Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

甲府盆地を覆う住血吸虫の被害

ネコウヨ

戦国の世が終結し、日本は天下泰平の江戸時代を迎えるが、甲斐の国の住民は死の恐怖に怯えながら暮らしていた。

江戸時代の年貢米制度により米の需要は増々増えたため、甲府盆地に住む多くの農民も稲作に励むことになるが、逆にこれが住血吸虫の潜む水田に接触する機会を一気に増やしてしまい、結果として感染者も激増させてしまった。

地元民たちは土地に異変があるのでは?と考えるわけだが、封建社会である江戸時代においては簡単に移転、職業を変えることもままならず、農民として田畑を切り開かなければならなかった。

また、この奇病で亡くなる者はほとんどが稲作に携わった貧しい農民たちであったので、幕府や役人たちもほとんど関心を示さなかった。そのため甲府盆地に生まれた貧しい農民たちはこの奇病を「運命」であるとして受け入れるしかなかったのである。

地元民たちが奇病を「運命」として受け入れてから約2世紀が過ぎ、世が幕末と呼ばれるころには甲府盆地周辺は正に地獄と化していた。

このころには甲府盆地の悲惨さが以下のように歌われている。

嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ

竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け

中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶

江戸の世も終わり、時代が明治へと進むと、次第に一部の甲府の住民たちは村を捨てることを本気で考え始めるようなった。

1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村の2村を束ねる村長は、もはや村の存続は不可能であると考え、離村を決意。村の嘆願書を明治政府に提出した。

しかし、まだ政権が樹立したばかりの明治政府にとって、一村移転などという住民運動は認められるはずもなく。しかし、住民たちはその後も粘り強く離村陳情書を提出し続けたため、明治も終わりに近づく約30年後に、その願いはようやく聞き届けられた。

こうして宮沢村と大師村は廃村となるが、甲府の地にて住血吸虫の脅威が去った訳ではなく、その後も死傷者は続出した。

米は日本人の主食である。昨今のコメ不足を引き起こしたのは減反政策のせいである。もちろん、生産量をコントロールすることは大切である。しかし、一律に制限するのではなく、他の作物が適している土地には転作を奨励するべきである。






























また、冬の間田んぼから水を抜く(乾田)ことは環境保護の観点から批判されることがあるが、有害な水生生物を減らすために必要な部分もあるのである。