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安倍総理の志は死なない!!

日本の捨て石として「辺境」が歩んだ共通の悲劇

ネコウヨ

太平洋戦争の地上戦から見る戦争の教訓(前編)
山本 章子 : 琉球大学准教授
2024年06月22日
日本本土周辺の各地では終戦までに凄惨な地上戦が繰り広げられた。今の私たちは教訓として何を導き出せるのかを前後編で考える(前編)。
太平洋戦争の降伏を国民に知らせる、「玉音」放送が行われた8月15日には毎年、戦没者を追悼し平和を祈念する式典が行われる。これは日本本土だけの話だ。沖縄では、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる6月23日に毎年、「沖縄全戦没者追悼式」が行われ、沖縄県知事に加えて総理大臣や衆議院・参議院議長などが参列する。
沖縄県は条例で、6月23日を「慰霊の日」という休日として定めるほど重視している。逆に沖縄の8月15日は何もない。お盆の行事も旧暦に合わせて行うからだ。
他方、北海道稚内市では、毎年8月20日に「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」が行われる。アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下した8月9日、ソ連は対日参戦して同月15日以降も戦闘を継続。20日にソ連軍が上陸した日本領土(当時)の南樺太では、真岡郵便局の電話交換手をしていた若い女性職員9人が、青酸カリなどを服用して自決した。
住民を巻き込んだ旧日本軍の地上戦
このように1945年の終戦は同じ日本国内でも地域によって時期が異なり、その過程や経験もまったく違う。だが、終戦の過程を左右した各地の地上戦では、本土防衛のための日本軍の「捨て石」作戦と、民間人の根こそぎ動員・集団自決という共通のパターンが繰り返された。
とりわけ南洋戦、沖縄戦、日ソ戦という日本の終戦を決定づけた地上戦から、現代の我々はどのような教訓を導き出せるのか。いま戦争を考える上で歴史をどのようにいかせるのか。それを考察することが本稿の意図である。

