Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

日豪がインド太平洋地域の核として重責担う訳

強硬な中国を牽制し、民主主義を守るために
API地経学ブリーフィング
2021年02月15日
「民主主義の後退」はこれからも続いていくのだろうか
米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。
独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。
2021年は「デモクラシー」にとって試金石に
2021年は、多くの不透明性や不安定性とともに幕を開けた。1月6日の連邦議会乱入事件は、長年、民主主義諸国において盟主の役割を果たしたアメリカの信用が大きく揺らいだ瞬間でもあった。他方で中国政府は、経済活動が勢いよく再開したことを世界にアピールし、民主主義体制が持つ脆弱性を繰り返し批判して自らの政治体制への自信を深めている。
アメリカに本部を置く国際NGO団体であるフリーダム・ハウスがまとめた年次報告書によれば、過去14年間にわたって、「民主主義の後退(democratic decline)」が続いているという。このような民主主義の後退と権威主義体制の台頭は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、よりいっそう進行しているようだ。
他方で中国は、権威主義体制下で技術革新を次々と成功させ、イノベーションにおける優位性を確立しつつある。さらには、ミャンマーにおけるクーデターと、それによる民主的な政治体制の権力喪失は、東南アジアに暗い影をもたらしている。はたして民主主義体制は、最適な政治体制なのであろうか。多くの途上国政府の中でそのような疑問が抱かれても、不思議ではない。
多くの政治学者が近年指摘しているように「民主主義の後退」がこれからも続いていくのだろうか。あるいは、2度の世界大戦と冷戦を勝ち抜いてきた民主主義諸国は、中国の台頭という新しい挑戦に対しても、その優位性と魅力を十分に示すことが可能なのだろうか。2021年はそれを占ううえでの重要な分岐点となるであろう。そして、菅義偉政権下の日本外交にとって、試金石となる問題ともなるであろう。
ジョー・バイデン大統領は、昨年の大統領選挙の最中に、「デモクラシーのサミット」の開催を重要な外交目標に掲げた。大統領選挙に勝利した後に、直ちに日本、オーストラリア、韓国といった民主主義諸国と、まず電話会談を行ったことは、そのような自らの立場を示すものでもあった。
さらに、EUを完全に離脱したイギリスは、2月1日に環太平洋経済連携協定(TPP)への加盟申請を行うことで、よりいっそうインド太平洋地域への関与を強める意向を示した。イギリスのTPP参加は、この地域におけるルールに基づく開かれた国際秩序を維持していくうえで、日本にとっての重要なパートナーとの協力関係を強化することにつながるだろう。さらに、イギリスにとってはコモンウェルスの中核的な諸国であるオーストラリア、カナダ、シンガポールなどとの協力関係を強化する契機になる。
中国政府が、海警法改正により、尖閣諸島や台湾に関してより強硬で、武力行使も辞さない威圧的な姿勢を示す中で、日本はほかの民主主義諸国との協力を強めて中国の国際的ルールを無視するような行動を牽制しなければならない。
そのような中でイギリス政府は、今年G7サミットの開催国として、インド、オーストラリア、韓国というインド太平洋地域の3つの民主主義国をサミットに招き、「7+3」でデモクラシーの10カ国、いわゆる「D10」によるサミットとする意向を明らかにした。それがどのような内容の会合となるかは未知数であるが、もしも民主主義諸国の協力が今後強化されていくとすれば、2021年はデモクラシーが勢いを取り戻す年として記憶されることになるのではないか。
日豪が中核となる「自由で開かれたインド太平洋」
そのようなインド太平洋地域における民主主義の将来を考えるうえでカギを握るのが、日豪関係である。オーストラリアのモリソン首相は、コロナ禍となってから最初の外国訪問として、昨年11月17日に日本を訪問して菅義偉首相との対面での首脳会談を行った。そこでは友好的な空気の中で会談が行われ、日豪関係が「基本的価値と戦略的利益を共有する『特別な戦略的パートナー』」であり、両国が「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて共に取り組んでいく」ことが確認された。
日豪関係は一般的な二国間関係にとどまるものではなく、インド太平洋地域における多国間協力の推進のための「エンジン」になりつつある。かつて太平洋戦争で激しい戦闘を行った両国の協力関係は、ヨーロッパ統合における仏独関係にも比肩するものとなるかもしれない。
