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安倍総理の志は死なない!!

3期目の習政権、明王朝と共通する意外な「弱点」

「一つの中国」に固執、強権政治は恐怖の裏返し
岡本 隆司 : 京都府立大学文学部教授
2022年11月02日
「一つの中国」にこだわる習近平。その強硬姿勢の歴史的淵源とは。
東アジアは広大だから、地域ごとに暮らしぶりは当然さまざま、種々バラバラなコミュニティーが分立した。そんなユニットの1つとして、日本列島も存在すると見なしてもよい。そして同じ中国人といっても、各地どこに向かってもおかしくないような人たちがいる。
そのように並存する多くの地域ユニットを統合するのが、歴代王朝の使命・イデオロギーだった。統一こそが至上の価値、その中心を担う「大一統」という思想で、まさにバラバラだった現実の裏返しである。
中華民族の復興
王朝に非(あら)ざる今の共産党政権も、実はあまり変わらない。「一つの中国」「中華民族の復興」というのが、かつての王朝イデオロギーに相当する。
中国歴代の当局者に言わせれば、そうした統合に反する逆行・離脱が恐ろしい。各地それぞれのユニットは、磁力のある方向に砂鉄が動くように流動する。以前は北方の遊牧民が、そんな磁力を有していた。新疆ウイグル自治区は、その成れの果てだろう。
いま台湾がアメリカへ、香港が民主主義という磁力に引き寄せられているのは見てのとおり、しかしそんな動きは遅くとも100年以上前から存在していた。いずれも大陸の政府とは、体制・制度・思想が懸け離れてしまった。
そこで統合のために「一国二制度」が必要となる。ところがそのまま「二制度」を認めていては、やはり大陸の政権から離れかねない。そうした動きを力づくで抑え込んだのが香港だったし、台湾は上下こぞって、大陸から離反する動きを強めている。香港国家安全維持法を通じた強権の発動、台湾に対する軍事演習の威嚇は、そんな危惧・恐怖の裏返しであった。
今に始まったことではない。台湾が中国から離れたのは日清戦争から、香港はアヘン戦争からだった。そういうと、いかにも帝国主義列強の侵略に見える。
しかし17世紀の台湾は、オランダや鄭成功の勢力が占拠支配した。香港は16世紀以来、ポルトガル人の蟠踞(ばんきょ)してきたマカオの再現である。いずれも中央政府の実効支配は希薄で、元来から離れていたといえば言い過ぎだろうか。
「倭寇」の内実
その16世紀、シナ海は「倭寇(わこう)」の時代だった。「倭寇」とは文字どおりには、日本の海賊という意味である。しかし内実はそうではない。内外の貿易業者が集まったアジト・コロニーに、政府官憲が法令違反だと検挙に踏み切ったところ、中国人・外国人を問わずこぞって反抗した事件である。
300年を隔てたアヘン戦争も、実は構造の変化はない。品物が禁制・麻薬のアヘンだっただけである。その密輸は内外の英国人・中国人を通じて、ほとんど公然自由におこなわれていた。それなのに突如、禁令が目を覚まして密輸取り締まりの励行となった。それに英国が上下こぞって異をとなえて開戦にいたる。
現地の民意に背く強権を当局が発動し、民間の自主的な営みとその空間を官憲が法律武力で威圧弾圧した。そうした構図は「倭寇」もアヘン戦争も共通する。
16世紀の「倭寇」では内外の貿易業者がつるんでおり、日本人やポルトガル人を引き入れる中国人がおびただしくいた。さきにふれた台湾の鄭成功は平戸生まれ、母親が日本人である。
19世紀、アヘンを持ち込んだのは英国人ながら、ひろめた密売人は中国人であって、だから戦争では英軍に通謀する「漢奸(かんかん)」も多かった。香港はそんな連中の巣窟として始まったのである。
交易であろうと、麻薬であろうと、外界と通じて中央政府に背くという民意、バラバラに分離しようとする動きに変わりはない。現代はかつての貿易・密売に民主主義が代位したとでもいえようか。
「倭寇」はこのように目前の香港・台湾問題の母胎と見なすべき歴史事象でもある。それなら現代の中国をめぐるありようは、明代までさかのぼれるといってよい。
「明代」という起源
明王朝の創始者は太祖朱元璋とその息子の永楽帝である。2人あわせて、おおむね14世紀の後半から15世紀の初めをカバーする。
前者はモンゴル帝国を駆逐して、漢人王朝を建設した。折からの気候寒冷化と疫病の蔓延・景気沈滞に応じた閉鎖的な体制を築き、国内の流通経済・海外との通交通商を制限統制する。そしてそれに背きがちな江南の人士を虐待虐殺して、国内統合をはかった。
永楽帝は太祖の正式な後継者ではない。太祖を相続した江南政権に謀反を起こして、帝位を奪った人物である。その際、やはり江南の人士・数万人を虐殺した。北京に本拠を置いて、太祖の構築した体制を完成させたけれども、これで南北あるいは官民の対立は、構造化したともいえる。
15世紀も半ばを過ぎれば不況も回復し、民間の経済活動も活潑に赴いてきた。ところが北京の明朝政府は、朱元璋・永楽帝の定めた体制・イデオロギーを墨守するばかりの存在である。経済活動に必要な通貨の提供管理や交易・通商の障碍除去など、民意のニーズに応じなかったから、民間は独自に経済を回さねばならなかった。
そこで起こってきたのが中国各地、とりわけ南方での地域経済と海外貿易の発展である。その所産が16世紀の「倭寇」だった。
同時期・大航海時代の西洋と戦国時代の日本と結びついた中国各地の民間経済は、力量を増大させてゆく。そうした動きは、明朝政権の体制イデオロギーに逆行し、なればこそ「倭寇」の弾圧も生じた。北京と地方、政権と民意の相剋である。
明朝は多元化に対応できず
どうやらこのような明代の社会構造に、現代の中国問題も淵源があるといえそうだ。北京政府・「中華民族」という権力・権威からすれば、体制イデオロギーに背いて在地の民意の側に立つ香港・台湾は、「漢奸」・分離主義者にほかならない。
しかし近代欧米の既成観念・「普遍的価値」に染まった現代人の意識・感覚からすれば、体制墨守を譲らない明朝政権、「一つの中国」を強行する中国政府こそ、強権をふるう独裁専制である。
互いの齟齬(そご)が数百年の歴史を背負っているとすれば、解決はおろか理解認識すら難しいのかもしれない。まずは現実の多元化に対応できなかった明朝の歴史に学ぶことが、目前の中国について考えるうえでも有効であろう。