Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

北朝鮮の拉致問題 刻々と重み増す「時間との闘い」

レベッカ・シールズ、田村栄治、BBCニュース


1977年11月15日、新潟


横田めぐみさん(当時13)が中学校のバドミントン部の練習を終えて帰路についたのは、日が沈んだ後の身が引き締まるような暗がりの中だった。新潟港には冷たい風が吹きつけ、湾の付近では黒い海がうなっていた。


7分も歩けば、明かりのともる自宅に着くはずだった。


かばんとラケットを手にしためぐみさんが友だち2人と別れたのは、自宅まであと200メートルほどの場所だった。しかし、彼女がその家にたどり着くことはなかった。


午後6時を過ぎ、7時になってもめぐみさんが帰宅しないことに、母親の横田早紀江さんは不安を募らせた。途中でめぐみさんに会うはずだと思いながら、早紀江さんは新潟市立寄居中学校の体育館へと向かった。


だが学校に着くと、事務員から「もうとっくに帰りましたよ」と言われた。


警官隊や警察犬による捜索が、暗闇を切り裂くように始まった。めぐみさんの名前を呼びながら、近くの松林をくまなく調べた。早紀江さんは海岸に続く道を駆け下り、取り乱しながら付近に止まっていた車の中を1台1台のぞいた。


海岸を捜索するのは、理にかなった行動だった。しかし、言葉では説明できない何か強い力がその夜、早紀江さんを波打ち際へと向かわせたのかもしれない。


そのころ、早紀江さんの視界の向こうの日本海では、北朝鮮の工作員が操縦する小型船が朝鮮半島へと急いでいた。船倉には、恐怖におびえた女の子が閉じ込められていた。


工作員らは証拠をまったく残さず、その姿も誰にも目撃されなかった。


あまりに大胆で突拍子もない犯行だった。そのため、拉致が起きたと考える人も、ましてや解決しようなどと思う人も、ほとんどいなかった。しかし、長い年月が流れるうち、被害に遭ったのはめぐみさんだけではないことが明らかになっていった。


現在、日本政府は1977年から短くとも1983年までの間に、17人の日本人が北朝鮮の工作員に拉致されたと認定している。だが、実際の被害者は100人を超えるとみるアナリストもいる。


めぐみさんが行方不明になってからの1年間、警察は延べ3000人態勢で捜索にあたった。横田家には誘拐捜査班が詰めた。日本海ではパトロール船が行き来した。だが捜査は行き詰まり、苦しい時間が続いた。


めぐみさんの父親の横田滋さんは毎朝、海辺を歩いた。夜になると風呂場で涙を流した。早紀江さんも1人になると、めぐみさんの弟で、当時9歳の双子の息子たちに気づかれないよう、声を抑えて泣いた。


横田家にとっての暗たんたる砂時計がひっくり返された。それから何年もの間、一家は喪失に耐えるしかなかった。


しかし、めぐみさんは生きていた。


1993年に韓国に亡命した北朝鮮工作員の安明進(アン・ミョンジン)さんは、めぐみさんと思われる、拉致された日本人女性について韓国当局に詳しく語った。「彼女のことは、とてもはっきりと覚えている」と彼は言った。「私は若く、彼女は美しかった」。


めぐみさん拉致実行犯の1人だった工作員リーダーから、安さんは1988年にこの話を聞かされたという。


それによると、彼女の拉致は予定外の失敗だった。子どもを連れ去ろうなどとは誰も考えていなかった。新潟での活動を終えた工作員2人が海岸で迎えの船を待っていたところ、道路にいた人物に目撃されたと感じた。発覚を恐れ、工作員らはその人を捕まえた。めぐみさんは13歳にしては身長が高かった。暗闇の中では、子どもだと気づかなかったのだという。


安さんの話では、めぐみさんは真っ暗な船倉に40時間閉じ込められた末に、北朝鮮に着いた。船内で逃げ出そうともがいたため、手の爪は割れ、出血していた。彼女を連れ去った工作員らは、判断ミスを厳しく叱られた。「この子は幼すぎる」、「小さな女の子が何の役に立つというのか」。


