Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

「ヒト」を切り捨て衰退した日本、じつは「2023年後半」から流れが一変していた

「気鋭」という言葉がこれほどぴたりとハマる学者も珍しい。経営学者、岩尾俊兵(慶應大学准教授)である。『世界は経営でできている』(講談社現代新書)は発売直後から版を重ね、前著『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』(光文社新書)と並んでベストセラー街道を突き進む。
この事実には一つの謎がある。
『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』は原稿用紙50枚超の大幅な増補を加えたとはいえ、ベースは2021年に発売しながらすぐに絶版となった一冊だ。『世界は経営でできている』は読みやすさを優先した連作エッセイで経営とは何かを浮き彫りにする。その核は岩尾のこれまでの論考とさほど変わらない。
ほんの数年前には出版マーケットに受け入れられなかった論が、2023年末から注目を集め、岩尾は「気鋭」の経営学者へと変貌した。その秘密はどこにあるのか。早速、本人を訪ねてみると……。
そもそも「経営」とは何か?
最初に経営とは何か。岩尾の定義を紐解いてみよう。
「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」(『世界は経営でできている』より)である。
もっと簡単に言えば、みんなが幸せになっていくという目的を忘れることなく、その時々で「あれ、これで幸せになっている?」と問い直し、手段や意義を問い直す行為の全般を“経営”と彼は呼ぶ。健康、家族や会社内の人間関係、みんな幸せになりたいはずなのにどこかうまくいかないことは誰の人生にありふれている。
“経営”はうまくいかない原因を探りあてて、方策を練り上げることだ。経営と無縁な人は誰もいないはずだが、そう言われてもどこか違和感を覚える人も多いだろう。なぜか私たちは「上手なお金儲け=経営」だと思い込んでしまっている。その原因はどこにあるのだろう。
《「お金儲け=経営」という見方は、日本においては、平成の長期不況つまりデフレ不況のなかでで強まってきた価値観だと言っていいと思います。私を含め今の30代〜40代は生まれてから今までほとんどずっとデフレ期の中を生きている。
デフレはヒトに対するカネの相対的な価値が高まる現象です。デフレ=カネ優位、円高の時代ですから、相対的に立場が弱くなった「ヒト」は切り捨ての対象となります。
こうした状況では、「カネが一番大切だ」「うまくカネを集めて、うまく回してカネを増やすことこそが経営の本分だ」という考え方は疑われにくくなるのでしょう。
逆に昭和期に成長した日本型経営のモデルになるような企業、ソニー、ホンダ、パナソニック、トヨタなどが生まれてきたのは昭和のインフレ期でした。インフレだとカネの価値は下がり、相対的にヒトの優位性が高まります。だから企業にとって希少資源であるヒトを囲い込むことが経営上の正解になり、ヒトを離さないために会社は給料や福利厚生などを充実させ様々な手当もつけた。
ヒトの価値を理解し、ヒトを育てながら価値創造の主役にする。これこそが日本企業、日本式経営において最大の強みでした。
反対に、デフレ期の問題はヒトを軽視することでした。デフレではカネが希少資源になるわけですから、相対的に弱い立場にあるヒトはカネに振り回されるようになる。こうして、デフレに突入した90年代以降、日本企業も社会も自分たちで強みを手放してしまったように見えます。大きな影響力を持った「自己責任論」はその典型です。
不景気で人材を育て上げることができなかった、あるいは育てるチャンスすら与えられなかった状況で本人に責任なんてないのに、本人に責任を負わせるのはあきらかにおかしい。
カネを守るため、「代わりはいくらでもいる」と言わんばかりに社員を切り捨てることが経営だと肯定されてきたのもデフレ期の特徴です。これも社員に責任はありません。ヒトが幸せになれない選択を強いておいて、経営を語るのはおかしなことだという意識が薄いのです。
私は日本企業の問題は、日本型経営の構造的な問題よりもデフレのほうに大きな要因があると語ってきました。ところがほんの数年前までこうした議論は社会にはほとんど受け入れてもらえませんでした。
流れが変わったのは2023年の後半からです。日本経済に90年代前半以来のインフレの波が訪れ、連動して明らかに景気の波がいい方に変わってきた。マインドの変化は確実に起きています。経営とは何か、みんなの生活の中にもあるという話も受け入れられるようになってきました。》
デフレは人の心を荒ませる。市場や顧客は有限であり、常に奪い合うものだという意識がうっすらと広がり、企業は汲々として、価値創造はあとまわしになった。手段だったカネは目的に転化し、いかに持っているかが人間の価値を決めていくかのような時代も終わりが見えてきた今、経営を語る時期がやってきたとも言えそうだ。
金儲けではなく「価値創造」という視点
《『世界は経営でできている』の中では、かなり身近な事例から“経営”を語っています。例えば家の中に夫がちょっと飲み残したコップがあちらこちらに残してしまう問題、受験などで親が子供の学校をどこまで決めていいのか――。一見すると、まったく経営とは関係ないと思ってしまうかもしれませんが、金儲けではなく価値創造=他者と自己の幸せの追求という意味では、家庭もまた経営の対象です。
たとえば、妻は家を散らかしている夫にいらつき整理整頓を求める。それが妻にとっては居心地がいいからですね。
妻の思いは当然、理解はできるけど、夫もまた「家の中では何も考えずにすごしたい」という思いがある。
整理整頓に対する考えや行動だけを抜き出すと対立しているように見えても、実は「家の中でくつろいで暮らしたい」という目的は共有している。
ならば、どうするか。一致点があれば、愚痴を言い合うより先に解決策は実はたくさん出てきます。月ごとに予算を決めて家事代行サービスを頼んでもいいし、実際に私がやっているように夫が家の中でマイボトルを首から下げてつかうのもいい。こうした案の一つ一つを「現実味がない」と批判する人がまれにいますが、そうした批判は的を外しています。現実に私はこうして問題解決していますし、大事なのは解決案そのものではなく「各家庭でこうした価値創造による問題解決をおこなって、よりよい解を見つける」ということです。
『世界は経営でできている』に出てくる問題解決の案そのものには何の意味もなく、大事なのは家庭も職場も友人関係も価値創造=みんなの幸せ追求のための問題解決という「経営の現場」だと認識して、各家庭でも各職場でも、各自が百個、二百個と、自分なりの解決案を出していけばいいのです。
他者と対立しても物事は良い方には進みません。問題が他者のせいならばその解決策を持つのは他者だから当たり前です。でも、新しい家庭内の価値を夫婦で創造することができれば、問題は一つ減ります。実はこれが経営の視点なのです。
究極の目的や一致点をちゃんと共有して、具体的な方策を練っていき、目的達成に向けた障害を取り除いていくこと。家庭も会社も経営の基本的な視点は同じです。会社のなかで、無駄な会議、無駄な書類が増えていくのも、究極の目的を見失ってしまうからですよね。》