ともにアメリカの同盟国である日豪両国は、1980年代にはアジア太平洋地域における地域協力を主導していき、さらに現在では「自由で開かれたインド太平洋」をもっとも強力に促進する2カ国となっている。さらに両国は、環太平洋パートーシップに関する包括的および先進的な協定、いわゆるCPTPPに参加しており、その中核的な2カ国となっている。このCPTPPにアメリカ、中国、インドというこの地域の3つの大国が参加していないことを考えると、日豪関係の重要性が浮き彫りになる。
さらには、日米豪印の4カ国は、この地域の主要な民主主義諸国として、いわゆる「クアッド」としての4カ国安全保障協力を促進してきて、10月6日には東京でその4カ国外相会談が開かれた。また、在日米軍基地と在豪米軍基地は、インド太平洋地域における米軍の活動の不可欠な礎石となっている。アメリカは、日豪両国との緊密な同盟関係なしでは、この地域で積極的な活動をすることは困難なのだ。
米英のインド太平洋関与を確保せよ
このような日豪間の緊密な協力関係を戦後史の中に位置づけると、とりわけ興味深いといえる。というのも、1951年9月に戦争に敗れた日本との講和条約となるサンフランシスコ講和条約を締結した諸国の中では、オーストラリアこそがもっとも強硬な反日感情を抱き、また過酷な講和条約の条件を求めていたからである。
さらに興味深いことに、このサンフランシスコ講和会議に至る過程で、アメリカのとりわけ国務省が提案していた集団防衛枠組みとしての「太平洋協定(a Pacific Pact)」を形成しようとしたときに、オーストラリア政府の最も強硬な反対によって実現が阻まれていた。
そもそもこの構想は、フィリピン政府の提唱で、「アジア版NATO」を創ろうとしたことと、その要請にアメリカ国務省が応えようとしたことがその起源であった。一時期、アメリカ政府は真剣にその実現可能性を検討して、日本政府やイギリス政府とも交渉を行ったが、結局その「アジア版NATO」が挫折した最大の理由は、日本を最大の脅威と捉えていたオーストラリア政府の反対であった。
それまで、大洋に囲まれていたオーストラリアは、長年、安全保障上の脅威とは無縁であった。ところが、日本軍による1942年2月のダーウィン空襲、さらには同年5月のシドニー港攻撃は、オーストラリア人の安全保障認識を根底から揺るがすことになる。
そのことが、オーストラリアが戦後、イギリスから離れてアメリカに接近して、いわゆるANZUS条約(太平洋安全保障条約)を1951年9月にアメリカおよびニュージーランドと締結する契機となる。日本を最大の脅威とみなすオーストラリアにとっては、日本との間で安全保障条約を締結することなどは、とうてい受け入れられないことであった。
戦後の日本の太平洋政策は、日豪和解の歩みとともに進展していった。さらには経済的な相互依存関係、文化交流の発展が、両国の関係をより緊密なものとした。2014年7月にオーストラリアのキャンベラにある国会の両院総会で行った安倍晋三首相の歴史認識に関する演説は、そのような日豪和解をまさに完結させるに相応しい画期的な内容であった。もはや、歴史認識問題は日豪安保協力を促進するうえでの障害とはなっていない。
とはいえ、日豪両国の協力のみでは、「自由で開かれたインド太平洋」の促進にも限界がある。中国が海警法を改正し、海洋覇権をめぐって、より強硬な姿勢を示すことを考慮すれば、世界最大の軍事大国であるアメリカの関与なくして日本もオーストラリアも死活的な利益や自国の安全を確保することは難しい。
さらには、2月1日にイギリスがTPP加盟申請を行い、また「クアッド」の4カ国防衛協力の枠組みへの関与を示唆するようになったことで、この地域においてルールに基づいた国際秩序の確立が進行するであろう。この地域における戦後体制の基盤、いわゆるサンフランシスコ体制を構築したのが、米英の2カ国であった。その両国がいま、インド太平洋地域への関与を再び強化しつつあることは日本にとっても歓迎すべきことだ。
日豪に求められる積極的な役割
不透明で不安定であったインド太平洋地域の将来は、菅政権の日本とモリソン政権のオーストラリアが中心となり、バイデン新政権のアメリカ、そしてさらには「グローバル・ブリテン」というスローガンを掲げるEU離脱後のイギリスという、2つの民主主義国の強力な支援を得て、日豪両国はより積極的な役割を担うことが求められる。
そのうえで、イギリスのコーンウォールで6月に行われる予定のG7サミットは、実質的には1回目の「D10サミット」として、民主主義諸国がその結束と優越性を世界に示す重要な機会となるであろう。そしてその果実として、「自由で開かれたインド太平洋」がこれからのこの地域における中核の理念として、幅広く共有されることになるのではないか。