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海上自衛隊で最も“実戦経験”アリ「掃海部隊」の凄み 米軍も一目置く旧海軍唯一の生き残り

大戦中アメリカが行った「飢餓作戦」
 世界最強の海軍といわれるアメリカ海軍が一目置く海上自衛隊の部隊、それが「掃海部隊」だと言われています。その背景には、同部隊の由来と、歴史の積み重ねがあります。
 なぜなら、海上自衛隊の掃海部隊は、第2次世界大戦(太平洋戦争)後も、ひたすら浮遊機雷や不発弾と「戦い続けてきた」実力組織だからです。大戦で日本が負け、旧海軍が解体された後も、唯一存続が許された組織であり、アメリカ海軍以上に機雷や実弾の処理実績を積んできました。
 ある意味、海上自衛他の中で最も長い歴史を持つ部隊。そんな掃海部隊の実力を見るためには時計の針を大戦中に戻す必要があります。

© 乗りものニュース 提供 訓練で機雷を実際に爆破処理する海上自衛隊掃海隊群の掃海艦「ひらど」(画像:海上自衛隊)。
 日本の掃海部隊は1923(大正12)年、横須賀鎮守府に編成された第一掃海隊にまで遡ります。その後、各鎮守府に部隊が設置されていきました。
そして、大戦末期の1945(昭和20)年3月、アメリカ軍は沖縄上陸にあわせて「ストラベーション(飢餓)」作戦を実施します。この作戦は、日本の主要港湾や海峡を機雷で封鎖し、海運を麻痺させようというもので、8月の終戦までに敷設された機雷は1万2135個にものぼりました。これに対して各鎮守府付の掃海部隊はアメリカ軍の掃海を終戦まで行っています。
 9月2日、アメリカ戦艦「ミズーリ」での降伏調印式の後、旧海軍が行ったのは海外からの復員(将兵の軍務を解いて帰郷させること)と掃海の継続でした。同じ日、日本を占領統治するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、一般命令第1号であらためて、連合国軍として掃海を命じます。
 このGHQの命令により、日本政府は一旦復員した掃海部隊員を再召集。それに応えて、戦後復興の使命と職を目当てに約1万人が復帰し、残っていた海防艦、駆潜特務艇、哨戒特務艇、徴用漁船など348隻が集められました。
 こうして、9月中旬には横須賀、呉、佐世保の各鎮守府と大阪、大湊の警備府に所属する掃海部隊が作業を開始したのです。
 日本周辺海域の機雷は、8月15日の終戦後も日本側の手で処理したり、はたまた自爆したりで、9月1日時点でアメリカ軍のものは約6600個まで数を減らしていました。しかし、それでも日本自身が戦時中に敷設した繋維機雷55000個も残っていたことから、合算すると依然として1万2000個以上の機雷が存在していました。
 とはいえアメリカが設置した機雷の処理は面倒でした。機雷の種類も様々で、船体の磁気や機械が発する電波やスクリュー音に反応する感応機雷、水圧の変化による水圧機雷、はたまた両方を併せ持つ複合タイプもありました。
 なお、機雷は瀬戸内海に集中しており、なかでも関門海峡に最も多く敷設されていました。また、掃海当初はモルモット船とも呼ばれた「試航船」を、あえて機雷に接触させ、その存在を確認する方法なども採られていました。
所管を渡り歩いた掃海部隊
 当初、日本の掃海部隊はアメリカ海軍第5艦隊の指揮下にありました。そうしたなか、1945(昭和20)年11月末に海軍省が廃止され、掃海部隊は復員を担う第二復員省の所管になります。翌1946(昭和21)年には旧陸軍省の第一復員省と統合し復員庁になりました。
 その復員庁は1948(昭和23)年1月に廃止され、復員事業は厚生省(現在の厚生労働省)、掃海は運輸省(現在の国土交通省)へ移管、掃海部隊はさらに5月に新設された海上保安庁へと移っていきます。
 この間も、一般商船の触雷事故が相次ぎ、掃海作業でも多くの犠牲者が出続けますが、1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争で転機を迎えます。

