ネコウヨの散歩

ネコと憂国

日本人が忘れてはならない歴史 悲惨なシベリア抑留、遺骨収集は責務

 「赤のカーテン」「鉄のカーテン」と言われても、ピンとこない人たちが増えてきた。時代の流れとはいえ、私たちは歴史を忘れてはならず、国民として風化させてはならない諸問題を背負っている。
 1967年6月、私はソ連遠征レスリング日本代表選手団の選手として訪ソした。航空便はなく、横浜港からソ連客船ハバロフスク号で出航。今では考えられないくらいの人たちが、見送りに来てくれた。
 ナホトカ港に着岸。涙が流れ出る。高校の恩師がシベリアに抑留され、この港から帰国できた話を想起したからである。極寒の地にあっては、「生きていることが幸福だった」と話した恩師の声は忘れようがない。私たちの高校時代、学校にも家族にも戦争体験者がいた。
 入国審査を終えて税関に向かう前、選手団は集められた。「日露戦争は、日本が勝利したのではなく米国の仲裁で休戦したのです」と、女性の役人から説明があったのには驚いた。ソ連という国の本性を現していて、まだまだ日ソ関係は緊張感に包まれている印象を持つ。
 港を出るとこじき集団の群れと出くわす。日本では見ることのできない貧しい人たちが鈴なり、日本のメディアに登場しない光景だった。選手団は水を買う。「生水を絶対に飲まず、ミネラルウオーターを飲むように」とコーチ陣。生水さえも飲めない地に、日本兵たちは抑留されていたのだと知る。
 ナホトカからシベリア鉄道でハバロフスクへ行く。車窓の流れ行く景色は、所々の森林と地平線まで広がる耕地、エキゾチックさに酔うしかなかった。もしかしたなら、これらの広大な耕地は、抑留された日本兵たちが開墾したのだろうかと勝手に決め込む。約57万5000人もの日本兵たちが奴隷的強制労働に従事させられたのだから。
 ハバロフスクに着くと、日本総領事館の館員が日本兵の墓地へ案内してくれた。チームとして花輪をささげ、手を合わせる。こんなに多くの死者がいたのかと、私たちはがくぜんとする。過酷な風土の地で悔しいことに命を落とされた日本兵たち、言葉がなかった。約5万8000人が犠牲になったとの説明、戦争の酷さとソ連の仕打ちに心がいてつく。同時に己たちの恵まれた境遇に感謝した。「まだまだ遺骨収集ができていません」と、領事館員の声。
 アムール川や市内を観光したが、立派な建築物の多くは日本兵たちが強制労働で建てた遺作、日本人の優秀さを物語っていた。整備された墓地があるとはいえ、犠牲者数は米国の研究者W・ニンモによれば、約34万人に達し、ソ連側の発表は不透明というしかあるまい。
 約1カ月をかけてソ連各地を転戦。私たち遠征団は、ロシア人以外の民族の住む地域の慰問団として利用されていたのだ。人気のあるレスリング、どこも超満員の盛況で、私たちへの待遇はすこぶる良かった。
 モスクワでは、バイヤーと称される者が押しかけてきて、ラジオ、カメラ、時計などを「売れ」という。日本製品であれば、何でもいいような印象を受けた。日本人捕虜の優秀さと勤勉さを知るロシア人たちは、内心、日本人を冷戦中であるのに評価していたかに見えた。
 ところで、「戦没者遺骨収集推進法」は2016年3月に成立したが、シベリアに抑留された日本人の遺骨収集は進んでいない。犠牲になられた人たちの遺骨を一刻も早く帰国させてこそ終戦を迎えることができる。遺骨収集は国家の責務であり、遺族の願いである。私は今も心の底からロシアという国に信頼を寄せることができないでいる。
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 ■松浪健四郎(まつなみ・けんしろう) 日体大理事長。日体大を経て東ミシガン大留学。日大院博士課程単位取得。学生時代はレスリング選手として全日本学生、全米選手権などのタイトルを獲得。アフガニスタン国立カブール大講師。専大教授から衆院議員3期。外務政務官、文部科学副大臣を歴任。2011年から現職。韓国龍仁大名誉博士。博士。大阪府出身。