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安倍総理の志は死なない!!

「ナショナリズム」が「自由と民主主義」を守る訳 不寛容なリベラリズム、多様性を尊ぶ国民国家

新型コロナウイルスは、グローバリズムがもたらす「負の側面」を浮き彫りにし、「国家」の役割が再注目されるきっかけにもなっている。いわば「ポスト・グローバル化」へ向かうこのような時代の転換期にあって、国民国家、ナショナリズムを根源的に捉え直す書、『ナショナリズムの美徳』がこのほど上梓された。
本書の著者でイスラエルの政治哲学者、ヨラム・ハゾニー氏は、自由と民主主義を守るのは国民国家であるとして、誤解されがちなナショナリズムの価値観を問い直している。その一方で、リベラリズムのパラダイムは、専制や帝国主義と同じだと警鐘を鳴らしている。
トランプ政権の外交基盤となり、アメリカ保守主義再編や欧州ポピュリズムに大きな影響を与えたといわれるハゾニー氏の論考。われわれはどのように読み解けばいいのか。中野剛志氏が解説する。
アメリカ保守主義の再編に大きな影響を与えた書
 『ナショナリズムの美徳』著者のヨラム・ハゾニーは、イスラエルの政治哲学者であるが、聖書研究者でもあり、さらにシオニスト(ユダヤ民族主義者)である。
 聖書研究やシオニズムというと、一般の日本人にとっては、いかにもなじみにくく、縁遠い思想という印象を受けるだろう。それにもかかわらず、本書は、わが国が直面しつつある現実を思想面から理解するうえで、必読と言っても過言ではない。
 その必読であるゆえんを明らかにするのが、本稿の目的である。
 会田弘継・青山学院大学教授によると、アメリカでは、ドナルド・トランプ大統領の登場以降、保守主義の再編が起きており、そして、本書は、そのアメリカ保守主義の再編に大きな影響を与えているという。
 従来、アメリカ保守主義は、自由貿易や小さな政府といった新自由主義、あるいはアメリカ主導による民主的な世界秩序の建設というネオコンの外交戦略と結びついてきた。しかし、近年、アメリカの保守主義者たちは、新自由主義やネオコンの路線から離れ、その思想の中核にナショナリズムを据えるようになってきているという。
 本書は、このアメリカ保守主義の新たな潮流に棹(さお)さすかたちとなった。実際、アメリカの保守系教育機関ISI(Intercollegiate Studies Institute)のコンサーヴァティブ・ブック・オブザイヤーを受賞している。
 2020年の大統領選では、民主党のジョー・バイデン候補が勝利したが、他方で、トランプの得票数も7000万以上となったことは無視できない。また民主党内の路線も一枚岩ではなく、とくに近年躍進した左派の外交姿勢は、自由貿易や世界における軍事的な関与に対する懐疑という点において、アメリカ保守主義の新潮流に近い。
 言うまでもなく、アメリカの政治思想の変化は、わが国に大きな影響を及ぼす。そのアメリカの政治思想の変化に、本書が連動しているのであるならば、それだけでも、われわれ日本人が本書を読むべき理由としては十分である。
「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」
 ただし、本書の重要性は、もっと深いところにある。
 著者のハゾニーは、その立論を古代ユダヤの思想や聖書のなかから導き出しており、さらに自身がシオニストであることを公言している。
 しかし、だからといって、本書を、特定の政治的・宗教的な立場に偏した主義主張の表明にすぎないとみなすのは適切ではない。というのも、本書で展開されている政治哲学は、人間や社会秩序に関する真理にまで及んでおり、その深い洞察は普遍性を帯びていると言えるからだ。
 たとえば、本書第8章において、ハゾニーは政治哲学を「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」に区分する。実は、この区分が、きわめて重要なのである。