© 乗りものニュース 提供 日本周辺に1000ポンドMk26航空機雷を投下するアメリカ陸軍航空軍第9爆撃群のB-29爆撃機(画像:アメリカ空軍)。
 当時、韓国に駐留するアメリカ軍の主力部隊が引き上げた隙をついて北朝鮮軍が進攻を開始したため、開戦から短期間でたちまち釜山周辺まで占領されるという状況となっていました。これを受けて、GHQのトップだったマッカーサーは朝鮮半島を分断する仁川上陸作戦を計画します。この作戦においては、北朝鮮軍が敷設したソ連製の機雷が障害となります。
 この機雷を除去するにあたり、アメリカ軍と韓国軍では手が足りなかったことから、GHQは日本に動員命令を下します。日本側としても、日本海沿岸に漂着する北朝鮮の浮遊機雷があり、対岸の火事ではなかったという事情もありました。
 戦時下の掃海は危険度が増します。参加要員の志願が募られたものの、辞退した者も多くいました。そして編成された日本の特別掃海隊が受け持ったのは、仁川に続いて連合国軍が上陸する元山でした。
 派遣された掃海部隊の旗艦「ゆうちどり」と7隻の掃海艇からなる第1陣の第二特別掃海隊は、1950(昭和25)年10月10日に掃海を開始します。
 現場ではアメリカ軍の掃海艇が触雷事故により相次いで沈没しており、第二特別掃海隊も10月17日に掃海艇MS14が繋維機雷のために轟沈、死者1名と重軽傷者18名の被害を出します。人的被害はこの時だけでしたが、10月27日にはMS30が座礁沈没しています。
 その後、第二特別掃海隊の活動は仁川やその他の地域に広がり12月15日に終了、日本の掃海部隊は連合国軍から高い評価を受けました。
自衛隊屈指の実戦経験部隊「掃海隊群」
 一方、その頃の日本国内では朝鮮に出動した連合国軍に代わり、治安維持を目的とした警察予備隊が設置されます。これはポツダム宣言受諾に伴うGHQの命令でした。警察予備隊は1952(昭和27)年8月に設置された保安庁に移管され保安隊となります。この時点で掃海部隊は海上保安庁の海上警備隊所属でした。

© 乗りものニュース 提供 2022年5月3日、初めて横須賀基地に入港する掃海隊群の護衛艦「もがみ」(画像:海上自衛隊)。
 その後、1953(昭和28)年に朝鮮戦争が休戦すると、アメリカの要請で日米相互防衛協定が結ばれます。この協定に基づいて保安隊は陸上自衛隊、海上警備隊は海上自衛隊へと姿を変えました。これは事実上の再軍備といえるものでしたが、終戦後に日本を武装解除したアメリカは、世界情勢の変化により日本に再び軍事組織が誕生することを望んだのです。
 こうして海上自衛隊に編入された掃海部隊は、掃海隊群として新たなスタートを切りました。
 その後、幾多の変遷を経て、掃海隊群は2013(平成25)年の「防衛計画の大綱」を受けて、島嶼防衛も実施できる水陸両用戦部隊に生まれ変わっています。
 アメリカ海軍は、長い歴史と実戦経験から掃海技術についても世界でトップクラスのノウハウを持っています。それに対し、日本の掃海部隊も朝鮮戦争後、日本各地で発見される大戦型機雷の処分作業を行い続けただけでなく、1991(平成3)年の湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣されて、彼の地でやはり機雷の除去作業に従事するなど常に第一線で活動を行い続けてきた経緯があります。ある意味、陸の不発弾処理と共に自衛隊で1、2を争う「実戦経験」を有していると言えるでしょう。
 だからこそ、旧海軍時代から途切れることなく続く歴史と相まって、アメリカ海軍にも一目置かれる存在となっているのです。