めぐみさんは母親を呼びながら泣き、食事を拒んだ。北朝鮮の世話係は不安を覚えた。彼女をなだめようとして、朝鮮語の学習をがんばり、流ちょうに話せるようになれば日本に帰れると約束した。


だがそれは、絶望する子どもをだますためのうそだった。北朝鮮には、彼女を帰国させるつもりなどなかった。その後、エリートスパイの学校で日本語と日本人らしい振る舞いを教える、工作員の指導者として働かせることになる。


このようなことがたった1度起きるだけでも、それは異常な事態だ。しかし、ミスがきっかけだったこの拉致は、北朝鮮にとって一種の前例となった。


のちの最高指導者で、当時は情報機関のトップだった金正日(キム・ジョンイル)氏は当時、スパイ活動の拡大を狙っていた。外国人を拉致すれば、先生役として利用できるだけではなかった。本人をスパイに育てたり、偽造パスポート用に身元を盗用することもできる。外国人同士で結婚させ(北朝鮮国民は外国人との結婚が禁止されている)、その子どもたちも体制に尽くさせることもできた。


日本の海岸はそのころ、高度の訓練を受けた工作員の前ではひとたまりもない、拉致の対象になり得る一般人であふれていた。


「姉のことはあまり覚えていないだろうと思われがちです。でも私は当時、小学3年生か4年生でしたが、姉のことはものすごく鮮明に覚えています」。めぐみさんの双子の弟の1人、横田拓也さんはそう話す。


めぐみさんの失踪時、まだ小さかった拓也さんと弟の哲也さんは、捜索にあたっていた警官らから、武道のビデオ映像を見せられた。そして、「負けるな、お前たち。強くなれ」と励まされたという。


それからの約43年間、拓也さんはその言葉を心にとめ続けてきた。51歳(取材時。現在は52歳)になり、ビジネススーツに身を包んだ拓也さんは、めぐみさんが拉致の前に旅行先から家族に送ったという手紙のコピーを手にしながら、BBCの取材でめぐみさんについて振り返った。その手紙の最後には、「もうすぐかえるよ!! まっててね」と書かれていた。


「彼女(めぐみさん)は家ではおしゃべりが大好きで、明るくて、花に例えるとひまわりのような存在でした」


「(めぐみさんが)突然いなくなってから、食卓の会話は減り、家の雰囲気が暗くなりました」


「(めぐみさんに)何かあったのかと心配で、それでも子どもだったので翌朝まで寝るんですが、起きたらまだいない。その日の夕方もまたいなくて、翌朝になってもまだ帰って来ていない……。そんな連続でした」


めぐみさんの行方が分からなくなってから20年間、横田さんの家族にとって「事件」は迷宮入り状態だった。ともかく何があったのか理解したいと願い続けた。


家族は、めぐみさんがどんなふうに年齢を重ねているかを想像した。13歳のとき彼女は背が高かったが、今もそうだろうか? 子どものころにあった「えくぼ」は、まだあるだろうか? どの疑問にも暗い影が差した。めぐみさんがあの11月の夜を生き延びたのかさえ、家族は分からなかったのだ。


1970年代の海沿いの町では、うわさはカモメのように飛び交い続けた。地元の人々は、正体不明の船が発する奇妙な電波信号や明かり、海岸で見つかる朝鮮語の書かれたたばこの箱などを話題にしていた。1978年8月には、富山県の海辺でデートをしていたカップルが、妙に堅苦しくなまりのある日本語をしゃべる4人組みの男らに猿ぐつわをかませられた上、フードをかぶせられ、手錠をかけられた。犬の散歩中だった人が近づき、犬がほえると、男らはカップルを置いて慌てて逃げた。


逃げられなかった人たちもいる。


産経新聞は1980年1月7日付朝刊の1面に、「アベック3組ナゾの蒸発」、「福井、新潟、鹿児島の海岸で」、「外国情報機関が関与?」の見出しを掲げた記事を載せた。


しかし、北朝鮮の関与が明確になったのは、有罪判決を受けたテロリストの証言が出てからだった。


北朝鮮の金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員は、1987年に韓国の大韓航空機に爆発物を仕掛け、115人を殺害。韓国で死刑が求刑された。彼女は北朝鮮の工作員で、国家の命令を受けて行動したと証言した。また、スパイ活動のため、日本語と日本人の振る舞いを学んだと話した。先生は拉致された日本人女性で、2年近く一緒に暮らしたとも述べた。


