Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

インフラを守るソフトー江戸を守った江戸市民ー

 From 竹村公太郎
  @元国土交通省/日本水フォーラム事務局長





江戸を守る堤防
 江戸時代、江戸の町に流れ込んでいた隅田川は、洪水で何度も人々を苦しめた。隅田川は荒川の下流であり、舟運で江戸と関東一円を結ぶ大切な川であった。また、隅田川は江戸の湿地帯を流れていたため、利根川のように流路を遠くへ移動させるわけにはいかなかった。
 この江戸の湿地帯の奥に中州の小丘があった。その小丘の上に江戸最古の寺の浅草寺があった。徳川幕府はこの浅草寺の小丘から堤防を築造し、北西に伸ばし、今の三ノ輪から日暮里へ続く高台に繋げる計画を立てた。隅田川の洪水をこの堤防の左岸へ誘導して、隅田川の東側で溢れさせる。このことによって隅田川の右岸の江戸市街を守るという計画であった。
 元和5年(1620年)徳川幕府は、この堤防の建設を全国の諸藩に命じた。浅草から三ノ輪の高台まで高さ3m、堤の道幅は8mという大きな日本堤が、80余州の大名たちによって60日余で完成した。
 (図―1)が、広重が描いた日本堤である、(図―2)が、日本堤によって隅田川の左岸で洪水を溢させたことを示している。しかし、江戸幕府の凄さはこのインフラの整備で終わらなかった。このハードなインフラを守るために、ソフトの政策を加味した。江戸幕府の治水に関する凄さがそこにあった。
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(図―1 広重 よし原日本堤)
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(図―2 日本堤で右岸の江戸市街を守る 出典:内田 昌著「江戸の町(下)─巨大都市の発展」草思社より宮村 忠著「隅田川の歴史」かのう書房をもとに竹村、松野加筆)



堤防を守るソフトウェアー
 堤は土で造られている。ましてやダンプや振動締固機がない江戸時代の堤防は弱かった。土堤を放置すれば草花があっという間に育ってしまう。草花が繁殖すればミミズが発生し、もぐらが穴を掘り、蛇が巣を作ってしまう。21世紀の堤防調査においても、表面から1mの深さまでもぐらの穴だらけだった事例があった。
 地震や大雨も堤防の大敵である。地震は堤防に多くの割目を発生させる。その割れ目を速やかに発見して修復する必要がある。大雨が降れば堤防のあちらこちらで法面は崩れていく。法面が崩れれば、濁流が堤防を破壊してしまう。これらを一刻も早く発見して、修復しなければ土の堤防は機能しない。
 近代になった明治29年、河川法が制定された。河川を維持管理する河川管理者が定められ、それ以降は、国と都道府県の河川管理者によって堤防は巡視され補修されている。しかし、江戸時代にはそのような制度はなく、河川管理者は存在していなかった。江戸の生命線である日本堤をいかに監視し、維持管理していくかが重要な課題となった。
 ここで、江戸幕府はある作戦を立てた。江戸幕府は、江戸市民たち自らに堤防を監視させ、堤防を強化していく作戦を編み出していった。


吉原遊郭の移転
 1657年(明暦3年)の正月、本郷6丁目で火事が発生した。火は強風にあおられ本郷、神田、日本橋、京橋そして浅草を一気に焼き尽くした。10万人以上の命を奪う日本史上最悪の火災となった。
 この明暦大火災の後、幕府は今の人形町付近に広がっていた吉原遊郭を浅草の日本堤へ移転させた。遊郭を移転させる理由は、江戸市内の風紀上の問題と伝わっている。当時、日本堤は追い剥ぎや辻斬りが出没する寂しい場所であった。しかし、江戸には人家が密集していない寂しい場所はいくらでもあった。寂しい場所なら、日本堤に限ったことではなかった。
 江戸幕府はどうしても吉原遊郭を日本堤へ移転させたかった。幕府は遊郭側に夜の営業許可や補償金など有利な条件を提示し、日本堤へ移転させることに成功した。吉原遊郭が日本堤へ移転すると、この堤防の風景は一変した。
 遊郭へ行く客は舟で隅田川を上り、浅草の待乳山聖天に着くと、日本堤を歩いて吉原に向かった。一年中、江戸中の男たちがぞろぞろと日本堤を歩いた。日本堤には物売り小屋も建ち並ぶほどであった。
 広重は(図―1)で、その日本堤の賑わいを見事に描いている。実は、この日本堤の上をぞろぞろ歩く男たちは、この日本堤を踏み固めていた。江戸幕府の狙いはここにあった。江戸中の男たちにこの日本堤を往来させることで、日本堤を締め固める。行き交う男たちの視線が、堤の変状や不審な出来事を発見し、すぐ役所に通報させる。
 江戸中の男たちを、堤防の強化と監視役にする。21世紀の現代でいう河川管理者に仕立てたのだ。


