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安倍総理の志は死なない!!

フィリピン大統領の故郷に中国領事館がある理由

ネコウヨ

マルコス大統領一家の故郷・北イロコスの現在
柴田 直治 : ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
2022年07月22日

フィリピン・ラワグ市にある中国領事館。高い鉄条網に囲まれている(写真・柴田直治)
フェルディナンド・マルコス・ジュニア(ボンボン・マルコス)氏が2022年6月30日、フィリピンの第17代大統領に就任したのを機に、マルコス一族の地元である北イロコス州を訪ねてみた。21年間にわたり独裁体制を敷いた父の故フェルディナンド・マルコス・シニア氏(以下シニア)の生まれ故郷であり、一族にとって盤石の地盤である。
ルソン島北西部に位置する北イロコス州は人口約60万。農業が主な産業で、州政府によると、ニンニクやドラゴンフルーツの生産が全国一。コメやマンゴー、玉ねぎなどの生産や酪農も盛んだ。
州都ラワグ市の郊外にある空港は国際空港と名がつくものの、現在は1日2便がマニラと往復するだけだ。8キロメートル離れた市内と結ぶ足は、トライシクルと呼ばれるサイドカー付きのバイクしかない。聞けばタクシーは市内に16台。夜8時ともなれば中心街でも人通りはまばらだ。ホテルやレストランも少ない。
高層ビルの見当たらない街で、中心の広場に面して建つ州庁舎にはボンボン氏の大統領就任を祝す大きな垂れ幕が下がっていた。背後では庁舎の増設工事が進んでいた。
「殺人無罪」を記念する裁判所
州政府の主は、マシュウ・マルコス・マノトク知事。ボンボン氏の姉アイミー・マルコス上院議員の息子だ。副知事セシリア・アラネタ・マルコス、ラワグ市長マイケル・マルコス・ケオン氏はいずれもボンボン氏のいとこ。下院の選挙区は2つあり、第1区は今回の統一選挙で初当選したボンボン氏の長男サンドロ氏。第2区はボンボン氏のいとこのユージニオ・アンヘロ・マルコス・バルバ氏。つまり同州から選出される政治家は国政にしろ、自治体にしろ、ほとんどがマルコスの名前がついた人々である。
州庁舎に向かって左に地方裁判所が立つ。正面には大きく「Marcos hall of Justice(マルコス正義の殿堂)」と記されている。どういうことか。裁判所の職員に聞くと、かつてこの建物に国立フィリピン大学の学生だったシニアが殺人容疑で逮捕・起訴され勾留されていたからだという。
事件の経過はこうだ。シニアの父、つまりボンボン氏の祖父マリアノ・マルコス氏は戦前下院議員を2期務めたが、落選。返り咲きを狙って1935年の選挙に出馬したものの、再び落選した。ところが対立候補で再選を果たしたフリオ・ナルンダサン氏が選挙結果判明直後に何者かに狙撃されて死亡した。
その容疑者としてシニアが3年後に逮捕され、現在の裁判所の地下に勾留された。父の選挙運動を手助けするため帰省中だったシニアは、勝利を祝うナルンダサン氏側がマリアノ氏を侮辱するような凱旋パレードをしたことに激怒し犯行に及んだとされた。シニアは大学で射撃部の主将を務めており、当時の新聞は「名門大学の主将の引鉄」について書き立てた。
裁判所には、「大統領への岐路」とのプレートが掲げられた一角がある。シニアが勾留されていた部屋だといい、「歴史的な場所として記憶にとどめるために残す」と記されている。室内はきちんと保存されているわけではなく、なかば物置のように使われているが、若き日のシニアの肖像画が壁にかかっていた。
マルコス一家にとっての武勇伝
マルコス氏は勾留中の半年で猛勉強し、司法試験をトップで合格した。その記録は今も破られていない。法廷では被告である本人が、自身の弁護士役も務めた。地裁は有罪判決を下したが、最高裁では「証拠不十分」で逆転無罪を勝ち取った。裁判長は日本の軍政下で大統領を務めたホセ・ラウレル氏。若きシニアの才能を高く評価し、無罪に導いたとされている。