彼女の証言には信憑性(しんぴょうせい)があった。しかし日本政府は、北朝鮮が日本人を次々さらっていると、公式に認めようとはしなかった。両国は長年敵対関係にあり、国交はなかった。証拠を無視するほうが楽だったのだ。


日本側の交渉担当者が非公式にこの問題を持ち出そうとしたこともあったが、北朝鮮は憤慨して拉致を否定。交渉を打ち切った。


北朝鮮がようやく調査に同意したのは、めぐみさんが行方不明になってから20年がたった、1997年のことだった。


1997年1月21日


「娘さんが北朝鮮で生存しているとの情報があります」


横田滋さんは仰天した。兵本達吉さんという国会議員秘書から突然連絡を受けた。兵本さんは、10年にわたって北朝鮮による拉致について調べており、横田家の人と早急に会いたいと言った。


家族は大きなショックを受けるとともに、狂おしいほどの期待を抱いた。日本政府はめぐみさんが生きていると信じていた。このときから問題は、「彼女をどう帰国させるか」になった。


横田家は家族に起きたことを公表した。北朝鮮が事実隠しのため、めぐみさんを殺してしまうのではないかとの恐れもあった。しかし滋さんは、娘の名前を出さないと単なる「うわさ話」として扱われてしまうと主張した。事件の話を日本中に広め、国に助けを求めるしか、家族に方法はなかった。


横田さんたちはテレビのゴールデンタイムに数々の番組に出て訴えた。国会では関連質問も出た。政府は1997年5月、めぐみさんの事件は単独事案ではないと公に認めた。娘や息子、きょうだい、母親がさらわれて苦しんでいる横田家のような家族は、他にもいるとしたのだった。


そうした家族の7組は、最愛の人たちの救出を求めていくため、支援団体「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)を設立した。


家族らはわずかな情報を出し合い、切々と状況を訴えた。個別の拉致事件は行き当たりばったりのように思えたが、やがてパターンが見えてきた。犠牲者の多くは20代の若いカップルだった。日本各地の海岸が犯罪現場になった可能性が出てきた。


めぐみさんが失踪してから9カ月後の1978年8月12日、事務職の増元るみ子さん(当時24)は交際していた市川修一さん(当時23)と鹿児島県の海岸に夕日を見に出かけた。その前日、彼女は家族と夕食を囲みながら、市川さんと付き合っていることを恥ずかしそうに明かしていた。


その後、2人が乗っていた車は海岸で、かぎがかかった状態で発見された。助手席からは、るみ子さんの財布とサングラスが見つかった。失踪した日に市川さんと互いを撮影した写真が残った、彼女のカメラもあった。警察は海岸線付近で、修一さんのサンダルの片方を発見した。


拉致はどれも、本人や周囲を襲う悲劇だった。愛する人が連絡もなく消えてしまったのだ。残された者は悲嘆にくれ、あまりの喪失に精神の限界に追いやられた人もいた。


メディアと社会は必ずしも同情的ではなかった。報道では拉致は「疑い」とされた。政治家の半数は、北朝鮮の信用低下を狙って韓国が偽情報を広めているのではないかとみていた。


それでも、被害者家族が陳情書を出し、メディアで訴え、政府に働きかけるうち、事実は転がる雪玉のように重みを増していった。


そして5年後、その雪玉は北朝鮮の金正日氏の足元で止まることになる。


2002年9月17日


「日本の首相に朝早くから平壌にお越しいただいて、ホストとして申し訳なく思います」。北朝鮮の当時の最高指導者・金正日氏は、そう切り出した。


だが、そう語りかけた相手は、早朝だから怒っていたのではない。


小泉純一郎首相(当時)はこの日、低下気味だった内閣支持率の上昇も期待しながら、日朝の関係正常化を話し合うため北朝鮮に飛んだ。しかし行った先で、思わぬ外交上の待ち伏せ攻撃を受ける形になった。


