの論理では、「黒人はリモートワークが可能な高給の仕事でなくても、低給のエッセンシャルワーカーとして食肉工場で働くという代替がある」「女性はコロナ禍によるロックダウンで仕事を失っても、家庭内の労働という代替がある」ということになるのだろう。これぞ、公正公平を目指す「民主主義の真髄」である。
 テクノロジーの本質とは、破壊を意味する「ディスラプション」であるとよく言われる。次回は、ズブズブ以上の癒着関係にある民主党とテック大手が手を携え、労働力流動化やグローバル化による「勝者総取り」、IT技術による「監視と追跡」、そして政府そのものを無効化する「人治」を通して、いかに米国の民主主義を破壊しているかを示す。さらに、ディスラプションに対する不満と抗議から生じたポピュリズムに対する回答として、言論の弾圧と統制が進行する実態を明らかにする。