私はこれまで、この殺人事件にからむシニアの話は、マルコス家にとって忌むべき出来事と考えていたが、違った。ラワグから南に15キロメートル下ったシニア出身の町バタックにある「フェルディナンド・E・マルコス大統領センター」の展示には、「学生時代」「戦争時代」「下院議員時代」「上院議員時代」などと並んで「裁判の時代」というコーナーがあり、殺人事件の容疑者として逮捕されてから無罪になるまでの経緯を資料や写真、新聞記事をあしらって誇らしげに展示してある。思い起こしたくない過去ではなく、大統領への道を歩むうえでの武勇伝であり伝説の序章なのだ。
同センターの最後のコーナーは「11日間のロマンス」と題して、シニアとイメルダ夫人との馴れ初めや電撃結婚のいきさつを紹介している。さらにイメルダ氏の靴のレプリカをはじめ夫妻の着た服などを並べている。
同センターにはかつて、客死したハワイから運ばれたシニアの遺体が安置されていたが、2016年11月、マニラ首都圏の国立英雄墓地に運ばれ埋葬された。シニアの独裁体制下の人権侵害被害者らの反対を押し切り、ドゥテルテ前大統領がマルコス家の希望を聞き入れた結果だった。展示の「目玉」を失ったセンターからは客足が遠のき、さらにコロナによる閉鎖で厳しい運営を余儀なくされた。しかし2代目の大統領就任で再び客足も戻りつつある。学校の集団見学も増えてきたという。
バタック町境のゲートには「Home of Great Leaders(偉大な指導者の里)」との文字が刻まれている。複数形なのはシニア氏だけではなくマルコス家の人々を指すからだという。
中心部にあった「イメルダ文化センター」には、現在市役所などが入居している。代わりに幹線道路沿いに「イロカンディア文化センター」が建設中だ。イメルダ氏が大統領夫人として権勢を誇っていたころ、マニラ湾岸に建てたフィリピン文化センターと似た建築物だ。
バタックにはもう1つ、マルコス家にまつわる施設がある。「北のマラカニアン宮殿(Malacañán of the North)」だ。マニラにある大統領府の名を冠した2階建ては、木材をふんだんに使った瀟洒なつくりだ。湖に面し、森に囲まれたゴルフ場も設けられている。
シニアの大統領在任中の1977年にマルコス家が建設し、酷暑の時期に避暑地として一家が滞在し、閣議も催された。「ピープルパワー革命」によって一家がハワイに追放された1986年、コラソン・アキノ政権によって接収されたが、2010年から北イロコス州の管轄になった。
北のマラカニアン宮殿
「大統領センター」の展示はシニアが大統領に就任するまでの個人史の紹介だが、「北のマラカニアン」には大統領時代の業績が展示されている。目に留まったのは「We Shall Make This Nation Great Again(われわれはこの国を再び偉大にする)」と大きく書かれたパネル。シニアが1965年12月30日、大統領に就任した際の演説の決め台詞だ。スペインからの独立を宣言した先人らの行動をGreatと称え、それを再びという国民への呼びかけだった。トランプ前アメリカ大統領の「Make Amarica Great Again」と響きあうフレーズである。
若きボンボン氏が使ったとされるベッドなども写真とともに展示されている。シニアは1917年9月11日、バタックに近い町サラットで生まれ8歳まで過ごした。生家にも記念館が設置され、勉強に励む若き日の像などが展示されている。
予想通りとはいえ、こうした多くの施設類の展示にはシニアやマルコス家の陰の部分はまったく紹介されていない。戒厳令下の人権侵害や不正蓄財、大統領在任期間中に大きく傾いた経済、1983年のニノイ・アキノ元上院議員暗殺事件やその後盛り上がった反マルコス運動、ピープルパワー革命などについての記載は一切ない。
北イロコス州の観光名所の1つに、州都ラワグから車で2時間ほどの海岸沿いに並ぶ103基の発電用風車がある、計283メガワットを発電し、さらに増設が予定されている。
父親から遅れること56年半。ボンボン氏は大統領就任演説で「北イロコスの砂丘の上で風車が回っている。未知の力を利用して電力を生み出している。私が建設したものだ」と胸を張った。選挙中もマルコス陣営は繰り返し、ボンボン氏の知事時代の業績として喧伝していた。
しかしながら、地元のファクトチェック団体によると、実際には国立再生可能エネルギー研究所の調査に基づいてアヤラ財閥の関連会社が建設した当時、ボンボン氏は知事ではなかった。
