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安倍総理の志は死なない!!

中国の「南」の民が「北」の民に抱く“警戒と反骨”…日本人が知らない「もうひとつの中国」を解明する

中国の社会も歴史も、「南」から見なければわからない――。
『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』(講談社選書メチエ)で、歴史学者の菊池秀明氏は、福建・広東・広西などの華南地方こそが中国世界のフロンティアであり、ここに生きる人々の「越境のエネルギー」こそが中国近代史と経済発展の原動力だった、という。
日本人には見えていない、「もうひとつの中国」とは? 言語・民族から歴史まで、「南の中国」を知るルポライター・安田峰俊氏が、その現状と台湾・香港問題の背景を解説する。
中国の”標準語”を音声入力する難しさ
近年、私と中華圏の友人との連絡はもっぱらメッセンジャーアプリを使っている。中国大陸の人は微信(WeChat)、白紙運動に加わるなどした反体制系の中国人はTelegram、在米華人はWhatsAPP、香港人や台湾人はFacebook MessengerかLINE……と、プラットフォームは違うが、操作方法やマナーはあまり変わらない。通知が来たら素早く返事をしたほうがよく、ぶっきらぼうな返信ではなくそれなりの「会話」をする必要もある。
だが、スマホの小さな画面で中国語のピンイン(発音を表記したアルファベット)を打ち込むのは骨が折れる。そこでiOSの音声入力を使うのだが、これが曲者だ。私の中国語は教科書的な発音から離れているらしく、普通に喋ると言葉をきれいに拾ってくれないのである。仕方なく、語学の授業の音読のようにゆっくりした読み方で、一音一音「標準的」な発音で喋ることになるのだが、その姿はわれながら間抜けであった。
ところが、最近になり福音が訪れた。音声入力のモードを、北京の「普通話」ではなく台湾の「國語」にすればいいと、香港在住の友人に教えてもらったのだ。結果、これまでは自分の発音がヘタだから反映されない思っていた音声入力が、なんと「國語」モードに切り替えた途端にびっくりするほど正確に文字を表示するようになった。おかげで中国語のメッセージが書きやすくなり、日々の効率性が大幅に改善した。
ちなみに、私の中国語には南方系の訛りがある。ジャーナリズム系の「中国屋」にはめずらしく、北京で長期滞在した経験がなく、中国語を覚えた初期の段階で台湾の台南や広東省で学んでいたからだ。大学院時代の研究対象も、中国南部(華南)の歴史や文化だった。その後も広東省周辺と縁が深かったので、それが言葉にも反映されている。
中国語は南北ですこし違う
普通話と國語はいずれも、清朝時代までの宮廷言葉「官話」がベースだ。両者のコミュニケーションに支障はなく、基本的には同じ言語である。ただ、文法や発音・語彙がすこし違う。英語(English)に置き換えて説明すると、北京の普通話はロンドンのイギリス英語、台湾の國語はカリフォルニアの米語に相当する感覚だろうか。
現在の普通話は、もともとの漢語に、北方のモンゴル族や満洲族の言語的特徴や単語が入って形成された、北京方言をベースに整えられた言葉である。北京を首都とする中華人民共和国の標準語で、北京のメディアの発音を事実上の規範とする。ゆえに、発音や文法・語彙にも、長江以北の「北の中国」の言葉としての特徴を持つ。