なぜ優秀な部下が無能な上司になるのか?
企業最大の目的は、顧客を生み出して、顧客に満足を与えて、その対価を顧客が支払ってくれることでみんなが幸せになるサイクルを作り出すことにある。部下の失敗を「出来が悪い」と嘆き、叱責するのは“経営”の視点が無いと岩尾は言う。「顧客の満足」という目的のために失敗の原因を分析して伝え、さらに成功に必要な現場知を先輩や上司が教えていくというプロセスを踏んでいく。こうすることで叱責よりもはるかに有意義な成果が生まれる準備が整う。時間はかかるが、人材という戦力は増えていくからだ。
では、無能な上司を産まないためにはどうしたらいいのか。最良のヒントを得ておこう。
《経営学の知見では、組織がピラミッドで複数の階層に分かれていて、それぞれの階層で求められる能力(業務遂行能力と経営能力など)が違うといった条件が重なると「どんなに優秀だった上司も必ず無能になる」ということがわかっています。
優秀なプレイヤーが優秀なマネージャーになるとは限らないことは多くの組織で「あるある話」でしょう。しかし、この前提は容易に崩せます。それは、組織の各階層の仕事に相関を持たせることによって、です。つまり、組織内のどんな仕事も「経営の視点で取り組む」ことで、優秀な部下は有能な上司になれるのです。
端的に言えば、上司が無能になる責任は上司個人ではなく組織の作り方にあります。上司の無能を笑うのではなく、組織内の誰もが経営という視点を持っていれば、「制度的無能化」の条件は崩れます。そのためには組織全体で『世界は経営でできている』を回し読みしてもらうのもおすすめしたい一手です(笑)》
これは「宣伝文句ですが……」と岩尾は笑うが、単純なそれで片付けていい問題でもない。詳しくは本書に譲るが、無能な上司が生まれる4つの条件のうち、2つは自分の人生を“経営”する社員がいることで崩せるからだ。
経営は人を幸せにも不幸にもする
自分が変わることで、ちょっとした変化が起きる。経営もまた可能性のアート(技術)である。そんなことが言えるのかもしれない。
《この本で狙ったのは、みんなの人生に“経営”という視点を取り入れることで、より幸せな人生を送れるということです。経営=金儲けと決めつけて「経営なんて自分の人生に関係ない」なんて考えはもったいない。》
インタビュー中、「経営は人を幸せにすることもできるし、不幸にすることもある」と岩尾は何度か口にした。親の事業失敗を目の当たりにして中学卒業後、自衛官として世に出て、高卒認定試験、受験勉強、学生起業で学費を賄い、研究者としてのキャリアも積んだ。そんな彼の人生の根幹がこの言葉にあるように思えた。


