Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

大東亜戦争秘録

全世界のRPE読者の皆さま、こんにちは!


北野です。




まず、お知らせから。


言論の自由が比較的ある日本でも、


「隠されて知らされていない情報」がたくさんあります。


世界情勢に関しても、その他の分野に関しても。


「隠されている情報」は、テレビ、新聞にはもちろん、


YouTubeにも出てきません。


バンされてしまうからです。


では、どこから「隠されている情報」にアクセスできるの
でしょうか?


こちらから、「隠されている情報」を入手してください。

https://in.renaissance-sk.jp/rere_2308_kitano_af




では、本題。


今年も「終戦の日」が近づいてきました。


以前もお話ししましたが。


私の父方の祖父は、満州で戦死しました。


父方の祖母は30歳で未亡人になり、一人で4人の子供(男
の子3人女の子1人)を育てました。


私の父は長男です。


9歳で父親が戦死したので、子供のころから仕事をしてお
金を稼ぎました。



母方の祖父は、仕事でフィリピン・ミンダナオ島に住んで
いました。


米軍に攻撃され、母方の祖父、祖母、私の母、弟、妹は、
山に逃げました。


逃走中に、幼かった弟、妹は亡くなりました。



私の家族に起こった悲劇は、戦中どこにでもあったことで
す。


私たちは普段、先の大戦のことをすっかり忘れて生きてい
ますが、


時々は考えてみることも必要かもしれません。




▼満渕正明さんとエムリー少尉の悲劇




満渕正明さんは、兵庫県神戸市出身です。


静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社、


三重県桑名市の多度大社で働いていました。


戦争がはじまると中国北部を転戦。


その後アリューシャン列島アッツ島、北千島占守島に配属
されました。


そして昭和20年(1945年)5月、千葉県長生郡日吉村に派
遣されます。


この時、満渕さんは31歳でした。



ある日、村に米軍のB29爆撃機が墜落しました。


B29、11名の搭乗員のうち、4人が即死、2人が重傷。


他5人は、捕まりました。


2人の重傷者は、長栄寺というお寺に移され治療を受けま
す。


1人は頭部に致命傷を受けていて、まもなく死亡。


もう1人、ダーウィン・T・エムリー少尉も、危篤の状態
が続いていました。


エムリー少尉は、腹部と両大髄部に深手を追っていた。


中隊長だった満渕さんは、もはや助かる見込みのないエム
リー少尉を「介錯する」決定を下します。


「介錯」とは、何でしょうか?


切腹の時、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為の
ことです。


満渕さんは、境野曹長に、


「苦しんているのは可哀相だから楽にしてやれ」


と言ったのです。


その後、エムリー少尉の遺骸を使って、銃撃突撃の訓練が
行われた。


その後、遺体は寺の裏山に埋葬されました。


川島住職が読経をあげ、将兵全員が合唱したそうです。



この話、特に「介錯」し、その遺骸を使って銃剣突撃訓練
をするなど、


現代の私たちには、信じられない残虐行為に思えます。



満渕正明さんは1945年7月、九十九里浜に転進になり、
ここで終戦を迎えました。



終戦後、満渕さんは、家族の疎開先、兵庫県飾磨郡へ行き、
奥さんの節子さん、息子の昭彦さんと再会しました。


1945年10月、親子3人は三重県に移り、満渕さんは
多度神社の神職に戻ります。


彼は、長い戦いの後で、ようやく幸福な暮らしに戻れたと
思ったのです。


しかし、妻子と過ごす平凡で幸せな日々は、長く続きませ
んでした。



米軍は、日本に墜落したB29乗員の行方を徹底的に調査
していました。


そして1945年11月、長栄寺の裏に埋葬された6人の
遺体を掘り起こしたのです。


その時、一体の首と胴体が切断されていることに驚愕しま
した。


さらにその遺体には、銃剣突撃訓練で突き刺された傷が残
っていました。



翌1946年、満渕さんは戦犯として巣鴨拘置所に拘束さ
れました。


親子3人の幸福な生活は、4か月で終わったのです。



検察側は、満渕さんの行為を「残忍非道の凶行」「俘虜に
関する国際法に違反した戦争犯罪」と厳しく非難しました。


一方、弁護側は、



「介錯は人殺しとは異なる」


「介錯は武士道精神の発露」


「日本の文化に則った『武士の情け』である」



と主張しました。


満渕さん自身は、



「介錯により助かる見込みのない生命を早く絶つことが武
士の情けとして名誉な死に方と認められている。


もし残虐な殺し方があれば、首を斬り落とすより他の方法
で苦しめて殺すこともできた」



と語りました。


さらに弁護側は、



「介錯は処刑や虐殺、復讐劇の類ではない」


「相手が助かる見込みのない重傷者であったこと」


「他の5名の生存者には全く危害を与えていないこと」


「屍体を丁重に埋葬していること」



などを主張しました。



結局、満渕さんには死刑判決が下りました。


1946年6月3日、奥さんの節子さんと幼い昭彦さんが
面会に訪れました。


1946年9月5日、満渕さんは家族に遺書を書きます。


その中に、息子の昭彦さんへの文があります。


(@原文は、漢字とカタカナで書かれていますが、読みや
すいよう、ひらがなに直します。)



〈昭彦よ、


こんなことで早く父を失った悲運を徒になげいていてはい
けない。


又単純に勝におごる敵をうらむようなせまい考へもいけな
い。


日本には今新しい光がさしているのだ。


たとへ武力は有してなくても世界の最高文化国として、


アメリカ等も見返すような国になることによって


はじめて父の恨ははらせるのであることを


どうか覚えていておくれ〉




1946年9月6日、死刑が執行されました。


教誨師(きょうかいし)花山信勝さんが読経。


満渕さんは「大祓詞」をあげました。


さらに、「海行かば」を歌い、


吉田松陰の辞世の句を読みあげます。




身はたとひ


武蔵の野辺に


朽ちぬとも


留め置かまし


大和魂 



PS


先の大戦。


敗戦国の私たちにとっては、


「忘れ去りたい記憶」なのかもしれません。


しかし、日本のために命を懸けて戦ってくださった


ご先祖さまのことを、


もっと多角的に知っておいた方がいいでしょう。


今回の話もそうですが、アメリカ側から見たできご
とと、


日本側から見たできごとの解釈は、まるで正反対で
す。


私たちは、「日本は悪い国、日本人は悪い民族」で
終わらせず、両方の主張を知っておく必要があるで
しょう。


どうやって?


こちらの本がお勧めです。


今まで聞いたことがないような話ばかりだと思い
ます。




◆『大東亜戦争秘録』 早坂隆


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