ネコウヨの散歩

ネコと憂国

今も色鮮やかによみがえる軍艦島での日常生活

坂本 道徳,佐々木 和義 2021/02/28 06:00
現在の軍艦島(写真:HEMIS/アフロ)© JBpress 提供 現在の軍艦島(写真:HEMIS/アフロ)
 軍艦島で最後に私が住んでいたのは、65号棟最上階の9階だった。正式名称は「報国寮」で、昭和33(1958)年に10階建の新65号が建設されるまではL字型で、屋上には端島幼稚園と保育園があった。島一番のマンモス棟で、昭和40年代には約340世帯が暮らしていた。その後、コの字型となった建物の下には公園があり、一日中、子供たちの声が聞こえる賑やかな場所だった。


 65号棟は各部屋のベランダが向き合う構造で、9階の部屋のベランダから各世帯のベランダが見え、夜になって電灯が灯った各部屋の生活が手に取るように見えた。潮風が吹いていない日のベランダはファッションショーのように色とりどりの洗濯物が下がっていた。厚手のカーテンを引くことはなく、互いの生活が見えていたが、誰も隠そうとはしなかった。あえて覗くようなことはしないし、プライバシーを気にすることもなかった。


 父はこの張り出しのベランダに畳を一枚敷いて、私の部屋を造ってくれた。島の平均的な家族構成は親子5人で、多いところは8人。六畳と四畳半と台所程度の狭い空間に小部屋や小屋を造って効率よく暮らしていた。今も船からその名残が垣間見える。


 水洗トイレはなく、モノが下へと落ちていく落とし便所だった。ゴミも各階に設けられたダストシュートから落としていた。効率的に建物の機能性を追求した設備だったのだろう。下に集まったゴミはリヤカーで焼却炉に運ばれた。ゴミの分別が厳しくない時代で、ゴミを捨てる苦労はなかったようだ。以前はゴミを海に捨てていたようだが、衛生面から中止された。


 私が65号棟に移る前に住んでいた16号棟や17号棟など、日給アパート(注)のトイレは、部屋にはなく共同だった。昼でも裸電球を点けなければならない暗さで、夜にトイレに行く時には、少なからぬ恐怖感を抱いたことを思い出す。部屋を移る時には、できるだけトイレに近い部屋になればいいと願った。


注: かつて日給制を取っていた名残で、日給制で働く鉱員が住むアパートは日給アパートと呼ばれた


 昭和41(1966)年頃まで、炭鉱の鉱員や職員の勤務状況、家族の人数などの点数制によるランク付けで引っ越し先のアパートを配分されたが、私たちが過ごした時代は部屋さえ空けば比較的簡単に引っ越しできたようだ。8年の間に3回引っ越し、65号棟で閉山を迎えたが、トイレ付きの部屋に住むことはなかった。


島の社交場だった風呂場
「4時に下風呂に行くけん、待っとって・・・」。学校が終わると、そんな会話を交わした。風呂は第二の社交場だった。第一の社交場は学校で、風呂は裸同士の付き合いがあった。島には上風呂と下風呂、31号棟の地下風呂があり、30号棟近くの上風呂は下風呂より狭いものの、山間部に向かう窓があって、明るく一番のお気に入りだった。


 61号棟の地下にあった下風呂は大人でも20人近く入れただろう、比較的広かった。銭湯みたいなものだが、お金を払うことはない。炭鉱の共同風呂は、すべて会社が経営しており、お金は要らないが時間帯が決められていた。昼3時から夜8時までだったようだ。浴場の中に「風呂は八時までにはいりませう」という看板があったように思う。


 浴場は女性や高齢者と子供たちばかりで、父親たちと顔を合わせることはほとんどなかった。父親たちは鉱員専用の風呂に入ってから帰宅したからだ。3時過ぎの一番風呂から6時過ぎまでよく遊んでいた。仲間と話すのが楽しくて、2~3時間も入っていたものだ。


 建物の屋上は、島のコミュニティを語る上で欠かせない場所である。普通の屋上と違ってさまざまに使われた。


 当時、屋上の端には、1メートルおきにテレビアンテナが並んで林を形成していた。ベンチやブランコもあった。夏の夕方になると、1人、2人と集まってくる。ギターを片手に歌う者、小学生や中学生、近所のおじさんやおばさんなど、いろいろな意味での溜り場だった。屋上に行くと誰かが居る──。そんな感じの開放感がある楽しい場所だった。