中国の内モンゴル自治区シリンゴル盟にあるモンゴル帝国の都・上都の跡。モンゴル高原や満洲の異民族は、歴史上しばしば北京を支配した。筆者撮影© 現代ビジネス
いっぽう、「國語」もその根は普通話と同じだが、こちらはかつて南京に首都を置いた中華民国の言葉である。中華民国は、台湾に政権を移して70年以上が経っていることもあって、現在の國語は閩南語などの南方方言の影響をかなり強く受けている。
たとえば、國語は普通話と比べると、いわゆる「r化」やそり舌音をあまり使わず、「n」音と「ng」音の区別が曖昧だ。しかも全体的にペースがゆっくりしていて響きが甘ったるい。福建系住民が多いシンガポールの公用語「華語」の性質もこれに近い。台湾や香港の場合は、漢字も中国大陸と異なる繁体字を使う。
「南の中国」の共通語
國語や華語っぽい南方訛りの中国語は、台湾だけではなく中国南部(華南)の広東省・福建省・広西チワン族自治区とその周辺地域、さらに華南出身者の移民が多い香港(広東語ではなく國語を話した場合)やシンガポール・マレーシア、さらにアメリカのカリフォルニア州やカナダの華僑社会など、相当広い範囲の人たちに話されている。いわば「南の中国」の共通語であり、もうひとつの標準中国語だ。
この言葉は、広東語・潮州語・福州語・閩南語(台湾語)・客家語など相互に通じない各種の漢語方言、さらにチワン族をはじめとした少数民族の言語がマダラのように存在する「南の中国」の社会を覆うようにして、彼らの相互のコミュニケーションの必要から形成された言語(リンガ・フランカ)でもある。


サンフランシスコのチャイナタウンにはためく大量の青天白日満地紅旗(中華民国の国旗)。海外の華人社会は、過去の歴史をタイムマシンのように保存していることがある。筆者撮影© 現代ビジネス
南北のふたつの中国には互いに距離感があり、特に南方の北方に対する忌避意識は強い。たとえば華南の各省や香港・台湾では、北京式の発音の普通話を話すとなんとなく心に壁のある態度をとられがちないっぽう、國語や華語っぽい喋り方をすると打ち解けてもらえる。
逆に北方で南方訛りの言葉を話したときは、「地方の人」扱いはされるものの、そこまでは嫌がられないため(東京で関西訛りの言葉を話すような扱いになる)、より多くの中国人から本音を引き出したい場合は、汎用性が高い南方系の中国語を話すほうが「得」ですらある。
中国の中心は北京とは限らない
「南の中国」は、中国の華南地域と香港・台湾、さらに東南アジアや北米の華人世界までを含む。すなわち数億人の人口と、日本を上回る経済規模を持つ巨大な世界である。いっぽう、今世紀に入り中華人民共和国がいちじるしく強大化するまで、「南の中国」の世界は政治的には北京の権力の影響を受けづらく、独立性が高かった。
南方の視点から見た場合、中国の中心は決して北京ではない。まずは広州から香港にかけての珠江デルタ都市圏、さらに場合によっては台北(20世紀後半以降)が、「南の中国」の中心である。ほかにアモイや潮州など、人によっては別の小さな中心を持つ場合も多くある。
華南の土地は、華北から南下した漢人のフロンティアだった歴史がある。ゆえに、根の部分で移住民の価値観を残している世界だ。なので、人々は暮らしにくさを感じた場合は住んでいた土地を捨て、海外を含めた他の土地に移る。また、常に社会的な地位を上昇させたいと考えているので、商売による貨殖や科挙を通じた立身出世にも、他の地域の人たちに増して熱心だった。


香港の新界、天水囲付近にある鄭氏の宗廟。香港の郊外にはこうした大宗族の宗廟がいまなお多数残る。筆者撮影© 現代ビジネス
とはいえ、開拓も移民も科挙の受験勉強も、一人だけの力では到底できるものではない。そこで華南では自分たちの血縁を活用して一族を成功に導くべく、相互扶助をおこなう「宗族」という父系の血族集団が発達した。また移住先では、故郷が同じ者同士で助け合う拠点として「会館」も盛んに作られた。さらに地縁や血縁を持たない人は、これらのかわりに秘密結社を作って団結した。
「北の中国」の征服への反発
「南の中国」から北京の権力に対する警戒感と不信感は、伝統的に極めて強い。なぜなら、「北の中国」の支配者たちはモンゴル高原や満洲からやって来た異民族を多分に交え、常に南方を征服の対象として見ている。しかも彼らは、北方の言語や価値観や生活習慣を、それがさも全中国のスタンダードであるかのようにして南方に押し付け、同化を図ってくる。
事実、北による南の征服は過去の歴史になかで何度も繰り返されてきた。宋朝(南宋)は1279年にモンゴル帝国に追い詰められ、現代でいう広東省や香港の近海で起きた崖山の戦いで滅んでいる。明朝も1644年に北京が陥落してから中国南部に亡命政府をいくつか作ったが、いずれも満洲族の清朝に滅ぼされ、明朝の遺臣である鄭成功の子孫が拠った台湾南部(鄭氏政権)も、やがて1683年に征服された。


