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【藤井聡】なぜ維新は台頭するのか? ~令和における「まつりごとの溶解」と「マーケティング」が導く悪夢のビジネス政治~

From 藤井聡@京都大学大学院教授
こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。


 今回の統一地方選では、「維新台頭」が目立つ結果となりましたね。


 今日はそのお話をしたいと思います。


 まず、奈良県知事選挙で維新候補の初勝利、自民党は結党以来、初めて「知事」のポジションを失うことになりました。そして、知事・市長選挙で連続ダブル勝利を果たした大阪では、吉村知事が史上最高の得票数となりました。


 そして今、統一地方選の後半戦に向けて、今回の市議会選で議席を伸ばした勢いを背景に「京都市長」を狙うと公言しています。


 どうしてここまで維新が台頭してきたのでしょうか?


 それを一言でいえば、「まつりごとの溶解」です。


 まつりごと、とは漢字で書けば「政」であり、政治そのものを意味します。


 しかし、政治には二つの側面があります。


 一つの側面は、「善の拡大」、つまり、人々の幸福や国家の繁栄、世界秩序形成への貢献といった、側面。


 そしてもう一つは、単なる「勢力の拡大」です。


 いうまでもなく、この二つの側面において、「善の拡大」が「主」であり、「勢力の拡大」はあくまでも「従」にすぎません。


 なんといっても、「まつりごと」の本質は、「善の拡大」にあるからです。


 そのことは、この「まつりごと」という言葉の語源が、雄弁に物語っています。


「まつりごと」とはそもそも「祭り事」という「神事」なのです。そして、「神事」とは、「神」と表現される究極的なる「真なるもの善なるもの美なるもの」とつながらんとする人間の営為。


ですから、「まつりごと(政)」とはそもそも、「真なるもの善なるもの美なるもの」をこの現世において実現しようとする営為なのであり、したがって、一言で言うなら政治学でいうところの「善の拡大」のための営為となるのです。


しかし、この現世には様々な有象無象が存在するが故に、「勢力の拡大」を果たさねばならないわけです。


つまり本来のまつりごと、すなわち、政治とは、「善の拡大」のために、「嫌々」致し方なく「勢力の拡大」を図るべき時には図る、というものなのです。


………ところが……


その政治の基本が、我が国において急速に忘却されはじめているのです。


それを象徴する言葉が、維新の創始者、橋下徹氏の次の有名な一言です。


「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。…自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ」(出展:橋下徹氏『まっとう勝負)


つまり、この一言を通して橋下氏は、「まつりごと」=「善の拡大」は、「勢力の拡大」という目的のための単なる手段として「嫌々」やらねばならないものなのだ、と宣言しているのです。


つまり、橋下徹氏は、本来のまつりごとの哲学を、完全に「真っ逆さま」に解釈しているのです。


だからこそ、大阪都構想を実現するために維新をつくり、維新の一丁目一番地の目標として大阪都構想の実現を掲げていたにもかかわらず、「マーケティング」の視点から今は得策ではないと判断した今回の統一地方選では、大阪都構想を公約から消すことができるわけです。


あるいは、今回の奈良県知事選挙では、その橋下氏が「山下氏は維新政治、都構想の全否定論者。山下氏は過去の発言を削除している。卑怯極まりないね。」とまで批判していた山下氏を、知事選挙における「マーケティング」の視点から擁立することが得策だと判断し、維新は擁立し、そしてその戦略通りに奈良県知事の座を射止めることに成功したのです。


つまり、維新という政治勢力は、本来の政治の目的である「善の拡大」を脇に置き、「勢力の拡大」に一意専心し、選挙における勝利のみを目的として、合理的なマーケティング戦略を推進したわけです。


