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94歳の元少年兵、75年ぶり「愛機」双練と再会…操縦席に触れ「また会えるとは」

読売新聞 現役当時の一式双発高等練習機(立飛ホールディングス提供)
 第2次世界大戦中、旧陸軍の少年飛行兵らの訓練機として飛行していた「一式双発高等練習機(双練)」の機体が27日から30日まで、東京都立川市高松町の立飛ホールディングス(本社・立川市)の敷地内で一般公開される。公開に先立ち、戦中、戦後を通じ同型機を操縦し続けた元少年飛行兵、菊池乙夫(つぎお)さん(94)(東京都武蔵村山市)が今月5日、同社を訪れ、75年ぶりの「再会」を果たした。(小沢勝)
 双練は同社の前身、立川飛行機が製作。元少年飛行兵の歴史を伝える市民団体「陸軍少飛平和祈念の会」(立川市)の鳥海賢三副会長が、機体が公開される話を聞き、菊池さんに双練との対面を打診、立飛ホールディングスが招待した。
 前日の夜は興奮して眠れなかった、という菊池さん。「久しぶりだなあ。また会えるとは思っていなかった」と操縦席のレバーや操縦輪に触れた。すべての機器操作を覚えていた菊池さんの説明に同社社員らも聞き入った。橋本浩広報部長は「実際に操縦していた方にお会いできるとは光栄」と再会を祝福した。
 菊池さんは岩手県出身。少年飛行兵になった友人が、双練で故郷の上空を旋回した「郷土訪問飛行」の雄姿にあこがれ、空への道を決意した。「大空に弧を描く機体が美しく、どうしても自分で操縦したい」と誓った。
 1943年、15歳で陸軍少年飛行兵学校(東京都)に志願して合格、国内の飛行訓練を経て配属されたのはジャワ(インドネシア)だった。基地に双練は30機あり、通信、兵員・物資輸送の訓練のため菊池さんらは機体を操り続けた。
 本来、武装はしていない練習機。しかし、戦況が悪化すると、その機体にも250キロ爆弾を二つ積載して特攻作戦に加わることに。菊池さんも出撃の覚悟を決めたところで、終戦を迎えた。
 その後も連合国側の命令で、1年半にわたり双練を使って連合国側の将兵や家族の保護、回収、物資の輸送にあたった。その頃の機体は白く塗りつぶされ、日の丸に代わって連合国の協力隊を示す緑十字が描かれていたという。
 菊池さんは「戦争は誰だってしたくない。戦争しないように他の国とちゃんと話ができる立場になっていなければいけない」と話し、「また一緒に飛べるような気がするよ」と、いつまでも機体から離れなかった。
◇  今回公開される双練は、戦中に青森・秋田県境の十和田湖に墜落、水没した機体だ。2012年に湖底から引き揚げられ、青森県立三沢航空科学館で展示されてきた。16年に「日本航空協会」(東京都)から「重要航空遺産」の認定を受け、20年に立飛ホールディングスに帰ってきた。
 一般公開は、これが最後の予定だという。日程は10月27~30日の午前10時~午後4時。立川市高松町の同社南地区5号棟で行われる。入場無料。
 ◆一式双発高等練習機=立川飛行機が1940年に製作を始め、終戦までに1342機が生産された。全長約12メートル、翼幅約18メートルのジュラルミン製で、10人ほどの搭乗が可能。操縦のほか、機内での通信、航法、写真撮影などの訓練、物資、兵員輸送に活用された。
 ◆陸軍少年飛行兵学校=昭和初期、若い志願者の中から、戦闘機などの操縦や通信、整備を行う飛行兵を養成することを目的に設立された。現在の武蔵村山市、大分市、滋賀県大津市に学校があった。「少飛」と略称される。14、15歳の少年が入学し、終戦までに約4万4000人が卒業した。卒業生のうち約4500人が戦死し、その1割は特別攻撃隊によるものとされる。