台湾、台南市内にある赤崁楼。17世紀に鄭氏政権の本拠地が置かれた。建物は再建したもの。筆者撮影© 現代ビジネス
もっとも、19世紀中盤以降は、上記のような征服の歴史に反感を抱いた「南の中国」の巻き返しのほうが大きくなる。南方の民の社会では、北京の野蛮な征服者たちから遠い自分たちこそが「真の中華文明」の継承者なのだと考える、屈折した自己認識も生まれた。
太平天国の乱や黄花崗反乱(辛亥革命前夜の反乱)、国民革命軍の北伐といった近代中国の反乱や革命は、いずれも広東(太平天国は広西)からはじまった。これらを率いた拝上帝会・興中会・中国同盟会・中国国民党・中国共産党といった革命結社の根にも、華南の秘密結社のカルチャーが息づいている。


サンフランシスコのチャイナタウンにて、広東起源の秘密結社・五洲洪門致公総堂の本部を取材したときの筆者(安田)。左は五洲洪門の代表の「盟主」趙炳賢さん。筆者撮影© 現代ビジネス
20世紀後半になると、「南の中国」の民の移住民気質と商業ネットワークが、アジアNIESの経済発展や、華南の経済特区(当初は広東省の深圳・珠海・汕頭と福建省のアモイ)を中心に進んだ中国の改革開放政策を生み出していく。
経済的先進地になったこの地域からは、香港映画の傑作の数々や、台湾出身のテレサ・テンや香港でデビューしたフェイ・ウォンの音楽が生まれ、一時は全中華圏を席巻した。19世紀後半から現代にいたる中国の歴史は、政治にせよ経済にせよ文化にせよ「南の中国」抜きでは語れない。
日本人が知らないもうひとつの中国
いっぽう、私たち日本人が抱く中国のイメージは、大部分が「北の中国」のものである。外交機関や日中友好諸団体によるオフィシャルな交流も、中国の深刻な政治問題を伝える報道や論説も、「反中」か「親中」かを問わず常に北京に顔を向けている。大学の第二外国語で習う中国語も、通常は北京の普通話であり、中国人のネイティブ講師も北方の出身者が多い。
対して、「南の中国」の存在とその重要性は、中国近現代史に目配りのある東洋史研究者や、華南を対象にした地域研究者、さらに一部の勘のいいビジネスマンの間では、数十年前から感覚的に知られてきた。しかし、こちらの中国は明確な「国家」の形をとっておらず、水のようにつかみどころがない。ゆえに、一般社会では必ずしも理解されてこなかった。


サンフランシスコのチャイナタウンにて。ブルース・リーはアメリカの広東系華僑の社会に生まれ、香港で映画スターとして成功した「南の中国」を象徴する人物の1人だ。筆者撮影© 現代ビジネス
2022年12月に講談社選書メチエから刊行された菊池秀明氏の『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』は、この「南の中国」の視点を一貫して提示し続けている。一般向けの書籍としては、稀有な本である。
中国近代史には「南からの風」が存在する
菊池氏は1980年代に広西チワン族自治区に留学し、フィールドワークを通じて現地の言い伝えや族譜(宗族の歴史書)の記述を収集、太平天国の乱の勃発前夜における現地の社会構造の解明を試みた、行動力の高い歴史研究者だ。
2005年に刊行した概説書「中国の歴史」シリーズ第10巻『ラストエンペラーと近代中国』(講談社)では、中国近代史を通じて存在する「南からの風」の存在を指摘した。2020年の著書『太平天国』(岩波新書)も、この視点から太平天国の乱の全容を描いた書籍だ(刊行前年に発生した香港デモの性質を考えるうえでも、同書は非常に参考になる)。


