Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

ソ連軍機の航空侵犯が航空自衛隊の生みの親という皮肉をご存じですか 横暴国の脅威は周辺の協力を深めるだけ

ロバート・D・エルドリッヂ


そういえばロシアとは
今年に入り、ロシアによる突然のウクライナ侵攻で、日本でもロシアとの関係が改めて注目されている。そしてロシアとは、歴史的に戦争、国境紛争、空海の侵犯など、常に緊張状態にあった。
北方領土の不法占拠、日本軍捕虜の非人道的扱い、日本漁船の度重なる拿捕など、ロシアの対日外交の酷さにはいつも驚かされる。しかもその歴史は長い。
特に、近年、ロシア(と中国)軍機による空からの侵犯は、しばしば同時または並行して行われ、日本を悩ませてきた。合わせて年間1000回近く、場合によっては1200回近い侵犯が行われている。
■緊急発進の対象となった航空機の飛行パターン

© 現代ビジネス 航空自衛隊HP
これらは今に始まったことではない。冷戦時代も航空自衛隊は主に北方領土でソビエトの脅威に対処しなければならなかった。
このような侵犯は、航空自衛隊が発足する1954年以前から始まっていた。そもそも航空自衛隊が創設されたのも、この侵犯があったからである。また、重要なことに、このことが日本の防衛に対するアメリカの関心、防衛予算の増加、日本への装備や航空機の提供の増加、日米間の連携の強化など、日米同盟の強化につながった。
これらの空中侵攻の影響を考えると、ソ連は航空自衛隊の生みの親と表現しても過言ではないだろう。
これは、中国が台湾に対して挑発し、台湾の窮状を国際的に認識させ、日本の尖閣諸島に対して挑発し、日本の防衛意識を高めたのと似ている。これらの国の攻撃的な戦術が、日本の防衛や日米安全保障協力のレベルを長年にわたって高めてきたのだから、皮肉だが、我々は感謝の念を抱くべきだろう。
強気のソ連、弱腰のアメリカ
特に1952年はそうであった。1952年4月28日、ソ連が調印していないサンフランシスコ平和条約が発効すると、ソ連の侵攻は劇的に強まった。
秋口には、在日米軍(当時は極東軍と呼んでいた)と日本政府の間で、侵犯に対する防御の問題が日本の最高レベルで提起されるほど、事態は深刻化していたのである。この時点では、日本政府はまだ基本的に対外的には無防備であった。そのため、朝鮮戦争に参戦している米国に、その脅威に適切に対処してもらう必要があった。
例えば、1952年10月9日から12月31日までの間に、ソ連機による日本領空侵犯は17件確認されており、そのうちのいくつかは日本の新聞で報道され、一般に知られることになった。
しかし、残念ながらアメリカはこの脅威に対して適切な対処をすることができなかった。朝鮮戦争の最中であったため、その戦力と関心は主にそちらに注がれ、北海道の部隊はソ連に近い北部ではなく、南部に配置されていた。そのため、アメリカ政府はソ連に警告を発することをためらい、対処を実行することができなかった。
侵略の脅威から解放されて
このアメリカの弱点は、ソ連側にはあまりにも明白であった。10月5日公開の「ご存じですか 70年前の北方領土米軍機墜落事件―今も続く緊迫の構図」で紹介しているように、10月7日、日本の降伏後1945年9月にソ連が接収した北方領土の上空を偵察していた武装していないRB-29スーパーフォートレスがソ連機によって撃墜され、乗組員8人全員が死亡した。
米国政府は自制して外交的解決を図ったが、ソ連の強硬姿勢が続いたため、1955年に国際司法裁判所に提訴することになった。
また、アメリカ政府内には、同盟とアメリカのプレゼンスに反対する日本の左翼を刺激することへの懸念もあった。その反対運動は、今日の活動家と同じように、在日米軍基地や軍隊は、1951年9月8日の日米安保条約の調印式でディーン・G・アチソン国務長官が発言したような防衛目的のためにではなく、日本の近隣諸国に対する脅威であるとみなしていたのだ。
一方、アチソン長官は、次のように述べていた。「この安全保障条約の目的について、誤解があってはならない。この条約の目的は平和である。この条約の下で提供される防衛協定は、日本国民がより良い生活条件に向かって進んでいることを保護する盾となるであろう。この条約は、日本国民が、侵略の脅威から解放された新しい平和な日本を建設するために、建設的な活動を続ける機会を与えるものである」。
良識のある読者にどちらの見方が正しいか、判断を委ねたいと思う。
早期の設立、しかし依存度も増して
ソ連が侵犯を繰り返した当時の意図は不明である。新設された日米同盟を分断するためだったのか、日本の防衛力を探るためだったのか、米軍の駐留を引き伸ばすためだったのか......。おそらく、その全てであったろう。しかし皮肉なことに、それは同盟の強化、協力関係の深化、日本の対米依存度の上昇につながった。
ロバート・D・マーフィー駐日大使も吉田茂首相も、それぞれの回顧録でこの問題について特に言及していないが、国務省、大使館、米極東軍、外務省、首相官邸の間で強い連携が行われた。このような協力体制は立派なものであり、同盟関係への構築に向けたハイライトの一つであった。
日米両政府は、国際的・国内的メッセージ(日本政府の声明発表も含む)のみならず、ソ連機を撃墜・着陸させるための交戦規則の内容も短期間で調整した。
さらに、両国は航空自衛隊の計画を策定したが、これは侵犯の激化を考慮して急がざるを得なかった。こうして、航空自衛隊は1954年、多くの専門家や関係者の予想より早く設立されることになった。
だから、侵略から70年目の今年、ロシアに大きなСпасибо(謝意)を贈ろう。しかし、過去と同様、今日も日本周辺での挑発的な活動は、日米間、そして地域やヨーロッパの志を同じくする国々との協力をさらに深めるだけであることを認識する必要がある。
歴史は嘘をつかない。