不正腐敗、人権侵害は「つくり話」
風車のたもとで、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオから観光旅行に来ていた3人の中年女性と出会った。ダバオは前大統領の娘で現副大統領のサラ・ドゥテルテ氏の地盤だ。ボンボン氏の当選でその出身地に興味を抱き、国内旅行先に選んだという。ココナツ農園や薬局を経営するなど経済的に余裕のある人たちでグループ旅行が趣味。前回の旅行はパンデミック前の大阪だった。
3人ともドゥテルテ家の熱心な支持者で、うち2人は大統領選でボンボン氏に投票したが、ミレッテさん(56)は他の候補に入れたという。理由を問うと、「ドゥテルテ大統領は国内インフラの整備に取り組み、マルコス家のように生家を保存したり、資産を残したりすることはなかった。マルコス家は腐敗している」と続けると、他の2人が「そんな話はリベラルの作り話」と猛然と反論していた。
ラワグ市内で、どこかおいしいレストランありますかと聞くと、必ずと言ってよいほど「ラ・プレシオーサ」との答えが返ってきたので、夕食に訪れた。
レストランの宴会場で、結婚披露宴が行われていたが、それ以外の客はさほどおらず、長年勤める給仕長マニー・メンドーサさん(52)とじっくり話をすることができた。店にはマルコス一家も頻繁に訪れ、デリバリーで届けることも多いという。大統領選の遊説で立ち寄ったボンボン氏にも料理を届けた。大統領就任式のあとにも姉のアイミー氏とセシリア副知事が連れ立って食事に来た。
マルコス家の人々は他の客と同じダイニングエリアで食事をし、えらそうなところはない。アイミー議員は地元の言葉イロカノを話すが、家族の会話はだいたい英語とタガログ語。地元の代表的な料理ピナクベット(野菜などの蒸し料理)をいつも注文する。ボンボン氏は豚肉料理のクリスピー・バグネットやベーコンを好み、サンミゲルビールを少々たしなむという。
「ボンボン氏がマラカニアンに返り咲いて本当にうれしい。イロコスだけではなく国全体がこれから良い方向へ向かうはずだ。シニアが追放されたとき、私はマニラで勤労学生だったが、とても心が痛かった。シニアの時代は暮らしも楽だった。クリスマスには国からコメや食料品が届いた。彼らが腐敗しているなどというのは一部の政治家が作った嘘だ」と穏やかに話した。
マルコス家の生家や大統領センター、北のマラカニアンなどで多くの人々に話しかけてみた。みな一様にシニアの時代を礼賛し、ボンボン氏に投票した、期待すると話し、戒厳令時代のことを持ち出そうものなら、食って掛かる人もいた。
そんななかで唯一、「マルコスは嫌い」と話す人に出会った。裁判所の幹部職員だ。「イロコスの人たちはシニアの時代に何が本当にあったのか、歴史を直視していない。きちんと学べば無条件の支持などありえない」と語ったが、名前は出さないようくぎをさされた。裁判所にある「シニアの勾留部屋」には決して入らないといった。
地方都市に翻る五星紅旗
滞在最終日、ラワグ市内の中心部を歩いていると、大きなパラボラアンテナを抱え、赤い扉で出入り口を閉鎖した建物に行き当たった。紅い国旗、五星紅旗が翻っている。中国領事館だ。
来歴を調べると2007年に設置されていた。ボンボン氏が知事だった時代だ。フィリピンで中国政府はマニラの大使館のほか、1995年に第2の公館として中部の大都市セブに総領事館を置いたが、3カ所目の公館を人口約10万人(2007年当時)の地方都市に開設した理由は不明だ。人口178万人(2020年)を抱えるダバオ市に総領事館を置いたのは2018年。地元出身のドゥテルテ氏が大統領になってからだ。
考えられるのは、北イロコスが台湾に近く、南シナ海とバシー海峡に面しているという地政学的な理由だ。18年前の段階でマルコス家のマラカニアン復帰を見越していたとは考えられないが、シニアは中国と国交を結び、イメルダ氏やボンボン氏も訪中して、毛沢東国家主席と会談するなど深い付き合いをしていたことも開設につながった可能性がある。いずれにしろ市内唯一の外国公館であり、マルコス家と中国の結びつきを強めていることは間違いない。
新政権で国外から最も注目されるのは、中国との関係だ。その原点も地元にあるのかもしれない。