隅田川の新しい堤防
 明暦大火災の際、橋がなかった隅田川に多くの人々が飛び込み大災害となった。その明暦火災の江戸復興のシンボルが、隅田川に橋を架けることであった。江戸中心部の区画整理を行うためにも、隅田川の対岸の土地が必要であった。
 当時、武蔵国の江戸からみれば、隅田川の対岸は下総国であった。その橋の名前は、武蔵国と下総国の両国を結んだので両国橋と命名された。両国橋の架橋以前、隅田川の東側の左岸は大雨のたびに水が溢れる湿地帯であった。その湿地帯の中には、点々と中州が島のように存在していた。江戸の人々は隅田川の対岸の左岸を「向島」と呼んでいた。
 両国橋が架橋さてれて以降、現在の墨田区と江東区などが江戸市内に組み込まれていった。いよいよ世界一の大都市・江戸へと発展していく準備が整った。隅田川の東の左岸を江戸市内に取り込んだからには、もう隅田川の東で洪水を溢れさせておくわけにはいかない。他のどこかで水を溢れさせなければならない。
 以前から隅田川の左岸には中洲が切れ切れに熊谷へ続いていた。江戸幕府はこの中州を本格的な堤防に改築することにした。墨田堤から荒川堤、熊谷堤へと一連の堤防を建設していった。日本堤と一連の墨田堤で囲む一帯で、隅田川を溢れさせる。洪水をここで溢れさせ、江戸に洪水を到達させない治水計画であった。このシステムは機能的には、現在の治水ダムであり、日本歴史上初の都市防災の洪水調節ダムだった。
 (図―3)は、日本堤と墨田堤で江戸を守るシステムを示している。江戸幕府はこの隅田堤でもあるソフトな仕掛けを行った。
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(図―3)



墨田堤での仕掛け
 日本堤が吉原遊郭で賑わったように、対岸の墨田堤でも人々が賑わい、人々の足で堤防を締固め、堤防を監視する仕掛けが必要となった。もう遊郭は作れない。日本堤とは異なる作戦が必要となった。
 ここで、8代将軍吉宗は墨田堤に桜を植えさせた。桜の時期には江戸中の老若男女が隅田堤に訪れた。この一帯の寺社は庭を開放して花見の宴を開くことも許された。この江戸市民の墨田堤のお花見は、21世紀の現在まで続いている。(図―4)が隅田堤のお花見の様子である。
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(図―4)


 墨田堤に桜が植えられただけではない。その墨田堤の周辺に次々と料亭が誘致され、ついには江戸一番の料亭街が生まれていった。それが向島の料亭街である。隅田堤の周辺は三味線の音が流れ、着飾った芸者たちが行きかう華やかな花街となっていった。
 さらに、芝居小屋を浅草に集中させる作戦もとった。浅草の猿若町に江戸中の芝居小屋や見せ物小屋を集めた。江戸中の芸能が浅草に集中し、江戸文化の花が咲きほこっていった。(図―5)が夜もにぎわう猿若町の様子である。この猿若町は、20世紀の浅草六区の芸能娯楽街につながっていった。
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(図―5)
 


ハードインフラを守るソフト
 日本堤では吉原遊郭が賑わい、墨田堤の向島では江戸一番の料亭街が繁盛した。初詣、七福神めぐり、お花見、三社祭、ほうずき市、酉の市そして隅田川の花火大会など、一年を通して催事が浅草一帯で仕掛けられ、人通りが絶えることはなかった。(図―6)が両国橋の花火大会である。江戸は世界最大の都市となった。そして、浅草は世界最大の歓楽街となっていった。
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(図―6)



 日本堤と墨田堤に様々な仕掛けをした幕府の作戦は見事に成功した。男だけではなく女、子供も浅草に集まった。その江戸市民の往来が堤防を踏み固め、江戸市民の視線が堤の法崩れや水漏れ穴を発見した。江戸市民の命と財産を守る日本堤と墨田堤のハードインフラは、江戸市民の文化というソフトウェアーに守られていった。


治水の原則と伝統
 堤防を守るためには、堤防に人々が集まらなければならない。この思想と戦略は江戸幕府から始まったものではない。遡ること4,000年前の中国に行きつく。中国最初の王朝、夏王朝の創始帝王の兎(う)文命は、治水の神様といわれている。兎文命が語った言葉が、21世紀の日本にも伝わっている。
 神奈川県の西に流れている酒匂川の堤防の上に福沢神社が建っている。その福沢神社境内の碑には兎文命の言葉として「堤防を造ったら①石で固めなさい②木を植えなさい、そして、③お祭りをしなさい」と彫られている。(写真―1)が福沢神社の兎文命の碑である。
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(写真―1)



 堤防でお祭りをして共同体の人々が集まること。それが堤防の強化と管理にとって重要なことであることを、紀元前2,000年前の為政者が指摘している。ハードとソフトは並列して存在するのではない。ハードとソフトがお互いを支え合って、流域の共同体の安全を守っていく。
 1㎝でも2㎝でも洪水の水位を下げる治水のハードインフラ。そのハードインフラを強化し、監視していく共同体のお祭りというソフト作戦。このハードとソフトが一体となって、流域の人々を守ってきた。そして、気象が狂暴化していく未来の流域の共同体を守っていく。