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北の大地の“最果てのターミナル”「稚内」には何がある?


 日本最北端のまちは、蘂取村という。北方領土のひとつ、択捉島にあるまちだ。正確には、北海道蘂取郡蘂取村、そのカモイワッカ岬が日本最北端だ。もちろん北方領土は正真正銘の日本の領土なのだから、蘂取村は紛れもない最北端のまちである。
 などいっても、現実に目を向ければ択捉島には日本の施政権は及んでいない。蘂取村とされる場所も、現実にはロシアが支配している。なので、日本人なら誰もが気軽に行くことができるようなまちではない。そして、すべての人が気軽に訪れることのできる最北端というと、やはりご存知、稚内ということになる。
“最果てのターミナル”「稚内」には何がある?
 北方領土を除けば、稚内市内にあるものはすべて日本最北端。宗谷岬という最果てはもちろんのこと、コンビニも郵便局も、稚内市内でいちばん北にあるそれは、日本最北端のコンビニ、郵便局だ。そして、駅もそうである。宗谷本線の稚内駅は、日本最北の駅であり、最果てのターミナルである。



北の大地の“最果てのターミナル”「稚内」には何がある?© 文春オンライン
 そういうわけで稚内駅を訪れたのだが、これがまたとてつもなく遠い。1日1往復だけ、札幌からの特急「宗谷」が走っている。朝7時30分に札幌駅を出発するこの特急が稚内駅に到着するのは12時42分。つまり、実に5時間以上もかかるというわけだ。スピードが違うので比較するのもおかしいが、新幹線ならば東京と新大阪を往復してもあまりある。
 そもそも、宗谷本線という路線そのものが、大動脈でありながらもなかなかに乗るのが難しい。列車の数が著しく少ないのだ。
 同じ“本線”といっても、東海道本線や山陽本線などのように捉えては、まったく本質を見誤る。途中には士別や名寄といった町もあるにはあるが、ほとんどは人里離れた天塩川沿いの渓谷か、サロベツの原野をひた走る、そういう路線である。
 ちなみに、札幌と稚内は高速バスでも結ばれているが、そちらの所要時間は6時間弱。いずれにしても、稚内は日本最北端という最果てだけあって、文字通り果てしなく遠いのである。
 まあ、身も蓋もないことをいえば、稚内には稚内空港という日本最北端の空港があって、羽田空港からも2時間ほどで行くことができる。そう考えると、とたんに東京から大阪よりも近くなるのだから、文明の利器というのはとにかく偉大なのである。
 ともあれ、そんな最果てのターミナル・稚内には何があるのだろうか。
シンプル極まる構造のホームに降りると…
 稚内駅のホームは、1面1線。ターミナルというのはさすがに言い過ぎだと思うくらいに、シンプル極まる構造をしている。稚内駅に到着する列車は特急を含めて6本、出発する列車は7本だけだ。
 それが駅に着いてしばらくして折り返すだけだから、この程度の規模でも充分なのだろう。ホームの上には、日本最北端の駅であることを示す標が立ち、JR最南端の駅である西大山駅や、最南端の終着駅である枕崎駅との友好も刻まれている。
 さらに、小さな改札口を抜けて駅舎を出た先にもレールの車止めが置かれていて、最北端のターミナルとしての旅情を誘う。その車止めの周りで写真を撮っている観光客もちらほら。やっぱり、稚内まで来たら抑えておくべきポイントのひとつなのである。
 などと書き連ねると、最北端のターミナルは小さくても旅情たっぷりの駅というイメージを抱くかも知れない。筆者とて、そんな光景を期待して稚内駅を訪れた。が、実際にはまったくそんなことはない。駅舎は「キタカラ」という複合施設との合築になっている。施設の中には、飲食店や土産物店、コンビニなどが入る。
 このあたりまではまだ普通だが、加えてグループホームや映画館「T・ジョイ稚内」までが揃っている。規模は小さいがいわゆるシネコンで、もちろん日本最北端の映画館だ。この稚内駅は、鉄道の駅であると同時に道の駅でもあり、さらに近くのフェリー乗り場のターミナルも兼ねるみなとオアシスとしての役割も持つ。つまり、稚内という町の文字通りの中核的な施設になっているというわけだ。
駅のすぐ東側には大きな港が。このフェリーは…
 稚内駅のすぐ東側には、大きな港がある。その中心にあるのはフェリー乗り場だ。利尻や礼文といった離島との連絡フェリーが発着する乗り場で、コロナ禍前まではサハリン南部のコルサコフまでの定期航路も発着していた。陸の玄関口が稚内駅だとすれば、海の玄関口がこのフェリー乗り場ということになる。
 そのフェリー乗り場を中心にした広い港には、たくさんの漁船が停泊している。漁船は大小さまざまで、遠くには水産加工の工場も見える。稚内は水産業が中核産業のひとつだ。北洋漁業を中心として、ホタテ貝やホッケなどがよく獲れるという。フェリー乗り場を含め、港町であるということが最北端・稚内のアイデンティティのひとつになっているのだろう。
冬のこのあたりは本当に寒い…!