 私は屋上近くの部屋の窓から島の建物を見るのが好きだった。屋上に友人を見つけるとそこに行く。見張り台のような場所だった。


 夕闇が迫ると水平線に漁火が灯る。島の部屋にも明かりが灯り、遠くからだと巨大な客船のように見えただろう。まさに軍艦島だ。私たちは緑の屋上で、そんな夏の1日をのんびりと終えたのだ。屋上はまたデートの場所でもあった。思春期の子供たちにとって、狭い島のデートコースは屋上と神社くらいしかなく、中でも高い建物の屋上は格好の場所だった。男女交際は開放的だったかもしれない。


先生と過ごした濃密な時間
 学校の昼休みといえば給食だが、島では昭和45(1970)年まで給食はなかった。3時限目が終わると牛乳が配られ、それを飲んで昼休みまでの1時間、授業を受けた。


 昼食は弁当を持参するか、自宅に帰って食べるかだ。自宅アパートまでの距離は知れている。家まで走って母親が作った昼ご飯を頬ばると、そそくさと学校に戻った。決められた時間で食べる昼食は簡単で、当時は弁当持参の子が少しうらやましいと感じたこともある。


 食事を終えた小学生、中学生は、昼休みを楽しんだ。狭いグラウンドにひしめきあって遊ぶ者、教室で読書をする者、学校の廊下で走りまわる者、それぞれが短い昼休みを楽しんだ。


 私の中学校時代、校舎の6階の端に防音装置が施された音楽室があり、海を眺めながら歌っていたが、音楽の授業は昼休み後が多く、先生のピアノの音が子守唄になったことも少なくない。


 小中学校の先生は、ほとんどが島に常駐して、島の生活に溶け込んでいた。独身の先生は寮に住み、家庭がある中学校の先生は「ちどり荘」に、小学校の先生は公営住宅の13号棟に住んでいた。


 独身の先生たちの宿舎は上風呂に近い6号棟で、夜になるとよく遊びに行っていた。学校の問題や進学、友達関係など、いろいろな相談に乗ってもらった。島に住む先生と生徒は、かなり親密だったと思う。


 先生と生徒の間に垣根はなかった。困った時には、先生に相談に行くのが常で、こちらから押しかけて相談に乗ってもらう感覚だった。今も健在な先生たちは同窓会で引っ張りだこだ。こういう先生にめぐり逢えた大きな要因は島特有の環境だろう。


 最近の教育現場で見られるさまざまな問題は、島では考えられない。叱る時は徹底的に叱り、誉める時はわが身のように喜んでくれた。親が先生を責めることはなく、間違った本人たちをたしなめた。先生はまた、悩みがありそうな生徒には進んで声をかけ、放課後や夜に自分の宿舎で話を聞いた。就職や進学は、先生とじっくり話してから最後に親と相談する。それほどまでに先生を信頼した。親しみを込めてあだ名で呼んだ先生もいた。


 端島のグラウンドで、100メートルの直線を確保することはできない。もちろん、運動会も直線コースはほぼなく、走り出したらすぐにカーブ、直線かと思うとすぐにカーブに差し掛かる。徒競走はカーブに強くなる。生活の中でも、狭い空間で常に障害物に当たるので、反射神経は良くなっただろう。


 島は本当にスポーツが盛んだった。閉山の2年ほど前に体育館ができたが、私は一度も使ったことがない。スポーツクラブは主にグラウンドを利用した。バスケットやバレーボールなど、60メートル四方の狭いグラウンドでひしめきながらやっていた。


 テニスは病院の前にコートがあって恵まれていたが、バスケットやバレーボールは自分たちでコートを整備し、石などを取り除いてから練習を始めるのが日課だった。当時、サッカーは野球に次いで人気があるスポーツで、島でも盛んだったが、放課後の狭いグラウンドではできず、日曜日などの休みに楽しんだ。


 正式なサッカークラブではない。誰かがボールを蹴り始めると、アパートの窓から見つけた人たちが下りてきて、人が増えるとチームに分かれて試合をする。そんな自然発生的なサッカーだった。ゴールポストはなかったから、鉄棒の隙間をゴールにした。キーパーがボールを捕球する時に勢い余って鉄棒の柱に頭をぶつけたこともたびたびあった。