第1次世界大戦に日英同盟を名目に参戦した日本は、ドイツ領の南洋諸島を軍事占領。大戦後、国連委任統治領という名の植民地にした南洋諸島に、南洋庁を設置する。
南洋庁と日本軍は、国策会社「南洋興発株式会社」の砂糖プランテーション経営を全面的に支援し、日本からの移民を労働者として呼び込んだ。中でも、第1次世界大戦後の砂糖価格の暴落で経済的に追いつめられた沖縄から、さとうきび農民が多数移住し、1943年時点で南洋諸島の日本人移民約10万人のうち、約6万人が沖縄出身者だったという。
1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃してアメリカと開戦した5時間後、日本軍はアメリカ領グアムを侵略する。2日間にわたる爆撃後に上陸、島を占領した。南洋諸島の真ん中に位置するグアムは、日本の南洋統治上の不安要素だったからだ。
しかし、日本のグアム支配は短かった。日本の敗色が濃くなる1944年に入ると、日本軍の最高指揮機関である大本営が設定した「絶対国防圏」の要衝、南洋諸島にアメリカ軍が進攻。ヤルートなどマーシャル諸島を占領し、6月にはマリアナ諸島の攻略を開始する。サイパン、グアム、テニアンが次々と制圧された。
サイパンでは非戦闘員1万人が死亡
陸海軍の作戦の連携に失敗し、増派部隊の大半も輸送中にアメリカ軍の攻撃で沈められると、大本営はサイパン島放棄を決定したが、現地の日本軍に降伏を許さず、「玉砕」(全滅するまで戦うこと)を命じた。こうして、サイパンでは日本軍約4万人と非戦闘員約1万人が、戦死あるいは自決によって死亡した。
アメリカ軍の南洋戦の目的は、燃料補給なしに日本本土の主要都市を爆撃できる距離にある南洋諸島に、開発したばかりのB29爆撃機の発進基地を建設することにあった。焼夷弾による攻撃で10万人が死亡、100万人が負傷した1945年3月10日の東京大空襲は、サイパン、グアム、テニアンの3島から発進したB29によって実施される。同年8月6日に広島、8月9日に長崎へと原子爆弾を投下したB29も、テニアン島から発進した。
他方、1944年7月のサイパン陥落を受け、元帥海軍大将の伏見宮博恭王は、劣勢挽回を可能にする「特殊」兵器の開発を要望した。それに応えて提案されたのが、人間魚雷「回天」や、ベニヤ板製のモーターボート「震洋」などの特攻兵器だ。爆薬を抱いた兵士が戦車に体当たりする陸の特攻も、同時期に採用される。
太平洋戦争末期の1945年3月末にはアメリカ軍上陸とともに沖縄戦が始まった。沖縄戦におけるアメリカ軍の目的は、日本本土への空襲を強化し、続く本土上陸作戦を実施するために航空基地、兵站基地を確保することだった。
対する大本営は、沖縄戦を本土防衛のための時間稼ぎと考え、沖縄に配備した第32軍に持久戦を指示した。また、第32軍壊滅後にゲリラ戦を展開して米軍を沖縄に足止めするため、陸軍中野学校出身者を各地に潜伏させる。
第32軍は小学生から老人まで大量の住民を徴用し、強制接収した土地に飛行場を建設させた。しかし、米軍による大規模空襲で飛行場を破壊され、作り直す羽目になったあげく、作戦変更で飛行場を放棄。司令部のある首里とその周辺の丘陵地帯に主な兵力を集中させた。
というのも、当時、日本の植民地だった台湾に米軍が上陸する可能性があるとして、沖縄戦の前に主力部隊が台湾に引き抜かれ、第32軍は兵力不足から部隊を再配備する必要に迫られたからだ。これで、またも住民を徴用しての陣地構築が行われた。
召集令状なしの動員で学徒兵7割戦死
加えて、第32軍は現地において召集令状なしに、徴兵の対象年齢に達していない17歳未満や45歳以上の男子も含めた「防衛招集」を行う。「健児隊」「鉄血勤皇隊」「通信隊」などを結成させられた学徒兵は約2万2000人。その約7割が戦死したといわれている。15歳から19歳までの女子学徒、約500人も看護要員として戦場に動員され、約4割が戦死した。
防衛招集の目的は規則上、治安維持や警備のためとされていたが、第32軍は防衛招集した人々を戦闘員として扱い、夜間の米軍への斬り込み作戦の先頭に立たせたり、戦車に体当たりさせたりして自爆する特攻作戦に駆り出した。
なお、沖縄島や石垣島、奄美大島などに配備された「震洋」部隊では、モーターボートの設計の不備や輸送中の米軍による爆撃で爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの予科練出身者・学徒兵が死亡した。狭いボートの中に燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたせいだ。その上、夜間にアメリカ艦船を集団で奇襲して体当たり攻撃をする作戦は、敵の艦船をほぼ発見できずに終わった。
首里の司令部が陥落すると、日本軍はアメリカ軍から逃げる一般住民に紛れて南部に撤退、戦闘を長引かせる。そのため、アメリカ軍は日本軍を追って南下しながら軍民無差別の攻撃を行う。
日本軍の戦没者数を月別に見ると、全体の7割弱が、5月から始まる首里の第1・第2防衛線の戦いで死亡。それに対して、住民の約半数が6月に亡くなっていることから、住民の犠牲が南部撤退後に集中していることがよく分かる。司令官の自決で組織的戦闘が終結した6月23日以降も、司令官が最期に「最後まで敢闘」するよう命じたため、9月7日まで残存部隊の抵抗が続き、5000人以上の住民が死んだ。
沖縄出身の日本軍兵士・軍属2万8228人(県外出身の日本兵6万5908人)、防衛招集された者5万5246人、非戦闘員3万8754人、推計12万人超もの沖縄県民が亡くなったとされる沖縄戦は、「県民の4人に1人が亡くなった戦争」として地元で語り継がれている。
アメリカ側の被害も大きく、1万2520人の米兵が死亡した。これがアメリカのソ連参戦要請につながる。ソ連の対日参戦が決定したのは沖縄戦の始まる前、1945年2月のヤルタ会談だが、ソ連に参戦を約束させたアメリカのルーズベルト大統領が同年4月に病死すると、後継のトルーマン大統領はソ連に対する不信感からヤルタ協定破棄を公言する。トルーマンを翻意させ、原子爆弾の開発成功後もソ連参戦を求め続けたのは、沖縄戦で死傷者続出に直面していた米軍部だった。
犠牲者を増やし続けた日本のこだわり
南洋戦、沖縄戦、日ソ戦は地域も時期も異なるが、本土防衛のための日本軍の「捨て石」作戦と、民間人の根こそぎ動員・集団自決という共通のパターンは驚くほど同じだ。大本営は各地での敗北から学ばず、同じ失敗をくり返した。なぜか。
ひとつには、敵に打撃を与えてから終戦交渉で有利な条件を引き出す「一撃講和」に、昭和天皇と日本軍部がこだわり続けたことがある。武器・物資いずれも質量ともに圧倒的優位にあり、長期的計画のもとで十分な兵力と補給を確保して作戦を展開するアメリカ軍相手に、一矢報いるという幻想を持ち続けたことが、行き当たりばったりの消耗戦をずるずる引き延ばす結果となった。
他方、日本との戦いが予想外に長期化し、自国の死傷者が増え続ける中で、アメリカ側は1944年に入ると、日本の完全敗北を求めて無差別攻撃や掃討作戦を行うようになる。日本本土の各都市への空襲に加え、ナパームを噴射する火炎放射戦車を前線に投入、陣地や洞窟に立てこもる日本軍兵士を火炎で焼き殺した。
沖縄戦では、日本兵と住民が混在する壕(ガマ)が、アメリカ軍の火炎放射器や手りゅう弾の攻撃を受け、多数の犠牲者を出した。現在、ひめゆりの塔が建っている糸満市のガマでは、日本軍の解散命令で戦場に放り出された「ひめゆり学徒隊」ら看護要員と、住民、兵士約100人が隠れていたところを、アメリカ軍のガス手りゅう弾で攻撃され、80人超が死亡する。また、日ソ戦同様に沖縄戦でも、アメリカ軍による投降兵・住民の殺害やレイプ、強制収容所での捕虜の虐殺などが起きている。
日本が戦争を引き延ばしたことが、アメリカ側の目標を日本の完全敗北に、その攻撃をより残忍で無差別なものとした。また、自国の犠牲を少しでもおさえたいアメリカが、日本の領土割譲を条件にソ連を引き込むことにつながる。ソ連は分け前を求めて対日参戦を早め、日本の降伏後も停戦に応じずに侵攻、日本側の犠牲者を激増させた。