 そんな港の北の端には、大きなホテルが聳え立ち、周囲は公園として整備されているようだ。海が見える公園を歩くと、かの昭和の大横綱・大鵬幸喜の上陸の地記念碑があった。
 巨人・大鵬・玉子焼きの大横綱は、当時、本領だった樺太(サハリン)の出身で、終戦時に小笠原丸に乗って稚内に引き揚げてきた。この小笠原丸は、稚内に立ち寄ったあとで小樽を目指す途上、ソ連の潜水艦の攻撃を受けて留萌沖で沈没した。大鵬一家は家族の船酔いがひどく、予定を変更して稚内で下船していたために難を逃れたのだという。
 そんな歴史の1ページをのぞき見し、さらに港の北の端を歩く。大鵬幸喜上陸の地の碑のすぐ北側には、太い円柱に支えられた半円形、巨大なドーム状の防波堤が目に付く。まるで神殿のような雰囲気を残す防波堤は北防波堤といい、昭和の初めに作られた土木遺産のひとつだ。
 最果ての海はたいそう厳しい。特に北からは強い風が吹き付けて、冬になるとその風に乗って流氷が湾内にも入り込む。そうなると船は港に入れなくなってしまう。
 港町であることが稚内という町の本質であるならば、その本質そのものが揺らぐほどの大問題。いくら鉄道が通っていても、港が機能しないのではまったく心許ない。そうした事情を受けて、港を守るために建設されたのが北防波堤だ。
 1920年に着工、2度にわたって工期が延びるなど難工事になったが、最終的には1936年に完成した。ドーム型の屋根は、北からの波浪に耐えるべく設計されたもので、いまでも稚内のシンボルになっている。港町としての稚内を、身体を張って守っている防波堤なのである。
約100年前に開業した「稚内」
 実は、かつて稚内駅の線路はこの防波堤の下まで伸びていた。稚内駅という名前の駅がはじめて開業したのは1922年のことだ。ただ、このときの稚内駅は町の南の外れ、いまの南稚内駅の場所に設けられた。
 その翌年、1923年には稚内と樺太・大泊(現在のサハリン・コルサコフ)を結ぶ航路が開設されたが、乗り継ぐ人々は当時の稚内駅から港までの約1.5kmを歩かされていた。
 そこで線路が港に向けて延ばされて、1928年に稚内港駅として開業したのが現在の稚内駅だ。ついで1936年に北防波堤とその下の桟橋が完成すると、防波堤直下までさらに延伸。1938年に稚内桟橋駅が開業する。
 これにより、稚内桟橋駅から樺太に向かう稚泊連絡船に直接乗り継ぐことができるようになった。その頃の南樺太は日本の領土であり、新天地として南樺太に夢を求めて移住する人も多かった。かくして、稚内の町は鉄道と樺太航路の連絡の拠点というあまりに大きな役割を基礎として、発展を見たのである。
賑わい始めた稚内の町。「そんな商店街を歩いていて目に付くのは、ロシア語だ」
 この間には2度にわたって大火に見舞われるなど試練もあったが、樺太へ渡る人が増えるとともに稚内の町も賑わいを増す。駅周辺には多くの旅館が建ち並び、劇場(映画館)やカフェー、バーなども現れた。
 函館大火で函館を去り、新たな働き場を求めてたどり着いた女性たちも多かったという。稚内駅も、宗谷本線・天北線の駅の中では穀倉地帯の中心だった士別駅と鉄道収入の1位・2位を争うなど、いまの1面1線、数えるほどしか列車の来ない駅からは想像できないほどの隆盛ぶりだった。
 稚内が南樺太連絡の拠点だったのは、終戦までのごく短い期間に過ぎない。それからもう80年近くが経ったわけで、その当時の隆盛ぶりを今に伝えるものは少ない。駅の近くを歩いてみると、ビジネスホテルが建っている一帯には地元の人が通うような小さなスナックや居酒屋が集まる一角。また、そのすぐ南には歩道部分に屋根が架けられている商店街も南北に延びている。