北朝鮮で200万人以上の死者が出たとされる1990年代の悲惨な飢饉(ききん)を経て、金正日氏は日本からの食糧支援や投資、35年間にわたって朝鮮半島を植民地にしたことに対する謝罪を求めていた。一方の日本は、北朝鮮工作員に拉致された国民全員の詳細情報を要求し、それなしに前に進むことはできないと伝えていた。


この歴史的会談の30分前、1つの名簿が浮上した。北朝鮮が日本人13人の拉致を認めるものだった。ただ、生存しているのは5人だけとされた。


残りの8人については、溺死、暖房用の石炭ガスによる中毒、心臓発作(27歳女性)、2件の自動車事故(北朝鮮では一般国民が車を所有するのはまれだった)などで死んだと説明された。ほぼ全員の墓が洪水によって流されたため、遺骨などの提供は不可能だと北朝鮮は主張した。


小泉氏は驚愕(きょうがく)した。


「日本国民の利益と安全に責任をもつ者として、大きなショックであり、強く抗議する。家族の気持ちを思うと、いたたまれない」と、小泉氏は金正日氏に伝えた。


金氏は黙って耳を傾け、メモを取ると、こう尋ねた。「そろそろ休憩にしましょうか」。


厳しい話を聞かされた日本の訪朝団は、控え室で議論した。のちに在任期間が史上最長の首相となる安倍晋三官房副長官(当時)は、北朝鮮が拉致について正式に謝罪しない限り、正常化交渉を約束する共同宣言に署名すべきではないと小泉氏に訴えた。


会談が再開されると、金氏はメモを手にし、読み上げた。「私たちは調査を進め、内部の調査も行った。背景には数十年の敵対関係がある。しかしながら、誠にいまわしい出来事だ」。


「1970年代と1980年代に、特殊機関が妄動主義、英雄主義に走ったことによって始められたと理解している」


「私がこういうことを承知するに至り、責任者は処罰された。今後、このようなことは決して繰り返されない」


北朝鮮の独裁者だった金氏は、拉致の目的について、工作員に日本人の指導員をつけるとともに、韓国で活動する際の偽の身分を手に入れることだったと述べた。被害者には海岸で連れ去られた人がいたほか、ヨーロッパでの留学や旅行の最中に誘い込まれた人もいたとした。


金氏は、とりわけ若い被害者のめぐみさんについて言及し、拉致実行犯が1998年に裁判で有罪になったと説明。うち1人は処刑され、もう1人は15年の刑で服役中に死んだと話した。


「それらの者たちによる遺憾な行為があったことについて、この場で率直におわびしたい。このようなことが二度と起きないよう適切な措置を取る」


小泉氏は平壌宣言に署名した。


5人生存、8人死亡とされた。


東京にある外務省の飯倉公館では、拉致被害者の家族が知らせを受けた。


めぐみさんの両親は、植竹繁雄外務副大臣(当時)と向き合うように座った。植竹氏は息を吸うと、言葉を絞り出した。


「誠にお気の毒ですが……」


北朝鮮は横田めぐみさんについて、平壌市内の精神病院でうつ病の治療中だった1994年4月13日、病院敷地内の松林で、首をつって自殺したと説明している。


この死亡日は、2回目に提示された日付だ。北朝鮮は当初、1993年3月13日にめぐみさんが死亡したとし、のちに間違いだったと訂正した。


北朝鮮は死亡の証拠として、病院の「患者死亡台帳」とする書類を出した。表紙にはもともと「患者入退院台帳」と書かれてあったが、「入退院」の文字が「死亡」に書き換えられていた。日本はこの書類について、信用性がかなり疑わしいと北朝鮮に伝えた。


めぐみさんをめぐっては、拉致被害者の地村富貴恵さんがのちに、夫の地村保志さんと暮らしていた北朝鮮の自宅の隣に引っ越して来たと話した。めぐみさんが亡くなったとされる日から2カ月後の1994年6月のことで、彼女はそこで数カ月生活したと話した。