 「政府の哲学」とは、内部が統合されて安定した独立国家を前提とし、その下で、政府の最良の形態とは何かを究明しようとする政治哲学である。たとえば、基本的人権、とくに自由が保障された統治形態を理想とするリベラリズムは、「政府の哲学」である。
 しかし、この「政府の哲学」は、あくまでも、結束して独立した国家の存在を前提としたうえで成立しうる政治哲学である。言い換えれば、結束して独立した国家はいかにして可能かという、より根源的な問いに対して、「政府の哲学」は適切な答えを出すことができないのである。
 たとえば、リベラリズムが最良の統治形態とみなす民主政治を考えてみよう。
 民主政治とは何であろうか。それを子どもに聞けば、「みんなで話し合って物事を決める政治」だと答えるだろう。確かに、そのとおりだ。しかし、子どもでもわかる簡単な問題だなどと片付けてはならない。というのも、政治には、どうしても話し合いでは決められない物事というものがあるからだ。
 それは、「みんな」の範囲である。
 「みんなで話し合って物事を決める政治」においては、「みんな」に含まれるのが誰かが決まらなければ、話し合いは始まらない。だから、「みんな」に誰が含まれ、誰が含まれないのかを、「みんな」で話し合って決めることはできないのだ。
 「みんな」の範囲が決まっていることは、民主政治の前提なのであって、したがって、民主的には決められない。ということは、「みんな」の範囲は、非民主的なやり方で決めるしかないということになる。
 「政府の哲学」は、「みんな」の範囲がどう決まるのかについて答えられない。これに対して、「みんな」の範囲を探究する政治哲学に該当するのが、「政治秩序の哲学」なのである。
 「みんな」とは、要するに「集団」のことである。人間は、家族、氏族、地域共同体、クラブ、組合、企業、宗教、そして国家など、何らかの集団に所属することで存在しうる。その集団のうち、「国家」は政治秩序である。なかでも「国民国家」は、「国民」という集団を基礎にした政治秩序(=国家)である。
 したがって、「政治秩序の哲学」は、国家(現代であれば国民国家)を探究の目的とする政治哲学だと言うことができる。
 では、そもそも、人間は、なぜ、あるいはどのようにして「集団」を形成し、所属するのか。これが「政治秩序の哲学」の出発点となる。
 「政治秩序の哲学」は、人間というものは、その本性からして、集団を形成し所属する存在であるという現実を直視し、そのゆえんを探究する。その探究は、いわば社会学や社会人類学のような社会科学的な性格を帯びるだろうし、歴史学的な知見も参照されるだろう。
 ここで重要なのは、「政治秩序の哲学」が問うのは、「人間はどうあるべきか」という「理想」ではなく、人間はどういうものかという「現実」だということである。
 「政治秩序の哲学」はリアリズムだと言うこともできる。これに対して、「政府の哲学」は、「最良の統治形態とは何か」という「理想」を探究する。リベラリズムは、理想を追求する「政府の哲学」である。
 そして、リアリズムが明らかにするのは、政治秩序は自律した個人の合意によって成立するものでないということである。
 たとえば、国家の領土の範囲は、征服や政治的妥協など、歴史的な経緯によって決まったものにすぎず、リベラリズムによって正当化されるようなものではない。だが、国境を、自律的な個人の合意や民主的手続きなど、リベラリズムによって正当化される方法で引き直すなどということが、非現実的であることは言うまでもない。
 政治秩序とは、本質的に、非リベラルなのである。しかし、すべてのリベラルな統治形態は、非リベラルな政治秩序を基礎としている。そして、そのリベラルな統治形態を成立させる非リベラルな政治秩序こそ、ハゾニーが擁護する「国民国家」にほかならない。
「リベラリズム」と「保守主義」は対立する思想ではない
 ここで重要なのは、ハゾニーのリベラリズム批判の視角である。
