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資本主義の語を使わなかった「資本主義の父」

ネコウヨ

100年前からSDGsとCSVを説き続けた渋沢栄一
木村 昌人 : 関西大学客員教授
2021年05月04日


東京長寿健康センター(元・東京養育院)にある渋沢栄一像。東京養育院は困窮者、病者、孤児、高齢者、障害者の保護施設で、渋沢は半世紀にわたって院長の任にあった(写真:igamania/PIXTA)


明治時代から昭和時代初期にかけて、500以上の企業の設立に携わり、日本の近代産業の礎を築いた渋沢栄一。
渋沢は「論語と算盤」の言葉で知られるように、経済的利益だけでなく、公益(社会的利益)の両立をめざし、600もの社会事業に貢献したソーシャル・アントレプレナーでもあった。
渋沢の資本主義へのアプローチの仕方は、今日でいうSDGs(持続可能な開発目標)やCSV(共通価値の創造)の考え方を先取りしていたものともいえる。
昨今、そうした渋沢の思想は世界的にも注目され、日米英仏の研究者による『グローバル資本主義の中の渋沢栄一』という書籍にもまとめられている。
本記事では、同書の著者の1人であり、長らく渋沢研究に携わってきた木村昌人氏が、渋沢の経済思想である「合本主義」について解説する。
「資本主義」ではなく「合本主義」
渋沢栄一は、「近代日本資本主義の父」とよくいわれますが、10年ほど前に、私はふとしたことから渋沢は、自身の思想や行動について語るときに、資本主義という言葉を使っていないことに気がつきました。