横田家では誰も、めぐみさんが自殺したとは信じていない。それでも早紀江さんは、北朝鮮の説明にぞっとすることがある。


早紀江さんは2002年に米紙ワシントン・ポストの取材に対して、「新潟では松林がありました」、「(めぐみさんは)きっとそれを懐かしく思っていたと思います。とても寂しかったはずです。もしかしたら私たちのことを強く思い、もう戻れないと考え、瞬間的に(彼女が自殺したのでは)とわずかに思ったこともあります」と語った。


「私は泣きました。でもすぐ、いや、そんなことはあり得ないと思いました。そんなことが起きたなんて思いたくない。(めぐみさんに)そんな経験をしていてほしくありません」


めぐみさんが死亡したと発表した2年後、北朝鮮は彼女の遺骨だとするものを提出。めぐみさんの拉致から27年目となる日に日本に届けられた。横田夫妻は日本の伝統に従って、めぐみさんのへその緒を保管しており、DNA鑑定が実施された。


その結果、骨片は別人のものだと判明した。


鑑定に当たった科学者はのちに、骨片には不純物が混入していた可能性があり、確定的な結果を出せなかったと話した。ただ、北朝鮮は以前にも、怪しげな遺骨を提出したことがあった。めぐみさんの前には、拉致被害者の松木薫さん(北朝鮮は42歳で死去したと説明)の遺骨とするものを出してきた。だがその骨片について日本の歯科の専門家は、60代の女性のものとするあごの骨の破片が交ざっていると鑑定している。


2002年10月15日、北朝鮮が生存していると発表した拉致被害者5人が、東京・羽田空港に到着した。


たくさんの日の丸や「お帰りなさい」と書かれた旗が待ち受ける中、5人は飛行機のタラップを下り、滑走路で家族と抱き合うと、涙を流した。


北朝鮮は、5人が7~10日間ほど、日本を訪れることを認めていた。


だが、5人が再び北朝鮮に戻ることはなかった。


拉致した側が「すでに死んだ」と主張している人を救い出すには、どうすればいいのか。この悪夢のような問題に直面しているのは、もちろん横田家だけではなかった。


交際を始めたばかりだった男性と失踪した増元るみ子さんも、死亡者リストに名前が挙げられていた。


北朝鮮はるみ子さんについて、20代の時に心臓発作で亡くなったとしている。しかし彼女の家族は、その説明を受け入れていない。るみ子さんの弟の増元照明さんは、1978年に姉が拉致された時、北海道の大学で水産業を学ぶ22歳の若者だった。その後、東京・築地市場でのマグロのセリ人などの仕事をし、会社を退職した現在、65歳になっている。


増元照明さんと横田めぐみさんは9歳違いだが、誕生日が10月5日で一緒だ。めぐみさんは現在、56歳で、増元るみ子さんは66歳になる。


るみ子さんは、4人きょうだいの末っ子の照明さんを溺愛した。


「姉はとても優しくしてくれました」と彼は思い返す。「実家は裕福ではなく、家族6人が一間に暮らしていました。姉のるみ子とは、私が12歳くらいになるまで同じ布団に寝ていたんです。姉は私のことを本当にかわいがってくれました。私が父に怒られると、姉は泣きながら私をかばってくれました」


照明さんは、るみ子さんがいなくなってからの約40年を、彼女からの大切な贈り物とともに刻んできた。大学の入学祝いにプレゼントされた腕時計だ。


最近は、失われていく時との闘いが、いっそう急を要するもになっていると感じている。


るみ子さんと照明さんの父・正一さんは2002年、肺がんで死去した。母・信子さんも2017年、90歳で亡くなった。


信子さんは40年間、娘の帰りを待ち続けた。ただ晩年になると、娘が戻るより先に自分の命が尽きるかもしれないと話していた。


奪われた子どもの捜索は、亡くなったにしろ隠匿されているにしろ、次世代に託すにはあまりに残酷な課題だ。しかし、多くの拉致被害者家族が、この「相続」問題に直面している。老いて亡くなったり、人生の最晩年を過ごしたりする人が増えている親の世代は、働き盛りの子どもたち世代に、全力で闘い続けるよう伝えるべきなのか? そもそも、それは選択肢なのか?