2019年秋、香港デモの現場に残された落書き。太平天国から香港デモに至るまで、「南の中国」の反乱の底流には北京への反発が存在する。筆者撮影© 現代ビジネス
今回の記事は『越境の中国史』の書評だが、内容にはあえて詳しく触れない。ただ、私は読者諸氏が同書を手にとってみたくなるよう、その背景の解説、いわばチュートリアルを書いたつもりである。「南の中国」の存在が、もっと広く日本人に知られてほしい。
「北からの征服者」としての清朝と中国共産党
ここから余談を書く。現在の中国を支配する中国共産党は、上海で形成されて南昌で蜂起し、江西省の井崗山や瑞金に拠点を作り、指導者の毛沢東は湖南省出身で周恩来は浙江省出身で……と、本来は長江以南の「南」の空気のなかでできあがった政党だ。
だが、長征を通じて北方の陝西省の延安(そのすぐ北は内モンゴルのオルドス地方だ)に根拠地を建設し、習仲勲(習近平の父)をはじめとした陝甘寧系の党幹部を多く重職につけたことで、中国共産党は後天的に「北の中国」の政治勢力としての性質を身につけた。
彼らは戦後の国共内戦のなかで、まず満洲を占領して関東軍が残した軍事力を吸収し、北方から攻め寄せて北京を陥落させた。1644年に満洲の清朝が山海関を突破して中国本土に侵入したときと酷似した構図である。
やがて北京を首都として南進し、鄭成功なり蒋介石なりの旧政権の残存勢力を台湾に追い払って中国大陸を統一した点も、両者はよく似ている。ちなみに清朝は降伏させた北元(元朝の後身)をはじめモンゴル勢力を軍事力として取り入れていたが、いっぽうで中国共産党はモンゴル帝国の西方の後継者であるロシア(ソ連)の協力を得た。
国共内戦当時、ソ連は国民党と共産党を天秤にかけて日和見的な態度を取ってもいた。だが、すくなくとも「南の中国」の目から見た共産党政権は、万里の長城の「北」から異民族の武力を借りてやってきた、擬似的な征服王朝なのである。
「南の中国」への目配りを持たない習近平
もっとも、中国共産党はその後もおおむね長江以南の出身者が歴代のトップに就き、文化が異なる「南の中国」への目配りを残した。トウ小平が決めた香港の一国二制度や台湾との対立の棚上げ、華南の各都市の経済特区指定といった政策は、その価値観を反映したものだろう。
だが近年、香港の国家安全法施行や台湾に向けた大規模な軍事演習の実施からもわかるように、中国共産党の南方政策は大きく変質している。広東省をはじめとした華南の各省に対する、中央の政治的・文化的なコントロールも大幅に増大した。


香港の新界・西貢の上窰民俗文物館。かつての客家の農民の住宅を博物館にしたもの。筆者撮影© 現代ビジネス
背景として興味深いのは、現在の指導者である習近平が、陝西省に祖籍(祖先のルーツ)を持ち北京で生まれ育った経歴を持つことだろう。彼は中華人民共和国のリーダーにはめずらしく、「北の中国」の体現者なのだ。
中国の中心は北京以外にはなく、普通話があらゆる中国人の標準語であるべきだと考える北方の支配者にとって、華南の各省や香港・台湾のような「変な地域」は、修正と標準化の対象でしかない。習近平は若いころに福建省で長く勤務し、実は福州語や閩南語もすこし解するらしいが、近年の政策を見る限り、残念ながら過去の経験はあまり反映されていないようだ。
習近平政権の10年間で進行したのは、単なる政治の強権化や監視社会化のみならず、文化や社会のありかたにおける中国全土の「北方化」でもある。現代中国でひそかに進む断絶の深まりを正しく理解する上でも、「南の中国」への理解は欠かせないだろう。



中国の「南」の民が「北」の民に抱く“警戒と反骨”…日本人が知らない「もうひとつの中国」を解明する© 現代ビジネス