Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

「親日」だからと甘えていいのか…戦争の記憶が薄れゆく日本人に、かつての「戦場」に住む人々が抱いている「意外な本音」

「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。


家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。


本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。


元日本兵の慰霊を続ける村
戦後七十数年ともなれば戦争の記憶の風化はもはややむを得ない。ビルマ戦場跡の各所に建てられた旧日本軍の慰霊碑や墓碑は現地社会に根ざすことなく次第に忘却され、慰霊巡拝に訪れる人もそれを管理する人も減少し経年劣化は進んでいる。2007年を最後に中村さんが行けなくなってから、ウェトレット村に日本人の慰霊巡拝者はほとんど来なくなった。元兵士だけでなく遺族も高齢化が進んでいるのである。
2016年と2017年の2年続けて、私は中村さんの意志を継ぐ日本人としてウェトレット村の3月8日の旧日本軍戦没者慰霊祭に参列した。毎年、ウエモンとその一族が中心になって慰霊祭に向けて1週間かけて準備する。ウエモン一族は招待状を作成し、村人約150人に参列を呼びかける。おもてなし料理の準備で女性たちも大忙しだ。当日は4、5名の僧侶を招いて村総出で慰霊祭に参列する。僧侶へのお礼やおもてなし料理など出費は相当の額になるだろう。「慰霊祭をやるにあたって中村に資金を要求したことはなく、できる範囲でやっている」とウエモンは言う(実際のところ中村さんは送金しているのだが……)。正直なところ、こんな小さな村の村人が毎年本当に旧日本兵の慰霊祭を行っているのか? なぜ?


私は半信半疑だった。実を言えば、この目で確かめるまで信じられなかった。


3月の戸外は午前中でも30度を超すので、慰霊祭は朝一番に行う。色彩豊かなロンジーに身を包んだ老若男女が、早朝にもかかわらず7時には集まって来た。村人は中村さんが寄贈した慰霊塔とパゴダを前にして、地べたに並んで座る。4、5名の僧侶が慰霊塔とパゴダを背に、村人に向かって椅子に座る。私は中村さんから言付かった日本の菓子や酒を慰霊塔に供えた。とくに乾期のメークテーラ戦の最大の敵は水不足だと聞いていたので、私は日本のペットボトルの水をできるだけスーツケースに詰め込んでしこたま持参した。最期の時に水を求めた兵士に思いを馳せて供えた。


慰霊祭が始まった。僧侶による読経の最中、銀の器に水滴を垂らして「灌水供養」をする。「灌水供養」は本来ウエモンと中村さんの役目だが、この時は恐れ多くも中村さんの代わりを私が務めた(2016年)。功徳を回向するため、1滴ずつ水差しの水滴を銀の器に垂らすのだが、見ている以上に難しい。せっかちなせいか器がすぐに水でいっぱいになってしまった。読経が終わると参列者が1人ずつ慰霊塔前の台に花を供えた。


その後、「中村テンプル」に場所を移した。そこでも僧侶の読経と講話がある。その後、参列者皆でおもてなし料理(乾燥魚の煮物、スープ、マンゴーサラダなど)を頂く。近隣の村人や子どもたちや近くの工場の労働者や通りがかりの人まで、合わせて60名ほどが集まって賑やかに歓談する(2017年)。


最後に、唯一の日本人参列者の私が僧侶に呼ばれた。僧侶から私に特別な講話があった。僧侶はミャンマーでは大変尊敬されているので非常に有難いことである。私が僧侶に「なぜミャンマーの人々が旧日本軍の慰霊をされるのですか」と不躾な質問をすると、次のように諭された。


「国も民族も関係ありません。ビルマ戦で亡くなったすべての戦没者のための慰霊祭です。日本人のあなたが慰霊祭に参列することはとても良いことです。人間は必ず死を迎えます。生きている間にできるだけ良いことをしなさい。功徳を積むのです。それが仏様の教えなのです」


