Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

不公正満載で全体主義の匂いが隠せない北京五輪

 オリンピックという表向き平和の祭典とされるスポーツ大会の期間に、これまでも多くの国際的問題が出来した。
 今回の北京五輪においては、開催国がジェノサイドを進行形で行っているとされながらカムフラージュし、五輪終了間際には北京五輪組織委員会の報道官が「ウイグル問題は嘘」だと政治的発言を行った。
 開会式では、台湾呼称で国営中央テレビが約束を違えるなどの政治工作が見られた。
 また、未検証ながら、各種競技で自国選手を表彰台に立たせるため、外交的ボイコットや政府高官を派遣しなかった国、さらには関係悪化の要因をはらむ国の選手に厳しい判定をしていると囁かれている。
 習近平国家主席は国家主導のドーピング違反による制裁で国家としての参加が認められていないロシアのウラジーミル・プーチン大統領を招待し首脳会談まで行った。
 そのロシアはウクライナを取り囲むように演習と称して10万人ともいわれる兵力を展開し、国際情勢の緊迫をもたらしている。
 こうした状況から、北京五輪やウクライナ問題に関し、対中・対ロ関係で日本政府の姿勢が問われる事態となった。
日本と米欧の思考法の違い
 日本と価値観を同じにする米欧諸国は対中・対ロ非難決議を積極的に行い、かつ制裁にも前向きの対応をしたのに対して、日本は鈍重の感を免れなかった。
 日本が対中・対ロ非難決議に逡巡している間に、外交的ボイコットを最初に早々と打ち出した米国では、下院が北京五輪の始まった日に先端技術分野で競争力強化を図る「対中競争法案」を可決し、将来を見据えた強かさを見せている。
 日中・日露関係は歴史的かつ地政学的に米欧とは自ずと違うという見方もある。
 日本の決断などが往々にして遅れがちになるのは、底流にある日本の歴史と伝統に基づく思考様式(他国と異なる)や感性が関係しているに違いない。
「以心伝心」というのは、相手の心を読み取って行動することで、「言葉」は仲介しない。
「阿吽の呼吸」も同様で、相撲の立ち合いがそうである。
 KYで代表されるように、日本においては「空気」(その場の雰囲気)を読むか読まないかで評価されたりもする。
 また、「喧嘩両成敗」という言葉もある。
 両成敗が端的に示すように、日本ではどちらもともに成敗して、片方だけを負けにせず、双方がウィン・ウィンになったように見せる手法が好まれる。
 これが往々にして「灰色決着」をもたらしている。
 近年は「忖度」という用語も頻出するが、遠の昔から日本の思考法は相手との関係や距離を測りながら、相手を慮る「忖度」をしてきた。
 以心伝心や阿吽の呼吸は途中の論議を省略し、角が立たないように相手の言い分を聞き入れてしなやかに対応するもので、芳賀綏(はがやすし)氏はこれを凹型思考と名付けた(『日本人らしさの発見』)。
 対して米欧などはイエスかノーの二者択一的なことが多く、それだけに遠慮はなく、侃々諤々の議論となる。
 相手をやっつけてかわいそうなどといった感情は微塵もなく、日本的な「空気を読む」遠慮も忖度もない。勝敗を明確につけたがるもので凹型と対照的な凸型思考である。
 北京五輪への参加問題やウクライナ問題への日本と米欧の対処の違いは、こうした思考法の違いを明確に浮かび上がらせたとも言えよう。
 また感性については、「虫の音」を日本人は音楽として聴くが、外国人は雑音としてしか聞かないという。日本人は「浴衣」や「風鈴」で涼しさを感じる感性さえ持つ。
 脳の研究者である角田忠信氏は日本人と他の民族の感性の違いを、英語などは子音主体であるのに対して日本人だけに特有な母音主体にあることを見出し、「特に(母音主体の)日本語の学習によって形成されたもの」としている(『日本人の脳』)。
忖度の対中・対ロ非難決議
 米国がウイグル自治区におけるジェノサイドを理由に「外交的ボイコット」を発表したのは昨年(2021)12月6日であった。この直後から日本においても外交的ボイコットを政府に求める声が上がってきた。
 日本政府がジェノサイドだけでなく香港の民主化運動の抑圧や台湾への威嚇・尖閣諸島への領海侵犯などを加味して、外交的ボイコットを明言しないが開会式に政府高官を派遣しないことを発表したのは12月24日であった。
 日本では与野党議員から対中非難決議を国会で行うべきだという声が東京五輪・パラリンピックが終わった直後から上がっていたが、なかなか決着がつかなかった。
 与党の公明党や自民党にも多い親中派議員などによる反対があったからである。
 政府が長期的な外交などを考慮するあまり決断はおろか明確な姿勢を示せない場合は、日本国民を代表する国会が国民の意を受けた決議をして政府の決断を促すべきであろう。
 しかし、国会が非難決議を出したのは五輪が始まる直前の2月1日で、政府の決断を促すどころか、切羽詰まって〝漸く″というのが本音だ。
 対ロ非難決議もロシアのウクライナ侵攻危機が高まり、米国などが自国民避難などを推奨し始めた2月8日であった。
 しかし、対中決議、対ロ決議といいながら非難の相手を名指ししない腰抜けで、事象の列挙で相手を想起させる内容となっている。
 これこそが、先に述べた以心伝心的な日本的思考であろう。
 国際社会の概念で、こうした相手国を指定しない内容のものを「〝対〇国″非難決議」というだろうか。
 対中、対ロ非難決議というならば、避難されるべき相手を名指ししなければ、非難された相手は歯牙にもかけないであろう。
 日本の裁きでは「喧嘩両成敗」や「足して2で割る」が重用される。
 国際社会でいうウィン・ウィンと類似しているようであるが、全く異なる。日本の場合は非を是とするようなもので、焦点をずらし肝心な点がボケてしまう。
 他方でウィン・ウィンは是は是、非は非とするもので、断じて非を是とするものではない。その非を認めながら、他方の非と取引するものである。
日本の曖昧戦術の限界
 日本の対中非難決議に対し、「中国」を名指ししていないにもかかわらず中国は反応した。
 中国は日本の決議を気にしていることが分かるが、他方で対ロ非難決議自体に対しロシアが反応したという報道はない。
 ロシアは無視した形である。ロシアを明記していないから当然と言えば当然である。
 対ロ非難決議といいながら、「いかなる国であろうとも、力による現状変更は断じて容認できない」、情勢が不安定化している理由は「国外勢力の動向」であるとして改善を求めているだけである。
 日本ではロシアによるウクライナへの侵攻を想定した決議であるが、当のロシアから見ればロシアが名指しされたわけでもないので、ロシアが敢えて反論しないのは、米国やEU加盟国への決議に読み替えても通じるためであろうし、ロシアにとっては決議自体が意味をなさない紙くずと化しているのだ。
 ロシアのクリミア半島不法占拠やウクライナ東部への軍隊派遣は、北方領土に対するロシアの不法占拠に通じるもので、名指しで非難してこそ意義があるというものだ。
おわりに:
北京冬季五輪は「(全体主義への)誘蛾灯」