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まれに使うときには、「アメリカの資本主義はあまりにも私益を求めすぎる」のような批判的な言い方で用いていたようです。
それでは、渋沢はどのような言葉を使っていたのでしょうか。合本(がっぽん)です。渋沢は、「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」のことをそう呼んでいました。
そして渋沢は、合本主義に基づいて設立、経営、支援した組織を(協力)合本法、合本組織、合本会社と呼んでいました。これらは今日の株式会社に似ています。株式会社は、広辞苑によると、「資本金が株式という均等な形式に分割され、出資者すなわち株主が組織する有限会社」です。
渋沢の合本会社は、株式会社と形式は同じですが、違う点は、会社の事業の目的は、公益を追求することでした。さらに身分や地位にかかわりなく、やる気のある人なら誰でも合本主義に基づき、経済活動を行うことができ、その成果を独り占めにしようとするような財閥を作ることはありませんでした。
官尊民卑の打破をライフワークに
明治時代の初期、三菱、住友、あるいは、海外のほとんどの企業家が、ライバルとの戦いを制して寡占、独占をめざし、私益を最大限に増やそうとする行動とは、渋沢の合本会社は異なっていました。
合本主義を実行するためには、民主化された社会が必要でした。1866~68年に幕臣としてフランスに滞在していたときに渋沢は、人民が身分の上下なく平等に政治や経済に参加し、その智識に基づいて意見を述べることができることに感銘を受けました。
日本では士農工商という身分制度があり、商人が国の政治経済に関して論ずることはほとんどありませんでした。ところがヨーロッパでは、金融業者が軍人と対等に、国王に対して経済政策のアドバイスをしている。
商工業者の地位と官吏もしくは軍人との関係が日本とは全く相違していることは驚きであり、これを学ばなければ真の商工業はできないと確信を持ちました。そのためにはヨーロッパ社会のように実業家の地位が高くなければならないと考えたわけです。
そのことは「官尊民卑」の打破という渋沢が生涯を通じての目標を達成するために必要不可欠でした。渋沢はもともとは武士ではなく、埼玉県深谷の富農の出身でした。
青年時代、渋沢は父親の名代として代官所に呼び出されたとき、代官から藩主の姫様が輿入れするので、お祝い金として500両を供出するように要請されました。渋沢は理不尽な要求に腹を立て、首を縦に振りません。
帰宅して報告すると、父の市郎右衛門はすぐに代官の要請を引き受け、お金を準備しましたが、栄一は納得できませんでした。見識のない役人の横暴をなんとかして打ち負かすためには、「民」自らが主導権を握らなければならないと考え始めたのです。
フランスから帰国後、渋沢は明治政府に勤務しましたが、官尊民卑の風潮はますます強く、優秀な人材が「官」に集まる状況を憂い、自らが銀行家として、日本社会に必要とされるさまざまな事業を創造するため役人を辞めました。
渋沢は官尊民卑を打破する手段としての「論語と算盤」(道徳と経済は両立させるべきであるという説)と「合本主義」を導入し、経済界を創出し、日本社会の「民主化」を図ったのです。
商業活動に従事する者の意識と地位の向上をめざし、東京商工会議所、東京銀行集会所など経済団体を創出する一方、将来経済界を担う人材の育成にあたりました。東京商法講習所(現在の一橋大学)に代表される商業教育を通じて、「官」と十分に渡りあえる民間経済人を次々と世に出したのです。
合本主義の三要素
『「空気」の研究』や『日本人とユダヤ人』などの著作で、日本の資本主義社会についてユニークな分析をした山本七平は、渋沢が「合本主義」を唱えたのは、経済・社会革命を行うためだけでなく、「一種のイデオロギー」であったと強調しています。
フランスで見た平等社会への実現は、誰でも、自らが実業家として、平等に自由な経済活動を行い、個人や社会が豊かになることが認められている民主的な社会が前提になっていると気づいた渋沢は、それを実現させるために、合本主義に基づいて経済活動を行いました。
合本主義の中身をもう少し掘り下げてみましょう。渋沢の合本主義は、①設立目的・使命(ミッション)、②人材とそのネットワーク、③資本の3つの要素から成り立っています。
渋沢にとって、合本組織の使命は、社会全体の利益、すなわち公益を増加させることでした。株主や経営者は、公益を増進するという意識を持ち、会社設立の目的や使命を十分に理解したうえで、投資し、経営することが不可欠です。
したがって、組織形態は必ずしも株式会社でなくてもよく、事業の目的を達成するために適した組織であれば、合資会社でも、匿名組合でもよかった。
しかし、ここでのキーワードは公益です。ところが、その中身については、渋沢は明らかにしていません。公益とは何かは、渋沢の思想と活動を分析するうえでカギとなるので、この点は、あとで詳しく触れることにします。
岩崎弥太郎、アダム・スミスとの違い