年中行事だった台風の思い出
 中学2年生の時だったと思う。台風何号だったかは定かでないが、騒ぎが起きたことがある。


 普段、島の人たちが台風で騒ぐことはなく、年中行事の一つという感覚だった。島は台風で多くの被害を受けたが、それでひるむような人たちではなかった。私も岸壁で台風の大波を眺めるのが好きだった。呑み込まれそうな大波の寄せては返す様を楽しんだ。夜に家でじっとしていると、建物が揺れることがあったし、波しぶきが9階のベランダまで上がってくることもあった。


 自宅で台風をやり過ごしていたが、退屈になったので51号棟の友達の家に遊びに行った。夜9時頃だっただろうか、それまで聞いたことがない大きな音がアパート中に響いた。皆がアパートの外に飛び出すと、見慣れたものが落下していた。端島神社の屋根だった。日給社宅(16~20号棟)と51号棟の間に吹き飛ばされてきたのである。


 いつもは人通りが絶えない端島銀座と呼ばれた場所だが、台風で誰もいなかったことが幸いして犠牲者は出なかった。その数分後に風がぴたりと止んで、「台風の目」に入ったと近所の大人に教えられた。30数年経って本殿の屋根がなくなった今でも神殿の屋根はしっかり残っている。4本のコンクリートの足がこの神殿を支えているのは遠くからでもよくわかる。


「不夜城」と呼ばれた軍艦島の夜
 不夜城と呼ぶのがふさわしいほど、夜の島から明かりが消えることはなかった。炭鉱は24時間操業で、休むことなく働き続ける。働く人と送り出す家の明かりが常にあった。裸電球は、派手さはないが温もりがある。


 一番方(注)の酒席が最高潮に達する頃、二番方が帰ってきた家が明るくなる。三番方を送り出す家に明かりが灯る頃、一番方は眠りに入る。二番方の灯が消える頃、一番方を送り出す家に明かりが灯る。島の明かりは絶え間ない。


注: 炭鉱は三交代制で、一番方は朝から夕方まで、二番方は昼から夜まで、三番方は深夜から朝方までの勤務だった


 一つひとつの明かりに家庭があり、家族がいた。島から出かけて夜に帰ると、島のあちらこちらから漏れる明かりに安堵感を覚えたし、船が桟橋に近づくにつれて、人々の声が漏れ聞こえてくる気がした。


 私たち子供もかなり遅くまで友達の家で遊んでいたし、夜中に帰っても叱られることはほとんどなかった。鍵をかけることはなく、入り口を叩いて寝ている家族を起こす必要もなかった。行き先を言えば、親は安心していたのだろう。狭い島で、探すほどでもないと考えていたかもしれない。


 友達の家族も帰れと言うことはなく、子供たちの自主性に任せていた。テレビゲームがない時代、もっぱらレコードを聞いたり、それに合わせて歌ったり、屋上に出て取りとめのない話をしたり。ただ父親の勤務状態には気をつけて、今日は早めに帰ろうとか、静かに遊ぼうとか、子供なりに暗黙の了解があった。


 いろいろな意味で、公共機関として活用されたのは公民館と映画館だったと思う。映画館は本来の機能に加えて、山神祭の後のカラオケ大会や余興の場になるなど集会場の役割を果した。公民館も同じく文化施設として使われた。生け花教室や料理教室、カルタ教室、ボーイスカウトや老人会の集会、また選挙の際には投票場として使われた。


 長崎県立高島高校に通学する船が欠航になると、自習教室になった。1階に事務所、2階に料理教室などがあったように思う。3階は畳の部屋で防音設備もあり、多くの集会に利用された。


 私はもっぱらボーイスカウトの集会で利用した。西彼五団の端島ボーイスカウト「はと班」の班長として、7名くらいの隊員の世話をした。手旗信号やモールス信号の練習など、「備えよ常に」を合言葉に活動していた。今でも手旗信号を打てるし、いろんなロープの結び方ができる。ここで学んだことは社会に出てから役立つものがあったと思う。


 島は石炭を採掘した人々だけではなく、人が生きる原点を語ろうとしていたのかもしれない。