 その入口付近、稚内駅の向かいのスーパーマーケットの脇には、二宮金次郎の像。調べたわけではないので断定はできないが、きっと日本最北端の金次郎だろう。
 そんな商店街を歩いていて目に付くのは、ロシア語だ。商店街の店の名前を意味しているのか、売っている商品のジャンルを説明しているのかはよくわからない。ただ、歩道に架けられた屋根の上には、決まってロシア語が書かれている。
 ロシア語を目にするのはそればかりではない。フェリー乗り場の案内から道路上の交通案内まで、いたるところにロシア語がある。英語が併記されているのは日本中どこでも同じだが、それに加えて稚内ではロシア語も、というわけだ。南樺太は終戦後にソ連、そしていまはロシアの領土となったわけで、稚内は宗谷海峡を隔ててロシアと国境を接する町なのである。
「カニの値段は、稚内で決まったんですわ」
 いまでこそ、ウクライナ侵攻の影響もあってロシア人を稚内の街中で見かけることはほとんどなくなった。ただ、タクシー運転手氏の話によると、以前は1日に1000人ものロシア人が上陸、カニやウニなどの水産物を水揚げして(つまり日本に輸入して)いたとか。「カニの値段は、稚内で決まったんですわ」とは運ちゃんの談。
 稚内駅周辺の市街地のすぐ西側は山になっていて、稚内市の市街地は山と海に挟まれたわずかな平地に集約されている。そこを貫いて通っているのが、ひとつは宗谷本線、もうひとつは国道40号だ。
 国道沿いを南に進むと、途中で宗谷本線と交差しつつ、南稚内駅方面へと向かう。南稚内駅は最初に稚内に設けられたターミナル。いまでも駅の近くに蒸気機関車の転車台の残骸が残っていて、往時の賑わいが偲べる。いまでも南稚内駅には特急が停まるから、最果てのまちの第2のターミナルといったところだろうか。
 実際、南稚内駅の周辺にもホテルがあるし、旅人をそこそこ満足させるような小さな飲食街もある。さらに駅の南側一帯には、いわゆるベッドタウンが広がっているようだ。また、南稚内駅に近い国道40号沿いは、とても最果てとは感じさせないような、ジスイズロードサイドでもある。マクドナルドにすき家、ツルハドラッグに紳士服のはるやまと定番揃い。これらにもきっと、“日本最北端”の冠が付くのだろう。
ローソンがついに稚内に!…というけれど…
 港にはたくさんの漁船が停泊し、水産加工の工場とおぼしき建物の中では黙々とホタテの殻を剥く人の姿が見え、あちこちでみかけるロシア語の案内。こうしたあたり、実に最果てらしいし、極端な言い方をすれば日本であって日本でないような、そんな錯覚にすら陥りがちだ。国境の町、という言葉が実にふさわしい。
 が、国道40号沿いのロードサイドを見れば、あたりまえのことだが、やっぱりここも歴然としたニッポンであった。ロードサイドのチェーン店ほど、遠くに旅してきた旅人を安心させる風景はないのではないかと思う。
 ちなみに、この夏にオープンして話題になった、稚内のローソン。その場所は南稚内駅より南側に広がるベッドタウンの中だ。
 ローソンがついに稚内に!などとネットで騒がれていたが、もちろん稚内にもコンビニはたくさんあります。そう、みんな大好きセイコーマートがあちこちに。やっぱり最果てであろうとなかろうと、稚内は絶対的にニッポンだし、そしてセイコーマートはスゴいのである。
写真=鼠入昌史
〈 ソ連の侵攻、手渡される青酸カリ、定員の4倍を乗せて沈没も辞さず…終戦の日「から」激烈化した“日本人避難計画” 〉へ続く
(鼠入 昌史)