次に、渋沢が重視したのは、会社経営や事業活動に従事する人材でした。これも資本主義と異なる点です。特に経営者は、会社の使命や目的をよく理解し、公益を追求する人でなければなりません。
三菱の総帥・岩崎弥太郎と論争したことがありました。渋沢は、事業経営により利益を上げることは重要だが、投資家すべてにその利益が行き渡ることが肝心と主張しました。岩崎が渋沢と手を組んで日本経済を牛耳ろうと持ちかけたのですが、事業や利益を独占し、財閥の形成を目的にすることに、断固として反対したのです。
その意味では、経営にあたる人材には、事業を適切に進めてゆく実行力だけでなく、広くパートナーを求め、協力することのできる視野の広さと協調性、それを支える人的ネットワークを有する能力を期待されました。渋沢自らが、それぞれの企業にふさわしい経営者を探し、眼鏡にかなった場合はその経営を任せました。
「順理則裕」(理に従えば、すなわち、豊かなり)であり、順理とは「合理的・論理的に考え、行動する」「道徳・倫理、人間としての基本姿勢を尊重する」いう、いわゆる「見える手」による資本主義でした。
人的要素や人材育成に力点を置いたことが、同情心を持った個人の、私益を追求する自由競争が、市場における「見えざる手」によって人々の欲求を満たすというアダム・スミス流の資本主義とは異なっていたのです。
どんな分野でも事業を興し、展開するためには元手となる潤沢な資本が必要です。この点は資本主義と同じです。しかし資本の集め方が違いました。渋沢栄一は、一部の大資本家だけでなく、事業の目的や趣旨を理解した人々ができるだけ多く資本参加できるように尽力しました。
日本国内の遊休資本を有効に利用するために銀行制度を導入し、第一国立銀行を手始めに各地に私立銀行を設立するのを支援し、全国に銀行制度を普及させました。その結果、150以上もの国立銀行が全国に設立され、各地域での殖産興業に大きな役割を果たしました。
渋沢は、銀行こそが合本会社を次々と設立して事業を実施する原動力になることを、フランス滞在中に学び、帰国後に自らが率先して実行したのです。
こうした合本主義の精神や手法は、企業活動でなく、渋沢自らが尽力した「民間」外交や福祉、教育などのフィランソロピー(慈善)の分野でも適用されていきました。
渋沢、張謇、カーネギーらが追求した公益
さて、ここで渋沢栄一の公益について考えてみましょう。おそらく渋沢にとって、公益とは、自立した「民」が平等に参画し、殖産興業により富源を開拓、世界や日本に住む人々が物資と精神両面で豊かになることと想像できます。
「公」とは、必ずしも国や政府だけを意味するのではなく、都市、村落、共同体も含まれた。さらには国を超え、世界全体も「公」の範囲に含まれていました。したがって、「公益」とは「国益」と必ずしも同じではなかったのです。
それでは、国益以外にも公益は存在するのでしょうか。公益は時代や立場の違いによって異なってきますので、1つにまとめることは難しいです。
たとえば、近代中国では、張謇(ちょうけん)も渋沢と同様に官僚を辞し、企業家として清末から辛亥革命を経て江蘇省南通地方における近代化・産業化に貢献しました。彼は師範学校を設立し、人材育成にも力を入れるなど、江蘇省にとっての公益を追求しましたが、なかなか中国全土には行き渡りませんでした。
アメリカでは、南北戦争後の再建時代から、いわゆる「金ピカ時代」に登場したアメリカの企業家たちは、今日のアメリカ経済社会の確立とそのグローバル化に大きな役割を果たしました。企業利益を拡大させただけでなく、アメリカ経済を発展させ、膨大な富をアメリカ社会にもたらしただけでなく、慈善事業など公益も追求しました。
渋沢と張は、儒教から「公共」と「慈善」という概念を、また、カーネギーやロックフェラーはキリスト教から、慈善を引き出し、その活動を実践しました。
彼らは商工業に従事する者も、政府も地方自治体も、さらには、民間企業も非政府組織も、必ず「公共的」な側面を念頭に置いて活動すべきと唱えていました。
言い換えれば、すべての社会団体は、公共の利益と利潤追求の見通しとを関連づけて、企業や企業家の社会的責任を明確にすべきであると考え、自らが行動したわけです。
SDGsやCSVは100年以上前に行われていた
公益は複数存在するのではないでしょうか。渋沢が公益をどのようにして決めたのかは、この問題を考える際のヒントとなります。それは公論の形成です。
渋沢は今何をすべきかに関して、明治政府に勤めていたときから、同じ志を持つ仲間と徹底的に議論を重ねて、国家社会を平和で人々が物質的にも精神的にも豊かになる事業計画を作成しました。熟議を重ねて形成された公論をもとに実行された事業により得られた利益を公益と呼んだのではないでしょうか。
それは、あらかじめ決まっていたものではなく、時代や場所によって異なり、公益自体の中身も変化していきました。したがって、時には政府の唱える国益を超えた世界に通用する公益を考えたのです。
このように考えると、現在の世界ビジネスパーソンの多くが注目しているSDGs(持続可能な開発目標)やCSV(共通価値の創造)は、すでに100年以上前から、渋沢栄一の「合本主義」で行われていたことに驚かされます。まさしく温故知新なのです。