そして、今回、その維新の戦略が功を奏したわけです。



しかし、もしも国民が、こうした維新政治の本質を見抜いていたのなら、彼らが勝利することは絶対にありえなかったはずです。


国民が一つ一つの政党、一人一人の政治家について最低限の情報を集め、それなりにまじめに判断していたとすれば、こうした維新政治について眉を顰めるということがあったに違いありません。


事実、昭和の時代ならば、維新の台頭はありえなかったといえるでしょう。例えば、昭和ならば、国会答弁の直後に、「ばかやろう」とつぶやいた総理の独り言がマイクにたまたま乗ってしまい、それが大問題となり、内閣を解散する事態にすらなっていたのですから。


しかし、政治における目的(善の拡大)と手段(勢力の拡大)が逆転しているのは、維新だけではありません。


今回の奈良知事選挙においても、自民党の幹部(派閥の領袖でもある現総理・幹事長・選対委員長)らは、総裁候補として国民的人気の高い高市氏をつぶしてやろうという党内における権力闘争(つまり「勢力の拡大」)を、「奈良県の明るい未来」(つまり、「善の拡大」)よりも優先したのです。その結果、保守が分裂し、自民が破れ、維新が勝利することになったのです。


つまり、維新の「善の拡大よりも勢力拡大」方針は確かにあからさまではありますが、自民党の幹部連中においても、その方針は確かに支配的になってきているのです。


しかし、維新のほうが自民よりも、その「善の拡大よりも勢力拡大」方針が徹底しており、マーケティング戦略において優越したわけです。そして、善の拡大を志向する国民が急速に減少しつつある令和の日本においては、善の拡大という本来の政治を志す側面を「中途半端」に残存させている自民よりも、マーケティング戦略において優越している維新が、より多くの票を得ることに成功したのです。


今回の選挙を通して、「善の拡大よりも勢力拡大」という本末転倒政治の勢いが、さらに拡大することになった、というのが、今回の選挙の本質的な意味です。


こうなれば、自民党における「善の拡大よりも勢力拡大」路線がさらに拡大することとなるでしょう。つまり、自民が維新に引き摺られるリスクが今、急速に高まっているのです。


そうなったのも、自民党が、目先の政治勢力の拡大を目指し、「善の拡大よりも勢力拡大」路線を中途半端に拡大してきたからです。


彼らが、政治の王道に立ち返り「善の拡大のための勢力拡大」路線を採用すれば、まだまだ自民党が復活することにもなるでしょう。(そしてもちろん、野党においても、「善の拡大よりも勢力拡大」方針をはっきりとさせることができれば、国会の議論が活性化し、両者が活性化していくことも間違いないでしょう)


しかし、主要な政党は、そうした転換ができなくなってしまっているのです。


中途半端な善の追求と、中途半端なマーケティング戦略の組み合わせしかできず、維新の徹底的なマーケティング戦略に太刀打ちできなくなりつつあるのです。


そう考えれば、維新はますますこれからも台頭していくことになるでしょう。


しかし…そうなれば、維新は勢力拡大という利益を得ることができますが、国民、国家はすさまじい被害を受けることとなるでしょう。なぜなら、こうして拡大した政治勢力は決して、国民、国家の利益のために活用されることはなく、すべて、さらなる勢力拡大に活用されるからです。


それはまるで、営利のみを目的としたブラック企業の様そのものです。


いわば、今回の選挙を通して、日本の政治がますます「ビジネス化」したわけです。


はたして、我々はこの悪夢のビジネス政治を転換させることができるのでしょうか…?


それが、この民主制を採用している我が国においてできるとすれば、それは国民一人一人が、ビジネス政治のおぞましさをしっかりと認識することが必要なのですが…。


なかなか絶望的な話ですが、当方はこのメルマガの記事配信などをはじめとして、その「世論の転換」に向けてできることを、一つ一つ積み重ねていきたいと思います。


読者各位におかれましても是非、できるだけの努力をできるだけ、重ねていただけると、当方としても、大変にうれしく思います…。


では、また、来週…。