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安倍総理の志は死なない!!

どうなる令和の首里城復元「龍柱」 の向きめぐる大論争

© AERA dot. 提供 2019年の火災で燃え残った大龍柱(相対向き)
 2019年10月に火災で焼失した首里城の再建を巡り論争が巻き起こっている。焦点は、正殿の正面石階段の両側に建てられていた一対の「大龍柱」。鎌首をもたげた龍が「正面向き」か、向かい合う形の「相対向き」かが、国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」で物議を醸している。
 1992年に正殿などを復元した「平成復元」では、龍は相対向きで再建された。根拠の一つが、琉球国時代の修復記録「寸法記」(1768年)と呼ばれる絵図。龍は確かに相対向きだが、「寸法などを示すためのもので、写実的に描かれたものではない」として、当時も正面向きが本来の姿だとの指摘があった。
 だが、決定的ともいえる“証拠”が見つかる。琉球国王が日本政府に首里城を明け渡す2年前の1877年に撮影された正殿の写真で、龍が正面を向いているのが確認できるのだ。
 発見したのは元沖縄タイムス記者で現在、神奈川大学教授の後田多(しいただ)敦氏だ。後田多氏によれば、写真は琉球を訪れ、尚泰王を表敬訪問したフランス人一行のルヴェルトガ海軍中尉が撮影した。
「私が確認したのは、ルヴェルトガが乗船してきた巡洋艦の艦長の子孫が2010年に発表した論文で紹介された写真です。琉球国はフランスと修好条約を結んでいました。琉球国の最後は1879年の琉球処分ですが、日本は72年に尚泰王を琉球藩王とし、75年に清国との関係断絶命令、76年に警察・司法権の移管命令を出して王権に介入していた。国の危機の過程で、琉球はフランス領事館や清国に使節を送って助けを求めていた」
 明治・大正時代の写真もすべて正面向き。大正末期には首里城に沖縄神社が創設され、1925年には古社寺保存法に基づき特別保護建造物(国宝)に指定された。そして、28年からの修復で正殿を拝殿として改修した。この時、龍は初めて相対向きに改変されたのだ。
 一方、前述の技術検討委員会では、1877年の写真の大龍柱が正面向きなのは、本来相対向きだったものが何らかの理由で動かされたためと解釈。昨年12月には大龍柱が相対向きで復元されることが暫定的に決定されたが、反対論も根強く、論争は続いている。後田多氏はこう答える。
「国民は琉球文化のシンボルとしての首里城再建を願っているはず。集まった約55億円もの寄付金にそれが表れていると思います。首里城正殿は太陽が昇る東を背にする構図で、王様は西を向く。龍は王権の象徴ですから、やはり西を向いて御庭(うなー)を睥睨(へいげい)しているのです。平成復元は資料も少なく誤ったのは仕方がありません。しかし、今度の再建で相対向きにすれば改竄(かいざん)です。国は歴史的事実に謙虚であってほしいと思います」
(本誌・亀井洋志)