《私が生まれたのは、有田焼の製造メーカーとして地元でも名が知られた家です。祖父が経営者として高度経済成長期に成長軌道に乗せた典型的な日本の中小企業で、本社の常務で子会社の社長だった私の父も後継候補でした。
父の書棚には経営学者のピーター・ドラッカーの著作や京セラの稲盛和夫さんの経営論が並んでいて、それらを読んで育ってきました。ドラッカーの「顧客の創造」や稲盛さんが唱えた「アメーバ経営」(会社組織を細分化し、それぞれの現場リーダーが集団を経営する手法)は小学生の頃から知っていました。
ぼんやりとですが、「経営学者」という仕事に憧れを持ったのもその頃からです。
幼少期までは私の家は裕福でしたが、父があるとき祖父の会社から人材を引き抜いてライバル企業を自分の手で作ってしまってから、生活が徐々に変わっていきました。
父が理想にしていたのは、トップダウン型ではなくみんなで作り上げていく会社組織だったのですが、足元を見ずに理想を追求してもうまくいくことはない。
あっという間に倒産して、多額の借金を抱えることになりました。
父は現実を直視して変化していくことを、「安易な妥協」と捉えてしまう経営者だったというのが私の見方です。商人のマインドで考えれば周囲との確執はマイナスしかないし、妥協ではなく対立解消を目指せば、現実を見ることは悪ではなく善なのですが……。
私も早い時期から、自分の人生を経営することになりました。幸せになるために何が必要なのか。自分はどう生きたいのか。そのための手段とそれを達成するために必要な目的は何か……。必死に考えていくことになったのです。》
価値は無限に創造できる
岩尾の人生には彼にしかない苦労があるが、きっと多くの人の人生のなかでも必死に考える瞬間は確かにあるはずだ。そこに“経営”という言葉を当てはめれば苦労は「可能性の創造」に転化する。
《価値創造は有限で、市場は奪い合いで、いかに狡猾に椅子の奪い合いを勝ち抜くかという発想はそもそも「経営」とは呼びません。『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』でも書きましたが、今、流行する横文字の経営理論の大元はカイゼンやトヨタ生産方式のような日本式経営にあります。
日本式経営は経営者が現場の社員に経営意識と権限をもたせることで、「価値創造の民主化」を実現しました。他方で、女性の登用が少ないといったジェンダー格差を筆頭に課題も残しています。ヒトが大切だからといって単純に昭和に戻れ、ではうまくいかない。
ヒトを大切にしながら、カネ一辺倒に陥らない経営思想は歴史から導くことができると思うのです。
“経営”の根幹にあるのは、価値は無限に創造できるということです。有限のパイを奪い合いではなく、パイを作り続けることにこそ価値がある。
まずは多く稼いだから優秀な経営者という思想から、多くの顧客を幸せにしたから素晴らしい経営者と呼ぶ思想に転換していきたいです。》


振り返れば、岩尾の言う“経営”は新聞社、インターネットメディアを辞めて独立をした――そしてなんちゃって、ではあるにせよ法人化もした――私の人生にもあった。自分の人生は多くの人とともに成り立っている。
デフレ期に蔓延したようなカネ的な成功はできていないかもしれないが、新しい価値を生み出すような仕事もあった。つまり、私も私を経営してきたのだ。“経営”という思考法を導入することで、見えてくる地平は変わる。発想を転換すれば、きっと過去の見え方も変わるし、未来の見通しも変化する。
誰もが価値創造の主役である。少なくとも、自分の人生においては。