正式な引き継ぎはなかったが、照明さんはいま、暗い砂時計を受け継いでいる。


「父は2000年ごろ、東京に来ることができなくなりました」と彼は話す。「父は当時、私に『すまない』と言いました。その言葉に私はとまどい、何となく違和感を覚えました。私は父のためではなく、行方不明の姉のために活動をしていたからです」。


「母は時々、るみ子は日本に戻って来るだろうかと私に言っていました。姉の生きた姿を見るのを疑う気持ちも、いくらかあったのだと思います。でも父母が私に『お前の番だ』とか『救出活動を続けてほしい』などと言うことはありませんでした」


その必要がなかったのか。


「そうです」


めぐみさんの弟の横田拓也さんが、肩にかかる責任の重さが増していくのを感じたのは、まだ30代の時だった。


「2006年にブッシュ大統領(当時)に会いにアメリカに行ったころから、両親ら高齢世代が飛行機に長時間乗って海外に行くことはもうできないという現実に気づきました」と彼は言う。「国内でも、東京から離れた場所への長い時間がかかる移動は苦しそうにしていて、もう遠方に行くのは無理だろうと思いました」。


拉致被害者の親で存命しているのは現在2人しかいない。2人のうち、若い方はめぐみさんの母の早紀江さんだが、その早紀江さんは今月、85歳になった。


めぐみさんの父で、柔らかな口調とは裏腹に頑強だった滋さんは、昨年6月5日に息を引き取った。2018年4月の入院以来、宝である娘の写真をベッドわきに置き、少しでも長生きしようと日々闘った。


誰もが「拉致問題」を知っている日本では、関係者の子どもをいつまでも、この問題から遠ざけておくことはできない。増元照明さんと横田拓也さんは共に父親だ。照明さんには小さな娘が、拓也さんには20代前半の息子がいる。


拓也さんが息子に、「めぐみ伯母さん」に何があったのかを話したのは、まだ息子が小さいころだった。「おそらく6歳か7歳の時だったように思います。姉が拉致された時の私の年齢だった9歳までには、もう話をしていました」。


照明さんが娘に伝えたのは、さらに小さい時だった。


「娘は私の姉のことを知っていますよ」と照明さんは言う。「幼稚園に入る前に、妻が話しました。娘は4歳の時の七夕祭りの短冊に『おばさんにあいたいです』と書いていました」。


拉致被害者家族の中には、照明さんもよく知っているように、子どもを喪失感や義務感の重荷から守れない人たちもいる。


照明さんは2004年から、飯塚耕一郎さんと一緒に救出活動をすることが増えた。耕一郎さんは母親を奪われた。拉致があったとき、彼はまだ1歳4カ月だった。


田口八重子さんは、ナイトクラブでホステスとして働く、赤ちゃんの息子と3歳の娘をもつシングルマザーだった。22歳だった1978年6月、何の連絡もないまま失踪し、子ども2人は東京の託児施設に残された。


赤ちゃんだった息子は、田口さんの兄の飯塚繁雄さんに養子として引き取られ、4人目の子どもとして育てられた。一方、田口さんの娘は、おばの1人に養育された。


現在43歳の飯塚耕一郎さんは、生みの母についての記憶がまったくない。彼女のことは「八重子さん」と、ていねいな言葉遣いで表現する。


「おふくろ」と「おやじ」は、育ての親の飯塚栄子さんと繁雄さんを表す言葉だ。耕一郎さんは22歳になるまで、自分の人生がそれ以上に複雑なものだとは思いもしなかった。


「就職して海外研修に行くことになり、パスポートの取得が必要になりました」と彼は説明する。「それで戸籍謄本を取ったのですが、その謄本を見て、飯塚繁雄との関係が養子であることがわかったんです」


