Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

「日本語ですら話が通じない日本人」が多すぎるのに、小学校から英語教育をする必要があるのか

すべては「トレードオフ」で考えるべき
EMPSの2020年10月21日「小学校の英語教育が必修化!」やAmazing Talkerの2021年1月21日「2021年から全面実施!小学校で英語教育が正式科目に!」などの記事で解説されているように、「小学生からの英語教育の『義務化』」が推し進められている。
だが、いつの間にか進行している「(小学校からの)英語教育義務化」は、本当に子供たちのためになるのか?あるいは、かえって子供たちの将来にダメージを与えるのではないかという疑問が浮かぶ。
日本の悪弊の一つに「根性論」がある。どのような素晴らしい根性があっても、1日24時間であることは変えられない。この「『時間は有限』であり、『一つのことをしている間は、他のことができない』」=「トレードオフ」を理解していないことが、日本におけるホワイトカラーの生産性の低さの最大原因であると考える。
なお、「トレードオフ」については、 2020年8月4日公開「『勝ち残る会社』はここで探せ!優良企業の宝庫『ポーター賞』をご存知か」冒頭ページ「一所懸命=トレード・オフ」を参照いただきたい。
上司が帰るまでひたすら待っている「だらだら残業」が横行したり、決まった時間内に作業を終了できない(能力の低い、集中力にかけた)人物が残業代をもらって居残っているのを「仕事熱心」だと評価する悪弊がはびこるのも「時間は有限」であるということを理解していないため生じる。
合理的な取捨選択という最初の最も重要な段階を飛び越して、間違った道の上でいくら努力をしても全くの徒労だ。投資の神様・バフェットは「正確に間違っているよりも、大雑把に正しい方がましだ」と述べるが、同じである。
つまり、仕事の効率性を高めるには「取捨選択」が極めて重要なのだが、取捨選択をせずに「やればできる」とばかりに、あれもこれも手を出し、結局どれもが中途半端になるのが日本(企業)の問題である。戦前の「竹やりでB29を落とせないのは、貴様たちの根性が腐っているからだ」という根性論が形を変えて、日本社会に根付いている。
NewsPicksの「社内公用語の英語化で日本企業はどう変わる?PROGRIT社長と国際投資アナリストの大討論へMC加藤浩次も参戦!?」という番組へ出演したときも、「英語を公用語にすれば、勉強の意欲もわいて、時間を捻りだすことができるんですよ……」というような趣旨の発言があったと記憶している。
確かに、勉強でも仕事でも意欲が結果を大きく左右するのは事実である。むしろ仕事に対するモチベーションをもっと重視すべきであることは9月4日公開「つまらない会社はつまらないものしか生み出せない…では会社の成長を支える『面白い』とは何なのか」で述べた。
だが、それはあくまで「個人」の問題であり、「個人」に対して行うべきマネジメントなのだ。
学校や会社という「組織」で一律のルールを押し付ける時には「トレードオフ」の視点であるべきである。したがって、小学生の英語の勉強を義務化すれば当然のごとく、それによって押しやられ充分に学べない教科が出てくる。
そろばん・習字教育の結果は?
歴史を振り返ってみれば、そろばんや習字は、江戸時代には重要であった。そろばん無しでは「商い」ができなかったことは言うまでもない。
また、キーボードなど存在しない時代には、手書きの文字を美しく書くことには大いに意味があったし、教養や人格までもが手書きの文字で判断された。したがって、当時はこれらの教育も重要であったといえる。
私も小学生時代、多分に漏れずそろばんと習字を習った。そろばんの方は、私が社会人になった頃には電卓が普及していて、実力(?)を発揮する機会は無かった。
ちなみに、私が短資会社に就職した時代、金融機関には「そろばんの名手」と呼ばれる人々がまだ残っており、「電卓よりも早い」と豪語していた。だが、今やエクセル(表計算ソフト)全盛の時代である。さすがにそろばんでは太刀打ちできないであろう。
また、習字の方は、年賀状に達筆であて名書きをする知人たちをうらやましく思っていたが、それ以外に筆で文字を書く機会は社会人になってからほとんど無かった。
ただし、「手書き」については、パソコン、タブレット、スマホが普及するまでは必要性が高かった。「ペン習字」もかなり実用性があったといえよう。
だが、「IT・インターネット革命」が完了した現在では、手書き文書を見かける事はほとんどなくなった。おかげで習字教室に通ったにも関わらず悪筆の私は、ボロを出さずにすんでいる。
「英語」も、すくなくとも戦後50年くらいの間は勉強して役に立つものであった。
たまたま私は国際金融の世界で働いたが、「英語をもっと勉強していればよかった」と感じたし、必要に迫られてかなり気合を入れて勉強した。
だが、2019年7月30日公開「『英語社内公用語化ブーム』が、ひそかに大失敗に終わりそうなワケ」から4月3日公開「英語社内公用語化は『ガラパゴス』『形式主義』『同調圧力』の象徴か?」に至る一連の記事の中で述べたように、現在は「帰国子女」を始めとする「英語屋」があふれる時代である。
いわゆるグローバル化によって、父母の仕事などに伴って英語圏(あるいは英語を話す必要がある地域)で育つ子供が増えた結果だが、かつては「希少価値」であった、英語を流暢に話せるメリットは大幅に低下した。
よく言われるように、英国や米国などの英語圏では「ホ―ムレスでも流暢な英語を話す」のである。
ポケトークと勝負するのか?