 中国は、北京五輪の成功をあの手この手で打ち出そうとしている。第一は選手たちの金メダル獲得であることは言うまでもないが、開会式や選手たちへのインタビューなどにもジェノサイド批判をかわす狙いで民族融和の演出が見て取れる。
 また多くの競技でクレームが付き、中国選手が表彰台に上がるように仕向けられたのではないかという疑惑さえ報道されている。
 スポーツの祭典であり、審判が公平・公正であるべきことは言うまでもないが、世界が注視する中でも全体主義の威力を見せつけている感がしてならない。
 ジャーナリストの福島香織氏はJBPress(2022.2.10、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68809)「北京五輪にどうしても感じてしまうグロテスクさの正体」で、東京五輪は〝しょぼかった″かもしれないが、「北京冬季五輪のようなグロテスクさを感じることはなかっただろう」と述べている。
 その〝グロテスクさ″とは何か。「専制統治が世界の平和と安定を導くのだというロジックを臆面もなく打ち出していること」であるという。
 そして、警告する。「より不気味なのは、世界が分断や争いに苦しみ、コロナ対策などで個人の利益と公共の利益がぶつかりあう状況に直面すると、ふと、専制統治の方が世界は安定するのかも、と思ってしまいかねない危うさを私たち自身が抱えていることだ」と。
 これほど重い警告はない。

 同時に「私たちは言論や思想や信仰の自由と引き換えに発展や平和を求めていいのか。家畜の安寧の未来に一緒に向かいたいと本気で思っているのか」と問う。
 福島氏の警告と問いを噛みしめながら、北京五輪を一言で総括すれば、全体主義国家・中国への「誘蛾灯」と言えるのではないだろうか。