 本書のなかでハゾニーは、確かにリベラリズムを批判しているが、リベラリズムそのものを否定しているわけではない。そのことを理解するためにこそ、「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」の区分が重要になる。
 ハゾニーは、「政府の哲学」としてのリベラリズムについては、必ずしも否定はしていない。そうではなくて、リベラルな統治形態を成立させる前提である政治秩序は、リベラリズムでは説明できないと言っているのである。
 リベラルな統治形態は政治秩序を基礎にしているのであって、政治秩序がリベラルな統治形態を基礎にしているのではない。だから、リベラリズムは、「政府の哲学」でありえても、「政治秩序の哲学」ではありえない。
 なお、ハゾニーは保守主義者でもあるが、保守主義もまた、「政治秩序の哲学」である。「リベラル派」対「保守派」という通俗的な分類に見られるように、リベラリズムと保守主義は対立する思想とみなされている。
 しかし、政治哲学的な観点から言えば、両者は対立するものというよりは、むしろ、カテゴリーが違うものなのである。すなわち、リベラリズムは「政府の哲学」であり、保守主義は「政治秩序の哲学」なのだ。
 読者にとくに注意を促したいのは、ハゾニーが批判的なのは、リベラリズムそれ自体というよりは、リベラリズムを「政治秩序の哲学」に適用することだということである。もっと言えば、ハゾニーは、リベラルな統治形態を尊重しているからこそ、そのリベラルな統治形態の基礎にある「国民国家」という非リベラルな政治秩序というものを重視しているのだ。
 では、リベラリズムを誤って「政治秩序の哲学」に適用すると、どうなるか。それは、帝国主義を支えるイデオロギーとなる。この点こそ、本書でハゾニーが最も強調する主張である。
 詳しくは本書を味読してもらいたいが、簡単に解説すると、リベラリズムに基づいて政治秩序を構築しようとするプロジェクトは、その善意に基づく動機にもかかわらず、帝国主義を正当化するものとなる。
 それは、リベラリズムの教義に基づく均質な世界秩序を夢想しており、その理想の世界を実現するために、独自の文化伝統をもつ国家を強制的に排除してよいと考えるからである。リベラリズムとは、寛容の精神を称揚していながら、実のところ、不寛容のイデオロギーなのだ。
 逆に、国民国家の独立が担保される世界では、各国民国家の独自の文化伝統や価値観が尊重され、世界の多様性が確保される。多様性に対して寛容な世界こそが、真の意味でリベラルだと言うべきであろう。
「地政学的大変動下」にある現代日本人必読の書
 さて、以上のようなハゾニーの議論は、彼のシオニズムに固有の思想によるものではなく、普遍性を有する政治哲学たりうることは、冒頭に述べたとおりである。にもかかわらず、やはり、イスラエル人という出自と無関係ではないのは、彼の視線が「政治秩序」、なかんずく、結束し独立した国民国家に注がれているということである。
 ユダヤ人は、国民国家というものを望んでも持ちえないまま、迫害されてきた長い歴史を持つ。そして、イスラエルは、つねに極度の地政学的な緊張のなかに置かれている国家である。それゆえ、イスラエル人は、結束し独立した国民国家というものの重要性にきわめて鋭敏にならざるをえないのであろう。
 この鋭敏さは、戦後、軍隊を持たず、自国の安全保障をアメリカに委ね、繁栄を謳歌してきた日本人には決定的に欠けているものだ。
 戦後日本は、アメリカの庇護の下にあって、「政治秩序の哲学」について深く考える必要もなく、リベラリズムやグローバリズムの夢想をむさぼるという贅沢を享受することができた。要するに、世界の現実を知らずに過ごせていたのである。
 だが、拙著『富国と強兵─地政経済学序説』でも論じたとおり、そういう時代は終わった。アメリカの衰退と中国の台頭という地政学的大変動によって、もはや日本は、自国の安全保障をアメリカに委ねることができなくなった。
 われわれは、「政治秩序の哲学」が必須となる厳しい世界を生きなければならなくなったのである。
 だから、本書は現代日本人にとって必読だと言ったのだ。