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ワクチン開発のカギ「病原体」を手に入れる裏側

どこかが独り占めしたらどういうことになるか
阿部 圭史 : アジア・パシフィック・イニシアティブ客員研究員
2021年03月18日
感染症危機管理の世界における急所とは、ワクチン開発のもととなる病原体の入手です。どこかの国が病原体を独占しようとしたら、どういうことになってしまうのでしょうか(写真:ロイター/アフロ)
21世紀に入り、テクノロジーをめぐる争いが激化している。米中貿易戦争に象徴されるように、国家が地政学的な目的のためにテクノロジーをはじめとする経済的要素を武器として使う状態がより顕著になり、経済安全保障が、伝統的な国家安全保障と同じように重要となる地経学の時代に入ったとも言われている。
米中覇権競争の主戦場は、半導体だ。半導体がなければ、スマホもパソコンも自動車も電車も動かない。『地経学とは何か』を記した船橋洋一氏は、「人工知能(AI)の裏の半導体、半導体の裏のプレシジョン機器、その裏の機微マテリアル、さらにはその裏のケミカルとさかのぼり、相手のチョークポイント、つまり急所を抉る地経学の攻防が始まっている」と述べている。
感染症危機管理の「急所」は病原体入手
テクノロジー覇権のチョークポイントとしてアメリカや中国が半導体に狙いを定める一方、感染症危機管理の世界でもチョークポイントをめぐって、先進国と途上国の攻防が繰り広げられてきた。
感染症危機管理のチョークポイントとは、病原体(細菌やウイルス)の入手である。感染症危機管理におけるあらゆる活動の最上流に位置するのが、病原体の存在だからだ。
感染症危機管理では、自然発生的であれ人為的であれ、Disease Xが発生した場合、その原因となる病原体を取得のうえ、ワクチンや治療薬といった危機管理医薬品をいかに迅速に開発するかが、その後の未来を左右する。
しかし、2006年、特定の国がこのチョークポイントを締めにかかる事態が発生した。インドネシアが、H5N1鳥インフルエンザウイルスの国際社会への共有を拒否したのだ。
1997年、それまで鳥類をはじめとする動物界に限局していたH5N1鳥インフルエンザのヒトへの感染が、香港で初めて確認された。その後、アジア各国に拡散し、2005年にはインドネシアでもヒトへの感染が確認され、死者が出ていた。
当初、インドネシアは国際社会に対してワクチン開発のもととなるウイルス株を共有していた。しかし、それをもとに先進国企業が作成する危機管理医薬品へのアクセスができなかった。この事態を受け、2006年12月、当時のインドネシア保健相は、自国原産のウイルスに対する「ウイルス主権(Viral Sovereignty)」を主張し、ウイルス株共有の拒否を宣言。国際社会に衝撃が走った。
焦った各国は、世界保健機関(WHO)の仲介で交渉を開始。インドネシアがH5N1鳥インフルエンザウイルス株の共有を再開する代わりに、2007年5月のWHO総会で、国際社会へのウイルス株共有とワクチンへの公平なアクセスを保証するための枠組みを創設する交渉の開始が決議された。
4年の交渉の末に創設されたのが、パンデミックインフルエンザ事前対策枠組み(PIPフレームワーク)である。WHOが管理・運用するPIPフレームワークは、①リスク評価およびワクチン開発のために、すべての国が脅威となりうるウイルスを供与すること、②すべての国に対してパンデミックインフルエンザワクチンへの公平なアクセスが保証されること――を目的としている。
季節性インフレンザの監視はどう行われているか
以来、新型インフルエンザウイルスの取得や、それらを用いたワクチンの製造は、すべてPIPフレームワークのルールの中で行われている(季節性インフルエンザウイルスや、ほかの病原体は対象外)。
