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シベリアのポーランド孤児救済が脈々と紡ぐ親日感情 一世紀前、彼らはここから祖国を目指した 神戸で交流史展

 100年余り前の1922年、日本によって酷寒のシベリアから助け出されたポーランド人の孤児ら390人が、祖国を目指して神戸港を出港した。節目を期に国境を超えた交流や人道支援の大切さを伝えるため、歴史を振り返る展示「シベリアのポーランド孤児救済がつないだ日本とポーランドの絆」が14日、神戸市中央区脇浜海岸通1、国際健康開発センタービルのひょうご国際プラザ交流ギャラリーで始まった。

神戸港からポーランドに帰国するため乗船する孤児ら(日赤大阪府支部提供)© Copyright(C) 2023 神戸新聞社 All Rights Reserved.
 ポーランド経済史を専門とする関西学院大名誉教授で、展示を企画した日本ポーランド協会関西センターの代表藤井和夫さん(72)は「孤児救済は、今日に至る親日感情の礎になった」と分析。両者の縁は、阪神・淡路大震災の被災児童をポーランドに招くという交流にもつながった。
■独立目指した反乱者が酷寒のシベリアに
 そもそも、なぜ多くのポーランド人が酷寒のシベリアで助けを待たなければならなかったのか。話は15万~20万人がシベリアで暮らしていた1920年ごろにさかのぼる。ポーランドは1795年から123年間、欧州列強に分割され、独立を目指して反乱を起こした人らがシベリアに送られていたという。
 祖国のポーランドは1918年に独立を回復したが、シベリアは17年のロシア革命から続く内戦状態にあった。人々は混乱の中で家を失い、凍土に倒れ、大勢が命を落とした。悲惨な状況を何とかしようと、極東の中心都市ウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、19年に「ポーランド救済委員会」を設立。シベリアに出兵していた各国に救済を依頼し、手を挙げたのが日本だった。
■「子どもたちだけでも」日赤に救済依頼
 「子どもたちだけでも、助けてもらえないか」。当時の日本政府は日赤に救済事業を依頼し、2回の救出活動が計画された。
 1回目は東京に受け入れる計画で、20~21年に375人を助け出した。福井県の敦賀港に上陸した子どもたちは列車で東京に移り、仏教系の「福田会育児院」で伸び伸びと過ごした後、横浜港から祖国に戻った。
 22年8~9月には、新たに390人が大阪市にやってきた。同市が市立病院の宿舎を無償提供。治療や栄養のある食事で元気を取り戻した。子どもたちは8月25日と9月6日の2回に分かれ、神戸港から祖国へ。藤井さんは「神戸港は国際港で当時、欧州への定期便があった」と説明する。子どもたちが当時の神戸商工会議所で休憩したとの記録も残っているという。
 日赤大阪府支部に残る1枚の写真には、船のタラップを上がる子どもたちが写っている。当時の様子を記録する数少ない資料の一つで、「日本を去る際、子どもたちが目に焼き付けた最後の景色は、船から見た六甲山や神戸の街並みだったはず」と藤井さん。「祖国という本来いるべき場所に戻ることができた子どもたちは、子や孫に語り継ぎ、じわじわと親日感情をつないでくれた」と話す。
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 今回の展示では史実に加え、子どもたちの手記やその後の交流について紹介。両国の国交樹立100年に合わせてデザインが募集された記念切手「福田会切手-希望の家」約50枚や、現代のポーランドの若手作家がイメージして描いた孤児の絵など原画約100点も見られる。
 入場無料。28日まで。午前10時半~午後5時。土日祝日休み。17日午後2時から藤井さんらによる講演会もあり、参加には問い合わせが必要。兵庫県国際交流協会TEL078・230・3267
この話はポーランド人から聞きました。外国語を勉強しておいて良かったとおもいましたね。