前記の「社内英語公用語化」に関する一連の記事でも触れてきたが、「英語(外国語)はAIに任せる」という流れが加速している。
今や、ネット上の多種多様な言語のページを「自動翻訳」してくれる。確かに、「微妙な翻訳」もしばしば見かけるが、それは人間が行う翻訳でも同じだ。よほどの熟練した翻訳者でない限り、AIの精度を追い越すことはできないし、そもそも「翻訳スピード」に天と地ほどの開きがある。
また、AIは人間と違って、特定の分野に集中し、揺らぐことなく永遠にデータを蓄積して学習を続ける。したがって、チェスのチャンピオンがAIに敗北したように、超一級の翻訳者がAIに敗北するのはもう間もなく(すでに?)であろう。
文字ベースだけではない。「IT メディア」の10月12日「『ポケトーク同時通訳』2022年冬に登場へ AIが英語→日本語音声に翻訳」と報道されている。
もちろん、プロの第一級の同時通訳と比べればまだ見劣りするかもしれないが、文字翻訳と同じようにこれからの「学習」によっていずれ追い越すと考えられる。
しかも、同時通訳をその都度手配して支払う手間とコストなどを考えれば、ポケトークを持ち歩くコストは、限りなくゼロに近い。さらに、国際会議などでの通訳はハードワークで長時間続けられないので、15分ごとに担当者が交代するのが通例である。だが、ポケトークであればその必要もない。
結局、「小学校からの英語教育」は、「そろばんでエクセルに立ち向かう」ように、「(人力の)英語力でポケトークと勝負する」ことになるのではないだろうか?
冒頭で述べた「トレードオフ」を考えれば、子供たちの貴重な時間を使うには、「小学校の英語教育の必修化」は無駄な行為である。
英米は明らかに没落中
大航海時代から産業革命を経て「日の沈まない国」の地位を不動とした英国から、次は米国へと覇権が移った。その結果、我々は英語を話す国が世界の覇権を握る時代を長い間経験してきた。しかし、その前は、欧州においてはフランス語、ラテン語などが共通言語であった。
また、東洋においては、日本で「漢字」、「漢文」が使われることからもわかるように、中国語が共通言語である時代が長く続いた。
清朝末期からの「中国」の没落によって、中国語の世界的プレゼンスは低下した。共産主義中国の「奇跡的な成長」で、再び影響力が高まる気配が見えたが、昨年11月30日公開「習近平ですら吹っ飛ぶインフレの脅威…2022年、世界『大乱』に立ち向かう7つのポイント」のような状況であり、「習近平3選」=「共産主義イデオロギー優先」によって、少なくとも経済的には世界の主要国の地位から滑り落ちるはずである。
また、英国は、トラス元首相の「44日天下」が、「本当の英国没落の始まり」として歴史的に記憶されるのではないかと考える。
さらに、10月14日公開「米国は1971年にすでに死んでいた!?インフレで見えた本当の姿」という状況でもある。
現在の小学生が成人するころには、英米を中心とする「英語圏」の力はさらに衰え、「英語を話せるメリット」はさらに縮小するものと考えられる。
日本語と郷土史の教育をすべき
子供の時に学ぶべきなのは日本語も同じである。執筆を生業としている人間の一人として、一般的日本人の日本語能力には疑問を感じる場合が多い。
日本語こそが日本社会・経済の基盤なのだから、将来役に立つかどうか不透明な英語よりも日本語教育にもっと力を注ぐべきである。
また、海外と接するときには「日本の(本当の)歴史」の知識も重要だ。自分の国の真の歴史も知らずに、世界に満ちている偏見に打ち負かされているようでは、本当の意味で国際的なビジネスなどできない。
さらに、自分の生まれ故郷を愛することが、国家発展の礎である。
10月20日公開「『尾張・三河』は『東京』『大阪』をはるかに超えて『日本の中心』になる…!」5ページ目「浜松も見逃せない」で述べたように、小学生時代に副読本を使って浜松の歴史について勉強した。その効果のほどは、いまだに私がそれをしっかり覚えていて「浜松びいき」であることからもわかると思う。
「地方活性化」が叫ばれるが、怪しげなコンサルタントの「商店街再生計画」などが成功するケースはごくまれだ。それよりも、自分の生まれ故郷の歴史を勉強して、子供たちが「おらが町(村)」のファンになることの方がはるかに重要だ。
自分の町(村)を愛する若者がいなければ、「地方活性化」などあり得ない。
貴重な時間の「トレードオフ」を考えた時に、どの分野を子供たちに学ばせるべきかはおのずと明らかである。