ロシア国民が持つロシアン・イデオロギーの正体
プーチンがロシア統合に必要と考えるものとは
亀山 陽司 : 著述家、元外交官
2022年09月05日

サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館の宮殿広場(写真:manbi/PIXTA)
ウクライナ侵攻による経済制裁後もロシアでのプーチン大統領の支持は、堅持されている。数年ごとに軍事行動を起こす指導者をなぜロシア国民は支持し続けるのか。
本稿では元ロシア外交官である亀山陽司氏著『地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理』より、ロシア正教とロシアン・イデオロギーについて説明する。
イワン・イリイン(1883-1954年)は、ソビエト政権に否定的であったため、祖国を追放された思想家である。彼は在外白系ロシア人の組織である「ロシア全軍連合(ROVS)」のイデオローグとしても知られる。スイスで死んだが、ソ連崩壊後、その遺骨はモスクワに埋葬された。
現在、ロシアでその著作が次々に発刊されている。プーチン大統領もその演説の中でしばしばイリインに言及しており、プーチン大統領の政治思想に大きな影響を与えている人物であると考えられる。
正教会の信仰は“ロシア”そのものへの信仰
イリインは熱心な正教会の信徒であり、正教信仰をロシア国家にとって最も重要な思想だと考えていた。イリインが「ロシアのナショナリズムについて」という書の中で「我々はなぜロシアを信じるのか」と問うている。イリインはソ連を否定していたが、祖国に対する愛は強く抱いていた。
「我々ロシア人は、どこに住み、どんな状態にあったとしても、祖国ロシアに対する悲しみを逃れることはできない。これは自然で避けがたいことだ。この悲しみは我々を見捨てることはできないし、そうするべきではない。それは祖国に対する我々の生き生きとした愛情と信仰の現れなのだ」と書いている。
イリインによれば、ロシア人であるということは、ロシア語を話すことだけを意味するのではない。「ロシアを心から受け入れ、愛をもってロシアの価値ある独自性を見て、その独自性がロシア人に与えられた神の賜物であることを理解する」ことである。
イリインは、チュッチェフの「ロシアをただ信じるのみ」というフレーズを挙げ、ロシアへの信仰は不可欠であり、ロシアへの信仰なくしては生きることもロシアを復興させることもできないという。そして、ロシアを信仰するとは神においてロシアを見ることだとする。
イリインは反共主義者として、ロシア帝国の再興を望んでいたわけだが、その思想にはロシアン・イデオロギーの核心が表現されていると思われる。ここでいうロシアン・イデオロギーとは、ロシアの歴史を通じてロシアの権力および国民の中で自然に形成されてきたロシア固有のナショナルな価値観のことである。
ロシアの政治的イデオロギーや文化的イデオロギー、そして宗教的イデオロギーは、このロシアの基盤的イデオロギーに結びついていると考えられる。ロシアン・イデオロギーをあえて定義するとすれば、以下のようなものとなるだろう。
“ロシア”とは偉大な祖国であり、この祖国“ロシア”への愛と信仰によって、ロシアの偉大さを擁護し、発展させようとする愛国主義的価値観である。この“ロシア”とは、国土、歴史、文化、そしてロシア正教によって形成された1つの文明圏であり、大国である。大国であるとは、ロシアの偉大さの政治的表現であり、世界の命運の鍵を握っていることである。
少し大げさなようだが、ロシア人の価値観というものは、まさに祖国に対するパトリオティズムである。2008年のジョージア(グルジア)紛争も、2014年のクリミア「併合」も、2022年のウクライナ侵攻も、日本を含め欧米の自由民主主義の価値観から見ればまったく理解できない行動である。それにもかかわらず、ロシア国民はプーチン大統領を支持し、祖国ロシアの行動を肯定している。
これは、プーチン個人への信頼というわけではないだろう。そうではなく、ロシアという祖国に対する信頼であると考えざるを得ないのである。
2020年憲法改正で注目すべき側面
2020年の憲法改正については、プーチン大統領の5期および6期を可能にする修正ばかりがクローズアップされたが、むしろ、ロシアン・イデオロギーの定式化という側面こそが重要だったのではないだろうか。
このロシアン・イデオロギーは、祖国愛、パトリオティズムに立脚するものであり、ナショナルな価値観である。ソ連社会において支配的であったような政治的な国家イデオロギーではないことに注意が必要である。これについては、大統領就任直前にプーチン大統領が発表した論文「千年紀の境にあるロシア」(1999年12月30日)で明記されている。
プーチンは、「ロシア的理念」と題された章で、ロシアは内的分裂状態にあるが、こうした内的分裂状態は1917年のロシア革命の時代、1990年代のソ連崩壊後の時代に見られるものだとし、ロシアの現状をロシア革命の時代になぞらえる。
そして、ある種の政治家や学者が呼びかけている「国家イデオロギー」の創設について、こうした用語は知的、精神的、政治的自由がなかったソ連時代を連想させるため適切ではないとし、国家の公式イデオロギーの復活に反対するのである。そして、いかなる社会的合意も自発的なものでしかありえないとする。
プーチンにとっては、分裂したロシア社会の統合に必要なものは政治的な公式(官製)国家イデオロギーではなく、根源的で伝統的な価値観なのである。そして、そのような価値観として、パトリオティズム、大国性、国家主義、社会的連帯を挙げる。
根源的で伝統的な価値観4つの意味
パトリオティズムは、大部分のロシア人にとって肯定的な意味を有しており、祖国、歴史、そして偉業に対する誇りである。パトリオティズムを失えば、ロシア人は偉業を達成することができる民族としての自己を喪失するだろうというのである。
大国性については、ロシアは偉大な国家であったしそうあり続けるという。大国性は、ロシアの地政学的、経済的、文化的存在と分かちがたい性質である。大国としての能力とは、軍事力である以上に、自らの安全を確保し、国際社会における国益を擁護する能力であるという。
国家主義については、ロシアはアメリカやイギリスのようにリベラルな価値観が歴史的伝統となっている国の焼き直しにはならないという。ロシアにおいて、国家(権力)とは、国や国民の生活において極めて重要な役割をはたしてきた。強力な国家権力はロシア人にとって異常なことではなく、秩序の保証であり、改革の主唱者であり主要な原動力なのだ。
最後に社会的連帯だが、ロシアにおいては個人主義よりも集団的形態が優先していたとされ、ロシア社会では家父長的な傾向が根付いていたという。生活の改善というものを自己の努力よりも国家と社会の支援に結びつけて考えたのである。こうした傾向は現在も支配的であり、これを考慮して社会政策を考えなければならないとする。
その上で、ロシアには強力な国家権力が必要であると結論付けるのである。
こうしたプーチン統治の初期のプログラムを改めて振り返ると、そこに通底する思想が見えてくるのである。パトリオティズム、大国性、国家主義、集団性といった要素は、スラヴ主義者の主張に通じるものである。先に定式化した基盤的イデオロギーとしてのロシアン・イデオロギーにも妥当するものである。民主主義と資本主義といった西側の(普遍的な)価値観を受け入れはするが、それはあくまでもロシアの伝統に則った形でなければならないのである。
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