「はじめ、なぜそれまでひた隠しにしていたのか、理由が想像できませんでした。1週間くらい間をおいて冷静になってから、両親に話を聞くことにしました」


「実家に帰ると、母親は不在でしたが、おやじが家にいました。それでおやじに『戸籍を見たんだけど、養子ってどういうこと?』と聞きました」


繁雄さんは耕一郎さんを外での昼食に誘い、真実を告げたという。「おやじからは、『戸籍謄本にあるとおり、お前は実子ではない。私のきょうだいには一番下に八重子という妹がいて、お前はその妹の子どもなんだ』と説明されました」。


ただ、繁雄さんが本当の「暗部」について話したのは、家に戻ってからだった。


「おやじは私に、『実は金賢姫(キム・ヒョンヒ)という女性がいる、彼女は1987年の大韓航空機爆破事件の犯人の1人で、日本人の先生に指導を受けたと話している』と言いました。そして、金賢姫さんが(日本の警察から)複数枚の写真を見せられた時、八重子さんの写真を選んで、『先生です』と言ったと教えてくれました。そのことから、八重子さんが今も北朝鮮にいるかは明らかではないが、大韓航空機爆破事件の犯人と絡んでいたことははっきりしている、ということも説明してくれました」


この内容は、拉致被害者で日本に帰国した地村富貴恵さんの話と符合する。彼女は八重子さんと一緒に暮らしたことがあると述べている。


耕一郎さんは2004年、田口八重子さんの息子であることを公表すると決心した。拉致被害者5人が帰国して2年がたっていたが、他の拉致被害者の救出が外交的な手詰まり状態に陥っていた。耕一郎さんはそのことに、いら立ちを覚えていた。この問題を解決に向けて前進させるためなら、できることは何でもする覚悟だった。


「八重子さんという女性は、私にとってまったく記憶のない、物語の中にいるような人でした」と耕一郎さんは言う。「でも、その物語の中の女性が私を産んでくれた。それなのに、その人にずっと会えないままというのは、私にとってショックでした」。


「おやじは外務省から、八重子さんが亡くなったという説明を受けていましたが、客観的な証拠が何も伴わない説明でした。それでおやじは、信ずるには当たらない、北朝鮮の言うことは信じられないと言っていました」


「そういうことから、何とかして助けてあげたいという気持ちになりました」


金賢姫氏は裁判で有罪判決を受け死刑が宣告されたが、その後、韓国の大統領によって刑が恩赦された。飯塚耕一郎さんと繁雄さんは2009年、韓国・釜山を訪れ、彼女と面会。八重子さんと過ごしたころの話を聞いた。


「彼女は『八重子さんのことをお姉さんのように思っていたから、その子どもに会えたのはとてもうれしい』と言いました」と、耕一郎さんは思い起こす。「そして、『お姉さんも含めて4人で、そのうち会えたらいいですね』と話しました」。


北朝鮮は田口八重子さんについて、1986年に交通事故で死亡したと公式に説明をしている。しかし金賢姫氏は、1987年に田口さんを見たと報告した運転手に話を聞いたとし、北朝鮮の公式説明に疑義を唱えている。田口さんは現在、65歳になっている。


耕一郎さんは、会ったことのない行方不明の母親の捜索をいつか、自分が続けなくてはならないかもしれないと、承知している。母親をよく知り大切に思っていた人たちの支えを、もう受けられない状態で。


「当然、時間との闘いであることは強く意識しています。八重子さんのごきょうだいはすでに2人、亡くなっています。おやじも年を取っていて、少しでも早く会わせてあげたいと思います。他の(拉致被害者)家族を見てても(中略)みなさん高齢になっているのがわかります。昔頑張っていた方がいらっしゃらなくなったとか、体調的に弱っていらっしゃるということが起きています」


北朝鮮は、大韓航空858便の爆破事件に絡んでいたと認めたことはなく、金賢姫なる人物についてはまったく知らないと主張している。


田口八重子さんの家族は、彼女が金賢姫氏を指導し、工作員らに囲まれて暮らしたという経歴から、解放するには多くを知り過ぎているとされているのではないかと恐れている。


この闘いに巻き込まれた人はみな、共通の恐怖を抱いている。時間がたち、拉致された人たちの生存が年齢的に危ぶまれるようになるにつれ、問題が軽視されていくのではないか――というものだ。


