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安倍総理の志は死なない!!

ロシアの広い国土が「弱さ」の裏返しと言える根拠

ネコウヨ

西側と政治的に隔てられていても繋がっている

社會部部長 : YouTubeチャンネル「社會部部長」運営者

2025年01月31日

まもなく3年を迎えるロシア−ウクライナ戦争。そもそも、なぜロシアは世界最大の国土を持つことになったのでしょうか。

その答えは、意外にもロシアの「弱さ」にあります。地政学動画で平均150万回再生を記録する社會部部長が、不変の地政学の法則を解説した『あの国の本当の思惑を見抜く地政学』より一部抜粋、再構成してお届けします。



ロシアを数百年悩ませる地形の呪い


強い国は往々にして、元々強いのではなく、元来の弱さを埋め合わせるために強くならざるを得ないものです。ロシアもそのような「弱点を克服して成り上がった大国」です。戦後アメリカで最もロシア事情に精通し、後にアメリカの対ソ政策を主導したジョージ・ケナンは、1946年に、ロシアの行動はその地理的な脆弱さに由来すると指摘しました。

「国際問題に関するクレムリンの神経過敏症的な見解の底には、ロシアの伝統的、本能的な不安感がある。元来これは、獰猛な遊牧民と隣合わせに、広大なむき出しの平野に住もうとした、平和な農耕民の不安であった。その上に加わったのが、ロシアが経済的に進んだ西方と接触するようになったとき、その地域のより有能で、より強力で、より高度に組織された社会に対する恐怖だった。」

ケナンはその翌年にも、ロシアの拡張主義が平野に起因していると述べました。

「ロシアは広大で無防備な平野で、何世紀にもわたって繰り広げられた遊牧民同士の不明瞭な戦いから教訓を得ている……アメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込めでなければならない」

ロシアは平坦な地形に国の命運を左右されてきました。ロシアの始まりは9世紀から13世紀にかけて、今のウクライナからロシアの辺りにあったキエフ・ルーシという国です。この国は一時ヨーロッパ最大の版図を誇るほど栄えましたが、13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受けて滅びました。モンゴル帝国が5300キロ離れたキエフを攻撃できた理由は、ユーラシア大陸を貫く広大な平野にありました。モンゴル軍の騎馬部隊は、この天然の高速道路を遥々縦断してきたのです。

国をなくしたロシア人たちは、北の森林地帯に逃げ込みました。ここも平地で安全ではないにしても、辛うじてモンゴル軍との直接的な戦闘は避けられました。モンゴル軍の武器である馬と弓は、森の中では木に引っかかって使えなかったからです。



モンゴル帝国の支配を抜け出し、東へ


こうしてロシア人たちは現在のモスクワ辺りに落ち着いて、200年にわたってモンゴル帝国に服従することとなりました。しかし、ロシア人たちはこの支配体制の下で徐々に勢力を増していき、1480年には服従を正式に拒否。ようやくモンゴル帝国の支配を抜け出したのです。

モンゴル帝国の支配を破ったロシア人たちは、今度は東へ急速に領土を拡張していきました。元々ウラル山脈の東側には人が多く住んでいなかった上に、銃を得たロシア人とコサック(ロシア辺境地の戦士集団)は、先住民の抵抗に見舞われても比較的容易に制圧することができました。

こうしてロシアの領土は、1700年までにユーラシア大陸の東端に到達。すでにこの頃には、世界最大の面積を誇っていました。しかし、これほど広い領土を獲得してもロシアは依然として地理の呪いからは解放されませんでした。その原因は、西にありました。ロシアの西は依然として開放されていて、西の敵勢力から守ってくれる自然的障壁が何もなかったからです。

ロシアを今日まで悩ませてきた諸悪の根源は、北ヨーロッパ平野です。この平野はフランスのピレネー山脈からロシアのウラル山脈まで広がり、その内側にフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、ブルガリア、カザフスタンと多数の国を含有する、非常に広い平野です。過去500年の間にロシアを本格的に脅かした敵勢力は、すべてこの北ヨーロッパ平野からやってきました。

1605年にはポーランド、1707年にはスウェーデン、1812年にはフランス、1914年と1941年にはドイツが、この平野から来襲してロシアを滅亡寸前まで追い詰めました。ここの敵を誘い込む力は凄まじく、1812年から1941年までの侵攻をすべて数えると、ロシアはこの平野だけで33年に1回の頻度で侵攻を受けたことになります(1853年のクリミア戦争を含めます)。



ロシアは弱いから広い


障害物が何もない平野で、敵の侵攻を防ぐにはどうすれば良いか。ここで、ここで、第8代ロシア皇帝エカチェリーナ二世の格言が参考になります。

国境を守る術はない。それを広げる以外には。

平野は攻撃が有利の地形です。ここで防御を有利にするには、少しでも外敵との距離を確保しなければなりません。そこで、ロシアは東方の征服が概ね完了した18世紀以降、西に目を向け、100年かけてウクライナからポーランド、バルト三国、フィンランドまでの一帯を征服、西の戦略縦深を深める大征服事業を敢行しました。

こうした一連の領土拡大は、決して無駄ではありませんでした。1812年にナポレオンのフランス軍がロシアに侵攻した際、ロシア軍は直接の戦闘を意図的に避けつつ後退し、フランス軍の補給線を延ばし切りました。その後、フランス軍がモスクワに到達したとき、ロシア軍はさらにウラル山脈の奥に後退しており、フランス軍はロシア軍の帰りを待っている間に厳しい寒さと食糧不足に苦しんで撤退を余儀なくされました。

1941年には、ドイツ軍がナポレオンと同じ罠にはまりました。ヒトラーは、「ナポレオンと同じ轍は踏むまい」と規格外の大軍団を動員して、冬が来る前にソ連との戦争に決着をつけるつもりでした。しかし、その望みは叶わず、延びすぎた補給線、冬将軍の影響を受け、背後に待ち構えるソ連軍に撃退されました。

2つの大戦争は、ロシア人の心に強烈な恐怖心を植え付けました。最終的には勝ったとはいえ、フランスとの戦いでモスクワが火の海に包まれ、ドイツとの戦いでは2660万人、当時の全人口の13.5%に匹敵する犠牲者を出しました。



地理的に繋がっているからこそ


ロシアの西の世界への神経質な態度の源泉には、この平坦で外国軍の侵入を容易に許してしまう地理的繫がりがあります。


これは、そもそも国境が存在しない日本との大きな違いです。日本では、全国どこの海岸に立とうと目の前に海以外のものはなく、その向こうに別の国があることを体感しにくいものです。

ロシアは違います。ロシアとその西の国々との国境には自然的障壁が存在せず、あっても川か、薄い柵だけです。立つ箇所によっては、かかとにロシア、つま先に別の国があります。ロシアと西の世界は政治的に隔てられていても、地理的には繫がっています。

というより、地理的に繫がっているからこそ政治的な隔たりを求める、といった方が正しいでしょう。ロシアは強いから広いのではなく、弱いから広くならざるを得ないのです。ロシアの広さは、ロシアが抱く大きな恐怖心そのものなのです。