季節性インフルエンザを含め、世界中のインフルエンザの流行状況の監視は、Global Influenza Surveillance & Response System(GISRS)というWHO管理下の国際監視ネットワークが行っている。GISRSに参加する世界各国の専門機関が分離したウイルス株は、日本やアメリカなど合計6つのWHOインフルエンザ協力センター(日本は国立感染症研究所)に集約され、流行状況が評価される。
季節性インフルエンザウイルスは変異と流行を繰り返す特徴があるため、WHOインフルエンザ協力センターが毎年一堂に会して選定会議を開催し、ワクチンとして使用するべきウイルス株を科学的な観点で推奨、各国で最終決定している。
PIPフレームワークも、ウイルス株の共有についてはGISRSの枠組みを介して行う。しかし、季節性インフルエンザとは異なり、企業が新型インフルエンザワクチン開発のためにウイルス株を入手するためには、PIPフレームワークへの加入が必須であり、金銭的および、物的貢献が要求される。
まず、企業は、加入にあたり年会費をWHOに支払う。そのうえで、加入企業は、GISRSの枠組みで分離されたウイルス株をWHOインフルエンザ協力センターから提供してもらうことにより、初めてワクチン開発が可能となる。
企業は、ウイルス株提供を受ける際に、WHOと契約書を交わす。この契約事項には、企業が生産するワクチンまたは抗ウイルス薬の一定量をWHOに寄付、または安価で提供することが含まれる。これらの危機管理医薬品は、購入余力のない途上国向けに分配される。
このようにして、感染症危機管理のチョークポイントが締まることのないよう、新型インフルエンザに関する利益の公正かつ衡平な配分(Access and Benefit Sharing=ABS)が図られている。
ABSに関する国際的な枠組みとしては、名古屋議定書も重要だ。PIPフレームワークは、パンデミックを引き起こす可能性のある新型インフルエンザウイルス株のみを対象とする一方、名古屋議定書はあらゆる病原体の入手に広く影響を及ぼしかねないとして、各国が懸念している。
名古屋議定書は、生物多様性条約の目的の1つである「遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分(ABS)」の実効性を高めることを目的とした法的拘束力を有する国際文書。同文書は遺伝資源(有用な遺伝子を持つ動植物や微生物)を利用した場合に得られた利益について、金銭の支払いや共同研究への参加を通じて、資源提供国と利用国とで分け合うことを定めている。
具体的には、病原体を入手する企業は、病原体原産国政府による「事前同意(PIC)」の取得に加え、原産国内の実際の病原体提供主体(研究所など)との間で「相互合意条件(MAT)」という契約を締結する必要がある。その際、病原体原産国に対する利益配分規定が盛り込まれる場合もありうる。
日本の前に立ちはだかる課題
こうした国際枠組みは、感染症危機管理のチョークポイントが締まることの防止に貢献しているように見える。しかし、現実はそう単純ではない。日本の経済安全保障に悪影響を及ぼす可能性のある課題も指摘されている。
まず、名古屋議定書の存在そのものが、確立されたPIPフレームワークの存在を脅かす可能性がある。現時点では、理論上、名古屋議定書はあらゆる病原体に適用される(ABSについて規定したほかの国際文書がある場合には適用しない、とも規定しているが、PIPフレームワークがそれに含まれるか否かは確かではない)。
企業の新型インフルエンザウイルス入手に際し、PIPフレームワークに重複して名古屋議定書が適用されてしまう場合、病原体原産国政府、および提供者と利益配分規定のあるPICやMATを締結する事務手続きも生じる。結果、そのコストはワクチンの価格に上乗せされると同時に、契約締結作業によって迅速性が失われるおそれがある。
季節性インフルエンザウイルスをPIPフレームワークの適用範囲に含めるか否かという議論がWHOの場でなされているが、その場合の悪影響も懸念される。PIPフレームワークが季節性インフルエンザウイルスに対しても適用されることになれば、企業は毎年WHOに対して金銭的、および物的貢献をせねばならず、そのコストは毎年のワクチンの価格に上乗せされるだろう。
