日本人写真家が記録した"戦場"キエフの10日間

包囲された首都で生きる人々の悲痛な日常
尾崎 孝史 : 映像制作者、写真家
2022年03月29日
中心部から北に6キロのキリビスカ通り。爆破されたトローリーバス(写真:筆者撮影)
2月24日に始まったロシア軍のウクライナへの侵攻。国連は民間人の死者が1月で1000人を超えたと発表した。南東部の都市マリウポリでは、住民が避難していた劇場が攻撃を受け、約300人が亡くなったという情報もある。
一方、日本のメディアは多くが首都キエフから撤退し、取材拠点を西部のリビウや隣国に移した。そうした中、キエフに入った日本人写真家が10日間にわたり見聞きした状況を3回にわたって掲載する。
ロシアによるウクライナへの侵攻から2週間がたった3月9日、キエフに入った。一国の首都が大国の軍隊によって包囲されるという事態にあって、市民はどんな日々を過ごしているのか、知りたいと思ったからだ。
ウクライナの空港は閉鎖されているため、中継地を隣国ルーマニアに決めた。日本から飛行機、長距離列車、シャトルバス、ボランティアの車を乗り継ぎ、49時間かけてキエフに着いた。ルーマニア国境からは直線距離で500キロ近く。東京から盛岡を超える長さだ。西側との「広大な緩衝地帯」として、ロシアがウクライナを重視している意味を感じながらの移動だった。
人影が消えたキエフ中心部
開戦15日目の3月10日、キエフの中心部に向かった。主要な交差点にはバリケードが作られ、兵士が身分証やトランクの中身をチェックしている。黄金に輝く教会やヨーロッパ風の石畳が点在する古都は、戒厳令がしかれ緊張感が漂っていた。
「ここは人通りが多かったよ。公園には家族が集まっていたし。それが2月24日の開戦で一変してしまった」
聖ミハイルの黄金ドーム修道院とウクライナ外務省(左)の前で検問をする兵士(写真:筆者撮影)
ドライバーから説明を聞いているとサイレンのような音が聞こえた。その後、1日平均4〜5回耳にすることになる空襲警報だった。この頃、キエフを目指すロシア軍の部隊は、中心部から北西20キロほどのところと、北東15キロほどのところにまで迫っていた。来週にも中心部を目がけて総攻撃をしかけてくるかもしれない、と不安を口にする人もいた。
筆者が予約したホテルは各国のジャーナリストが集い、取材拠点になっていた。ロシアの戦車が迫り来る北東側の取材から戻った記者がこう話した。
「報道ではロシア軍の位置はキエフまで15キロと言われているが、その後、5キロほど近寄ってきたかもしれない。ウクライナ軍の警備が厳しく、肉眼で確かめられたわけじゃないけど」
現場の取材にはウクライナ軍発行の取材許可証が必要だと、リーダー役のエストニア人記者が教えてくれた。筆者は懇意にしている編集者と連絡を取り、準備を進めた。
相次ぐ砲撃
3月14日、砲撃を受けたオボロン団地(写真:筆者撮影)
開戦19日目の3月14日午前5時、キエフ北部のオボロン団地にロシア軍のミサイルが着弾した。9階建てのアパートが炎上し、住民1人が亡くなり12人が負傷した。
午前11時には、中心部から北に6キロ、集合住宅や商店が軒を連ねるキリビスカ通りで爆発が起きた。トローリーバスの運転手と歩道にいた老人が亡くなった。
破壊されたビルの住人、スタンさん(写真:筆者撮影)
被害を受けた建物の住民、24号室のスタン(56)は飛行機のエンジニア。砲撃の翌日、銃を肩にかけ警備をしながらこう話す。
「プーチンはヒトラーだ。教会が閉まっているので、亡くなった人の葬式もできない」
ルキアニフスカ駅周辺、砲撃された地下鉄入り口付近を警備する兵士(写真:筆者撮影)
開戦20日目の3月15日午前5時、中心部から北西に4キロ、地下鉄ルキアニフスカ駅の入り口と周辺のビルが破壊された。制止線の前で兵士はこう言う。
「詳しいことは話せないが、ロシアのミサイルであることは確認できた」
残念なことに人々の不安は的中してしまった。キエフ市のクリチコ市長は3月15日の午後8時から3月17日の午前7時まで、35時間の外出禁止令を発令した。その頃、市民はどう過ごしていたのか。避難の途中で出会った女性に話を聞いた。
乳児を抱え避難した地下室
生後2カ月のカイトを連れて避難したターニャ(写真:本人提供)
キエフで獣医をしているターニャ(34)。彼女は今年1月1日、長女のケイトを生んだ。自宅があるのはキエフ南東部のオソコルキ地区。ロシア軍の爆撃が中心部に迫るにつれ、夜間にも空襲警報が鳴るようになった。その度にベッドで眠るケイトを抱え、歩いて2分ほどのところにある知人宅の地下室に駆け込んだ。それを繰り返すうち、娘は一度泣き出したら止まらなくなってしまった。ターニャは言う。
「この子にとって、とにかく空襲警報の音がストレスだったみたいで。警報が終わっても、ずっと泣きっぱなしということもありました」
商店は次々と休業していった。粉ミルクやおむつなど普通に買えていたものが、手に入りづらくなっていった。ペットの診療に訪れる人も減り、ターニャはクリニックを閉めてドイツへ避難することを決めた。ソーシャルメディアでウクライナを支援する現地の団体を見つけたからだ。
ウクライナ政府は総動員令を発令し、国防の担い手として期待できる18歳から60歳までの男性は原則出国禁止にしていた。ターニャはキエフ駅で夫のセルギ(35)と別れの抱擁をして、ケイトとともに寝台車に乗り込んだ。
700キロを超える鉄路で揺られること14時間。空爆が報じられたリビウを経由して、ターニャとケイトは南西部の街チェルニフツィに着いた。
そこでバスに乗り換えて、ルーマニアとの国境までもう1時間立ち続けた。ベビーカーを降ろしたところで2人の行手を阻んだのは、出国審査を受けるために並ぶ500人ほどのウクライナ難民だった。
生後2カ月の娘を連れて避難したターニャ(写真:筆者撮影)
「すみません、通していただけますか」
尾崎孝史氏によるウクライナのレポート、1回目です
寒空の下、3時間近く牛歩を続けるわけにはいかないと考えたターニャは、人波をかきわけ進んだ。避難先に決めたシュツットガルトまで、あと数日かかる。それでも前を向いて移動を続ける。
「この戦争はきっとウクライナが勝ちます。見知らぬ土地での育児は大変ですが、戦争が終わるまで2カ月でも3カ月でも避難しているつもりです」
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