大阪万博の跡地は “カジノやサーキット場”検討だが…36年前の『横浜博』の跡地が《年間8000万人》以上訪れる『みなとみらい』になるまで

カジノに、サーキット場にウォーターパーク――2025年大阪・関西万博の閉幕後、夢洲(ゆめしま)の広大な跡地をどう生かすかが議論になっている。36年前、横浜市も同じ問いに直面した。
1989年の地方博「横浜博覧会」は半年で幕を閉じたが、その跡地はいまや年間約8260万人が訪れる街「みなとみらい21」へと成長している。今回は、みなとみらいが現在の形になるまでをアナログ写真と共に振り返る。
”ウォーターフロント”がブームだった80年代
昭和の末、バブル経済がまだ崩壊していなかった1980年代後半の東京湾岸は、“ウォーターフロント”ブームの真っ只中にあった。
東京では、1987年にレインボーブリッジが着工(開通は93年)。同時期には、神奈川県横浜や千葉県浦安、幕張などでも大規模な湾岸開発が進んだ。
この背景には、世界的な“ウォーターフロント開発”ブームがある。当時、ニューヨークを取り囲む河川や港湾、ロンドンの港湾地区であるドックランズなどで、老朽化した港湾施設を撤去し新たな埋め立て工事や再開発を行い、水辺空間の魅力を高める動きが盛んだった。
1980年代に再開発が始まる前のみなとみらい地区は、三菱重工業横浜造船所や、国鉄の貨物駅、操車場、高島埠頭、新港埠頭などが広がる港湾地区で、横浜駅の東側や桜木町駅前からも近い立地であるにもかかわらず、荒涼とした港湾地区だった。横浜港沿いのエリアではあったが、港ヨコハマの風情の漂う山下公園あたりとは異なり、横浜を訪れた観光客や買い物客がまち歩きを楽しめるような雰囲気ではなかった。
みなとみらい地区のお披露目「横浜博覧会」
1983年、三菱重工業横浜造船所の移転とともに、「みなとみらい21」事業が着工。1989年には横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して『横浜博覧会』が行われたが、これには、みなとみらい地区のお披露目的な意味合いも込められていたという。
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