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世界唯一の保存機「九七式戦闘機」があえて無塗装なワケ 甦る“東洋一の飛行場”の記憶

博多の海から引き上げられた激レア機
 福岡県にある筑前町立「大刀洗平和記念館」で、2022年7月よりユニークな先尾翼機(エンテ型)である「震電」の原寸模型の展示が始まりました。しかし同館には、それ以外にも見るべきものがあります。それは、世界でもここにしかない零式艦上戦闘機三二型と九七式戦闘機(以下九七戦)の実機展示です。
 前者はまだ三二型以外のタイプであれば、他所でも見ることが可能ですが、後者は全タイプ含めて現存・展示されているのは、ここ大刀洗平和記念館にある乙型1機のみです。そういった点で、九七式戦は極めてレアな機体だと断言することができます。

博多湾から引き揚げられて、福岡県の筑前町立大刀洗平和記念館に展示される実物の九七式戦闘機乙型(キ27乙)。敢えて塗装はされずに発見当時の雰囲気を漂わせている(吉川和篤撮影)。© 乗りものニュース 提供
 この九七戦、もともとは1996(平成8)年9月に博多湾の埋め立て工事現場で発見され、深度3mの海中より引き揚げられたものです。しかし発見当時は長年の海没による損傷がひどく、大幅な修復が必要な状態でした。そこで初代館長であった渕上宗重(ふちがみ むねしげ)氏が中心となり、当時の設計図を元にした復元作業が始まります。
 翌1997(平成9)年に復元が終了すると、かつて同機を配備した旧日本陸軍 飛行第四戦隊が大刀洗飛行場をホームベースとしていた関係から、同年8月より同地の駅舎を改造した平和記念館(初代)で展示がスタート。その後、現在の筑前町立の施設が開設されると、こちらに移され今に至っています。
 なお、本機の特徴としては日本の国籍標識である日の丸含め、一切の塗装が施されず、銀色のジュラルミン地のままで展示されている点でしょう。これは、博多湾で回収された際の生々しい状況を後世に伝えたいという思いから、あえて採られているものです。
旧陸軍機の主力も担った九七戦
 九七式戦闘機(型式名キ27)は、中島飛行機(現在のSUBARU)が開発した旧日本陸軍向けのひとり乗り戦闘機で、1936(昭和11)年10月に初飛行しました。2枚プロペラや固定脚ではあるものの、旧陸軍初の主翼が1枚構造である低翼単葉や、視界の良い水滴型風防(乙型以降)を備えた近代的な設計の機体で、「九七戦」または「九七式戦」の略称で呼ばれました。

戦前には陸軍戦闘機の主力であった九七式戦闘機乙型。前線飛行場では草や泥が詰まりやすいため、この写真のように固定脚のスパッツ(カバー)はしばしば外されていた(吉川和篤撮所蔵)。© 乗りものニュース 提供
 最高速度も、第2次世界大戦前に生まれた戦闘機としては快速の470km/hで、運動性能も良く、世界的に見ても遜色ない性能を持つ国産機だったといえるでしょう。しかし航続距離は620km程度であったため、それを少しでも延ばすべく、陸軍戦闘機として初めて主翼左右下にコブの様に膨らんだ形状の使い捨て落下タンクを装備しています。なお、武装も機首の7.7mm機関銃2挺だけだったため、打撃力が不足しているとして後々問題になりました。
 それでも日中戦争やノモンハン事件、太平洋戦争の初期では陸軍航空隊の主力戦闘機として戦果を挙げており、満州国(現在の中国東北部)やタイ王国にも輸出されています。このように重用された結果、生産数は3386機と多く、これは歴代の日本戦闘機でも「零戦」「隼」「疾風」に次ぐ第4位の数になります。
 こうして陸軍航空隊で多用された九七戦ですが、太平洋戦争中盤以降は旧式化したため、第一線部隊では「隼」や「鐘馗」「疾風」などの新型機に更新され、後方での運用に移行していきました。
 しかし戦争後期になると航空機不足から再び第一線に引っ張り出され、一部の機体は特別攻撃隊に駆り出されるようになります。ところが250kg爆弾を搭載するには馬力不足で、飛行中は常にエンジン出力を最大に保つ必要があったため、出撃してもエンジン内部の焼き付けを起こして故障や帰投する機体が多かったといわれています。
東洋一の飛行場であった大刀洗
 いまでこそ静かな田舎町といった趣のある大刀洗ですが、ここにはかつて東洋一と呼ばれた飛行場がありました。開設されたのは1919(大正8)年、42万5000坪(その後115万2000坪まで拡張)の土地に、長さ500m、幅200mの滑走路2本を擁する国内最大の陸軍航空隊の拠点として運用され、前出したように九七式戦闘機も配備されていました。
 その広さと重要性から、その後、大刀洗陸軍飛行学校や航空機製作所も設置されますが、ゆえにアメリカ軍の爆撃目標にもなり、1945(昭和20)年3月の空襲では児童を含めた民間人にも犠牲者が出るほど甚大な被害を被っています。

大刀洗平和記念館の九七式戦闘機。2挺の7.7mm機関銃はエンジンカウル中央の隙間から発射された。主翼下面の左右には落下タンクが、中央には特攻機仕様の爆弾が見える(吉川和篤撮影)。© 乗りものニュース 提供
 そういった地だからこそ、九七戦が展示されたといえるでしょう。この博多湾から引き揚げられた九七戦を操縦していたのは、機内で発見された箸箱などから鳥取県出身の渡辺利廣(わたなべ としひろ)少尉であると判明しています。同機は戦争末期の1945(昭和20)年に旧満州から熊本県の菊池基地(菊池市)へ向かう途中で、エンジン故障が発生して博多湾に不時着水しました。渡辺少尉は漁船に救出されましたが、4月の沖縄への特攻出撃で別の九七戦と共に還らぬ人となっています。
 実は、この機体の本来の操縦者は佐藤享(さとう とおる)少年飛行兵でしたが、渡辺少尉の機体が修理中であったため、佐藤機を代わりに使用して日本まで飛んできたのです。なお、佐藤飛行兵も特攻に出撃していますが、不時着して九死に一生を得ています。生き残って終戦を迎えた佐藤氏は、かつての愛機との邂逅を喜んだとのことで、亡くなるまでの10年ほどの間に何度も大刀洗平和記念館に通ったそうです。
 大刀洗基地は終戦後、民間に払い下げられて農地や工業用地に転用されたことで、いまでは飛行場の面影はほとんど見られなくなっています。しかし、平和記念館の周囲には基地の門柱跡や慰霊碑、掩体壕などがいまでも点在しています。
 こうした数々のエピソードを有する貴重な九七式戦闘機や戦争遺構を見学することで、当時の大刀洗が置かれた状況や、太平洋戦争そのものに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。