僧侶の言葉が心に沁みて、思わず涙がこぼれた。なぜ旧日本軍の慰霊祭を現地主導で行うのか? と疑問に思っている心を見透かされて身が縮む思いがした。地べたに額をつけるようにお経を唱える村人の敬虔な姿を見て、少しでも彼(女)らを疑った自分が恥ずかしくなった。


ミャンマー贔屓
元日本兵らは戦地で食糧の供給や傷の手当てなどをしてくれたミャンマー人への恩義に感謝の気持ちをもって、「ビルマ人は親日的だ」としばしば語る。日本人の「ミャンマー贔屓」は兵士だけでなく遺族らも同様である。彼らは「戦時中は父親が、戦後は自らが親切にしてもらった」と語ることで「ミャンマー好き」の慰霊旅行のリピーターとなる。日本の若者(孫の世代)もまた、祖父や親の世代の記憶をそのまま継承する。


私は十数年にわたり戦友会の戦没者慰霊祭や永代神楽祭の世話人をしてきたが、元兵士が中心に運営していた頃の戦友会や慰霊祭と、元兵士の人数が激減し一線から退いた後の戦友会や慰霊祭の「変質」には目をみはるものがある。


激戦地で戦った元兵士は戦争を美化しなかった。彼らは積極的に戦争の暗部を語らなくとも、占領地や植民地の人々に塗炭の苦しみを与えたことを体験、あるいは見聞しているからだ。戦友会や慰霊祭に興味や関心を抱く「奇特な」若者にたまに出会う。彼(女)らは得てして戦争を肯定的に捉え(「自虐史観」の否定)、元兵士を盲目的にリスペクトする傾向が強い。遺族でもない若い世代が慰霊祭に参加するのは喜ばしいことだが、彼(女)らは元兵士なら共有している戦場での残虐な「加害」体験は継承せずに(兵士たちが語ってこなかった)、インパール作戦のような悲惨な被害体験やそれに付随した「親日的なビルマ」というノスタルジックな記憶を継承したがっている。


彼(女)らは戦域や時期や階級に関係なく戦場体験者を無条件に崇め、戦没者を純粋に「英霊」として顕彰する。靖国神社で行われていたビルマ方面軍戦没者慰霊祭で70代(当時)の遺族は「私たちの目下の最大の課題は、総理大臣と天皇陛下に公式の靖国参拝をしてもらうことだ」と挨拶した。戦没者の遺骨収集と慰霊が最大の目的のはずだったのだが……。遺族の挨拶には保守政治勢力との根強い関係性が色濃く投影されていた。


最後に決まって「海ゆかば」を斉唱するこの一連の流れには、アジアの人びとが被った凄まじい戦争被害への反省のまなざしはまったく感じられない。同時 に、「(中国は反日的だが)ビルマは親日的だ」という言説が継承されているように感じるのは私だけであろうか。


ビルマは「親日的」なのか
ウェトレット村の旧日本軍戦没者慰霊祭の事例は、元将校の中村清一さんと元村長のウエモンの長年の人的絆と信頼が現地主導の慰霊祭の継続に繋がっている特異な事例だ。


ウェトレットの慰霊祭を知った日本人はこれこそが「日緬友好の証だ」と絶賛するに違いない。まさにその通りなのだが、十分に留意しないと「ビルマ戦は英国の植民地支配からビルマを解放した戦争だ」と主唱する人たちにウェトレット村の事例は都合の良い「証拠」を提供することになりかねない。現に最初に中村さんを紹介してくれたのが保守系右派団体の日本会議の40代の男性であり、彼は都合の良い「証拠」としてウェトレット村を語っていた。歴史的事実に基づいたビルマ戦の記憶の継承のためにも、戦場の真相を日英緬から多面的に検証すべきだ。中でも日本占領期のビルマのナショナリズム運動の特質を理解することなく「ビルマ人は『親日的』だ」という安易な「親日論」が次世代のビルマ戦の記憶となっては非常に危うい。


