Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

ネコウヨ戦記 安倍総理と駆けた10年 024

私はネコである。名前はもうない。


命以上の価値~子供達の未来


From 上島嘉郎@ジャーナリスト(『正論』元編集長)


戦後70年目の夏も過ぎようとしています。
この季節、テレビでは毎年のように「終戦記念」と銘打って、大東亜戦争の時代に材をとったドキュメンタリーや大型ドラマが放送されます。
今年も、TBS『レッドクロス~女たちの赤紙~』、テレビ朝日『妻と飛んだ特攻兵』等がありました。


個々のドラマの詳細には触れませんが、全体として感じたのは「戦争=悪」「戦争=愚行」という単純化された枠の中で、戦争と人間の姿を描く薄っぺらさでした。


今日的な価値観、人権観、生命観をもって“あの時代の日本人”を描くこと、あの時代を生きた同胞の価値観を理解し苦悩に寄り添おうとするのではなく、逆に今日的な価値観に一方的に引きつけて描くことに何の抵抗感も、恐れもないのだとしたら、私はそこに後世の平和な時代の高みに立った者の驕りを感じざるを得ません。


たとえば、明治生まれの歴史作家山岡荘八の次のような記述を、平成に生きる日本人はどのように感じるでしょうか。


昭和20年4月6日、戦艦大和以下の第一遊撃部隊が沖縄特攻に出撃します。


〈大和の前檣(ぜんしょう)に旗旒(きりゅう)信号があがった。
「各隊、予定順序に出港。針路百二十度」


ふしぎな国にうまれた、ふしぎな戦士たちの死への行進は開始された。世界の常識からすれば途方もない暴挙である。彼らには「生きる」ということは、つねに横の系列の中での自分しかあり得ない。


ところが、東洋に、世界一の戦艦を造りあげたこの日本国では、生命は横の系列ではなくて、永遠に続く縦の流れなのだ。自分の死によって滅することはない。死は往生、すなわち子孫のために生きることなのだとする、きびしい哲学を持っている。


したがって、死におもむくからと云って、残り少ないわずかの生に恋々と拘泥していることは許されない生死一如、どのように勝率のない戦でも、最後の一瞬まで全力を尽くしてゆく。〉(『小説太平洋戦争』)


大和が辿り着けなかった沖縄では、第32軍による血みどろの守備戦が展開されていました。


〈温厚をもって聞こえた牛島軍司令官が、
「──わが将兵には進死あるのみ! 断じて退生あるべからず!」
と云い切っている。これは沖縄全体のおかれた運命を考えれば、どこまでもきびしく正確な真実であった。(略)


「──どんなことをしても生き残って……」
などという自分中心の生き方の肯定は、ずっと後の占領政策の影響によるもので、当時の軍隊内の常識ではなかった。


日本人の生存本能は、自分を生命永遠の流れの中におくからだ。
この日本的な生命観が、実はアメリカにとっては最もおそろしい敵であった。〉(同)


「日本的な生命観」の発現は、何も軍人に限ったことではでありませんでした。


たとえば「成東駅員殉難」の話。


昭和20年8月13日、千葉県九十九里の成東町で起きた軍の火薬貨車の爆発──。
早朝から米軍機の機銃掃射を受け発火した貨車を、被害を最小限に食い止めるべく、身を挺して移動しようとした人々がいました。駅員15人、将兵27人で、彼らは避難しようと思えば避難できたものを、町民や旅客のために必死で消火活動を続け、貨車を動かしたのです。


被弾後18分、山かげまで来たとき、火薬満載の貨車は大爆発し、42人全員が散りました。このとき長谷川治三郎駅長は、貨車ホームで陣頭指揮していた位置で、胴体だけが転がっていたといいます。戸田義保助役は、駅長事務室の前で頭の骨を折ってうつ伏せに倒れ、出札係の橋本とし子、駅手の田谷歌子ら女子職員は駅前広場まで吹き飛ばされていたそうです。


この出来事を刻んだ石碑が、今もJR成東駅頭に「礎」として建っているはずです。平和の立ち返るわずか2日前に命を投げ出した人々の享年は、私を愕然とさせます。


転轍係・関谷昇18歳、同伊藤昭37歳、連結手・市東隆夫16歳、駅手・原俊夫14歳、同京相静枝18歳、同田谷歌子15歳、出札係・橋本とし子18歳……。


敗戦間近、男子駅員はそのほとんどが戦場へ行き、駅務は女子供が担っていました。いたいけな少年少女に一触即発の貨車の移動を命じたとは、それこそ恐ろしい、狂った時代の軍国主義の発露で残酷極まりない、と今日の反戦運動家や平和教育者は非難するのでしょう。


だが、果たしてそうか──。
生き残った一人は当時を回想して、「強制や命令なんかじゃない。みんな、子供心に、それが仕事だ、役目だと直感したからなのでした」と語っています。


もちろん、この言葉がすべてではない。「誰しも命が惜しい」と思うのは当然です。しかし、その当然のささやきに抗えるのが、人間のもう一面の真実ではないでしょうか。


「人は何かのために、誰かのために、命を投げ出すことができる」


成東町の悲劇は、戦争の悲惨さとともに、人間の崇高さも伝えている。醜悪さや狡さ、残酷さを持つ人間の、しかし、決してそれだけではない人間存在の真実です。


戦後の日本はこうした“日本人の命懸けの物語”を危険視し、封じ込めたり削り取ったりし続けてきたと思います。


何でもタカをくくって、恋愛も友情も、しょせんは打算の関係にすぎず、他人のために尽くす人間がいれば、そこには密かな計算があるはずだと疑う。


美談があれば必ず裏に何かあり、お金や利権のために動いたと言えば本当らしいと説得力を持つ。そうやって人間の足を引っ張って、それこそが偽善を排した進歩的な、個人の自由意思を尊重した人間観なのだと、冷めた目で見続けてきたのではないか。


人間はそんなものじゃない。たとえ綺麗事と言われようとも、それを押し通す力がある。押し通せば、それは綺麗事ではなく真実となる。
一人の英雄によって記憶される物語ではなく、“普通”の日本人がどう生きたのかに想いを馳せる。


70年前の特攻隊の若者たちも、成東の少年少女たちも、所詮は「犬死」だったのか。人として生き残ること、ただ生存することを超える価値は存在しないのか。


そして、こうした民族の生命観、それを抱いて生き抜いた人々の記憶は、果たして恥ずべき、忌むべきものなのか──。