万一、名古屋議定書も季節性インフルエンザウイルスに適用されてしまう場合は、コスト上乗せに伴うさらなる価格上昇に加えて、病原体原産国政府や提供者とのPICおよびMAT締結作業がワクチン生産プロセスを遅延させる可能性も出てくる。
遺伝子デジタル情報の取り扱いの問題もある。今後、テクノロジーの発展により、病原体そのものではなく、病原体の遺伝子デジタル情報のみを用いてワクチンなどを開発する技術が普及する可能性が想定されている。現時点で、PIPフレームワークや名古屋議定書が、病原体の遺伝子デジタル情報にも適用されるかは結論が出ていないが、適用されれば、将来の円滑な研究・開発・製造に影響を及ぼしかねない。
このように、病原体、すなわち感染症危機管理のチョークポイントをめぐる国際政治は、日本国内のワクチン企業の研究開発と利益に加え、国民へのワクチン安定供給に大きな影響を及ぼす可能性のある、経済安全保障上の重要な問題なのだ。
「未知の感染症」が発生したときの問題
新型コロナ危機は、病原体をめぐる国際政治に再び課題を投げかけた。新型コロナ危機対応の初動において、中国が病原体を共有しなかったからだ。その後、あっという間に各国が自国内に病原体を保有することになったため、結果的に問題にはならなかった。しかし、拡散力は劣ってもが致命率が高く、結果的に多くの死者を出す可能性のある「Disease X(未知の感染症)」が発生した場合には、病原体をめぐるABSが大きな問題となる。
このような事態を想定したのか、WHOは、ワクチンなどの危機管理医薬品を「国際公共財」とみなしてその研究開発を促進するために、人類に脅威を及ぼす病原体を一体的に保管することを目的として、タイ、イタリア、スイスと連携し、2020年11月に「BioHub」というプロジェクトを発足。病原体の保管場所にはスイスのBSL4施設(危険な病原体を扱うことのができる研究施設)が指定され、2021年1月時点で南アフリカが新型コロナの変異株を早速提供している。
以前(「日本が「国産ワクチン」開発できていない背景)、日本がとくに強い脅威認識を持つべき感染症は、新型インフルエンザとDisease Xの2つであると述べた。PIPフレームワークは新型インフルエンザウイルスを対象とし、BioHubはDisease Xを対象としている。現時点では、PIPフレームワークとは異なり、BioHubへの病原体の提供は「任意」だとWHOは述べている。しかし、各国の出方次第では、BioHubがDisease Xに関するABSを担保するための強力な枠組みと変貌する可能性もありうる。
BioHubは、Disease Xに対する感染症危機管理のチョークポイントが締まらないようにするための国際公共財として機能し、国際公益に資する可能性はある。しかし、同時に、日本のワクチン企業や国民へのワクチン安定供給に影響を及ぼす負の側面もないとは限らないため、注視して行く必要がある。
PIPフレームワーク・名古屋議定書・BioHubなど、感染症危機管理のチョークポイントを巡る経済安全保障の問題は、複雑である。日本政府でもこの問題について十分に理解している人間はほぼいないと考えられ、日本として今後の対応を考える上で大きな課題である。
また、日本が産業界と国民を保護するという国益を守りつつ、国際公益にも貢献するためには、官民の連携が必須である。政府は産業界に対して、PIPフレームワーク、名古屋議定書、BioHubに関する国際社会の議論の内容をタイムリーに共有して対策を促す必要があるし、産業界は政府に対して要望や課題をつねに共有し、国際社会における政府の外交交渉を支えなければならない。
感染症危機管理に関する地経学的競争を優位に進めるべく、常設の官民協議の設置も求められる。これは、感染症危機管理のチョークポイントをめぐる争いに対して、国益と国際公益を比較し、日本が外交においてとるべき対策を提供する基盤となるだろう。