拉致被害者たちはすでに、高齢のため北朝鮮で亡くなってしまっているのだろうか。この記事を書いている時点では、答えはノーだ。だがこの問いは、拉致被害者家族の現役世代に重くのしかかっていく。


「時間は誰にでも等しく与えられています」と、横田拓也さんは話す。「被害者本人も北朝鮮で年を取っています。日本やイギリス、アメリカで1年や20年を過ごすのと、同じ時間を北朝鮮で過ごすのとは意味が違います。北朝鮮では人々が明日の命どころか、今日の命をつなぐことにも苦労しています」。


増元照明さんは、もし愛する家族が北朝鮮で死去したとしても、それをもって救出活動をやめることにはならないと話す。


「仮に死亡が証明された場合は、遺骨を返すよう求めます。それが日本人の精神性です。日本政府に対しても、拉致被害者を救出できていないことの責任を追及し続けます。政府が『認定』した拉致被害者は17人ですが、北朝鮮にはもっともっと多い、100人以上の被害者がいると考えています。他にも拉致被害者がいるなら、その人たちに何があったのか明確にされるべきです。ですから、近い将来に私たちが活動をやめることはありません」


北朝鮮は2014年、拉致を認めた13人のうち日本に帰国していない8人について、再調査を開始することに同意した。ただ、死亡したとの発表を変えたわけではなかった。再調査をめぐる日朝のやりとりは2016年まで続いたが、北朝鮮の核実験に対して日本が制裁措置を取る中、打ち切りとなった。


横田めぐみさんの父の滋さんは、東京・六本木の活力あふれる、きらびやかな街の光の中を娘と一緒に歩くことを夢見た。一方、母親の早紀江さんは、めぐみさんと二人きりで野原に寝転がって空を見上げ、ただ静かで穏やかな時を一緒に過ごせるよう、神に祈った。


早紀江さんはめぐみさんに宛てて手紙を書き続け、どうにかしてその言葉が届くことを願い、それを公表している。


昨年2月、滋さんが亡くなる前に産経新聞のウェブサイトに掲載された手紙では、次のように記した。


「めぐみちゃん、こんにちは」


「そう、のんきに呼びかけるのも戸惑う思いです。元気にしていますか」


「お母さんは今、一生懸命に毎日を生きています。体中に衰えを感じ、日々しんどく感じます。そして、病院で必死にリハビリするお父さんの姿を見ると、『一刻も早く、めぐみと会わせてあげなければ』という焦りで全身がしびれます」


「これが老いの現実です。お父さんと、お母さんだけではありません。すべての家族が老い、病み、疲れ果てながら、それでも、被害者に祖国の土を踏ませ、抱き合いたいと願い、命の炎を燃やしているのです」


「私たちに、残された時間は本当にわずかです。全身全霊で闘ってきましたが、もう長く、待つことはかないません」


「次の誕生日こそ、あなたと一緒に祝いたい。それを実現させるのは、日本国であり、政府です。政治のありようを見ると、『本当に解決するのか。被害者帰国の道筋を考えているのか』と不安や、むなしささえ、感じることがあります」


「たけり狂う暴風にさらされながら、今日まで何とか生きてくることができました。めぐみと同じように、大きな力に支えられ、生かされてきたことに、感謝するばかりです。私たちは一人ではありません。だからお母さんは、すべての皆さまのことを思い、今日も祈ります」


「すべての被害者を日本に帰国させるためには、とてつもないエネルギーが必要です。日本自らが立ち上がるのはもちろんのこと、世界中の勇気、愛、正義の心が必要です。今一度、北朝鮮で捕らわれ救いを待つ拉致被害者のことを心に描いてください。そして、思いを、声にしていただきたいと願います」


「めぐみちゃん。お父さん、弟の拓也、哲也と一緒に楽しく暮らした日々を取り戻すため、お母さんは全力を尽くします。84歳の誕生日を迎え、その思いはみじんも揺るぎません。どうか健康に気を付けて、強い望みをもって、元気でいてくださいね」