Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

日本社会が壊れ始めた「就職氷河期世代の実体験」…正社員も非正社員も「嫌なら辞めろ」

平均年収443万円――これでは普通に生活できない国になってしまった。なぜ日本社会はこうなってしまったのか?


重版7刷の話題書『年収443万円 安すぎる国の絶望的な生活』では、〈昼食は必ず500円以内、スタバのフラペチーノを我慢、月1万5000円のお小遣いでやりくり、スマホの機種変で月5000円節約、ウーバーイーツの副業収入で成城石井に行ける、ラーメンが贅沢、サイゼリヤは神、子どもの教育費がとにかく心配……〉といった切実な声を紹介している。


私の原体験
あまりに若者が疲れている、何かおかしい──。
社会人になりたての2000年から2003年にかけて、当時、経済記者だった私が感じたことだった。その頃に社会に出た同世代の多くが、連日の“サービス残業”で終電帰り、土日も“サービス出勤”をしていた。たまに休める日は疲れ切って動けず、寝たきり状態。よく言われる「若い時は勉強だ」という域を超えているように思えた。


私が大学を卒業したのは2000年3月。この年が、大卒就職率が統計上初めて6割を下回る、超がつくほどの就職氷河期だったと知ったのは、仕事でこの問題を追い始めてからだった。


マスコミ受験を中心に、金融や商社、サービスなど興味のあった企業100社以上にかたっぱしからエントリーシートを送り、少なくとも50社以上の試験や面接を受けた。しかし、たとえ最終面接まで行っても、ダメ。それが続くと、「人間失格」の烙印を押されている気がしてきた。


ある銀行のリクルーターからは「最終面接で女子はバッサリ落とされた」と告げられたこともあった。ある中小企業の社長からは「うちには向かない」と言われたことも。


理由はどうあれ、とにかく「内定」の二文字はとてつもなく遠く、就職活動で歩き回った脚はパンパンだった。やっとのことで唯一の内定が出たのは、ティッシュ配布のアルバイトをしていた消費者金融会社だった。そして卒業後、東京で就職活動をやり直した。


ハローワークに通いながら職探しをし、とにかく無職という状態から抜け出したかった。面接を受けた「福祉と金融」業という零細企業は、年金を担保にする闇金融だった。医療系のリース会社で初の女性営業職を採るとのことで面接は通ったが、毎晩医師に接待するためお酒は強いかと聞かれた。


就職氷河期世代の不安はどこから来るのか?
しばらくして新聞の求人広告で見つけた業界紙の「株式新聞」から正社員の内定を得たのと同時に、政策シンクタンクのアルバイト採用が決まった。


株式新聞社(当時)は民事再生法を申請中で、倒産手続きを行っていたため悩んだが、正社員採用であることと、「面白そうだ」という直感が働き、株式新聞の記者となった。月給は手取りで16万〜17万円だったが、その直感通り、充実した記者生活が始まった。


この株式新聞時代に出会い、私の記者活動に大きな影響を与えたのが、伊藤忠商事の丹羽宇一郎社長(当時)だ。のちに就職氷河期世代の問題を追及しようと悩む私の背中を、丹羽さんが押してくれたのだった。


私たち就職氷河期世代は、どの業界で働いていても、正社員であったとしても、たいていが長時間労働で疲弊していた。非正社員であると、いつクビになるか分からない不安を抱えながら、正社員と同様の仕事をしていた。正社員も非正社員も、「嫌なら辞めろ」と言われ、いつ失職するか分からない圧迫感のなかで働いていた。


それでも経済界を見渡せば、楽天グループが2000年に株式上場。NTTドコモの携帯電話の販売台数が拡大し、携帯電話で利用できるドコモのオンラインサービス「iモード」が普及し始めるなど、ITバブルが起こった。


同世代が抱える不安はどこからくるのか。その疑問が強い違和感に変わったのは、経済記者として上場企業の決算説明会に出て、社長や財務担当役員たちが強調していた言葉を聞いたときだ。


「当社は非正社員を増やすことで正社員比率を下げ、人件費を抑えて利益を出していきます」


ちょっと、おかしくないか。私は眉をひそめながら決算説明を聞いていた。