さて、英軍側の興味深い史料がある。英領ビルマ総督(Reginald Dorman-Smith)が避難先のシムラー(インド北部の都市)でまとめた日本軍のビルマ侵攻に関する1943年11月10日付の報告書だ(*1)。植民地行政府の長から見た英国のビルマ作戦(日本軍に敗北した初期のビルマ防衛戦)に関する記録である。日本のビルマ侵攻を、日本側からでも、ビルマのナショナリスト側からでもなく、敗退した英国側行政トップから見た記録だけに非常に興味深い。この報告書には「英軍撤退時、ビルマ人は西欧人に対して親切な行動をした。彼らは親日的ではないと解釈できるが、一方で、日本軍敗退時に同じような親切を日本兵にも行った」と記載されている。


つまり、戦時中のビルマ人は「親日的」でもあり「親英的」でもあった。僧侶の言葉を借りれば、ビルマ人は民族に関係なくお釈迦様の教えに忠実に目の前の苦しんでいる人を助けたのである。功徳を積んだとも言い換えられる。私がウエモンに、不躾な質問だが「日英軍の戦闘をどう思うか」と尋ねると、しばらく考えて「空から爆弾を落とされたら、落としたのが日本軍でも英軍でも嫌に決まっている。嫌な記憶は我慢して乗り越えた」と答えた。どこの国だろうと戦争はご免こうむりたいのは当然である。ビルマ人は民族自決、独立を成し遂げるためには「親日的」にも「親英的」にもなり得るのだ。ビルマ近現代史の専門家の根本敬さんはビルマ人のアンビバレントな立場を「抵抗と協力のはざま」と分析する(*2)。協力姿勢を見せて相手の信頼を得ながら、自己主張と抵抗の基盤を徐々に拡大するやり方だ。これも生き抜く術なのだろう。


元日本兵が語る、「ビルマ人によくしてもらった、彼らは『親日的だ』」という記憶は、中村さんの体験からも事実だと思う。でもビルマ戦の記憶を受け継ぐ私たちは、それを鵜呑みにして終わらせてはいけない。そこでどんな戦いがあったのか、現地の人の土地や財産や命まで奪う戦場の実像を知った上で、戦争の記憶を次世代に受け継がなければならない。それこそが、元日本兵の慰霊祭を続けているウェトレット村の人びとに対する「真の友好の証」である。ビルマの人びとの微笑みに甘えて、日本人は過去をさっさと水に流してはいけない。


独裁政権の生みの親は日本
2021年2月1日、ミャンマー国軍によるクーデターが起きたが、いまだ事態に収束の兆しはまったく見えない。ミャンマーは今、政治、経済から社会まで混乱し、人びとの生活は困窮を極めている。大都市での民主化を求める市民の弾圧が強化されたため、国軍に抵抗する市民が地方都市や農村やタイ国境の少数民族の部落などに逃げているそうだ。


かつては植民地支配からの民族自決を求めて戦ったビルマ国軍であったはずなのに、いまやミャンマーの民主化を抑圧する自国内の独裁権力になっている。


歴史を遡ればその国軍を作ったのが日本軍なのだ。1941年末、アウンサンスーチーの父であるアウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が日本軍のビルマ謀略機関(南機関)の肝いりで誕生した。日本軍はビルマ侵攻にビルマ人の反英ナショナリズムを利用した。民族自決を掲げるアウンサンらも英国の植民地支配から独立するために自分たちの軍隊をもつことは好都合であった。ところが、ビルマ戦での日本軍の敗退が決定的になってくると、彼らは日本軍を見切って抗日蜂起し英軍側に翻った(1945年3月27日)。これこそ「抵抗と協力のはざま」の体現化である。戦後、戦時中の「日本軍協力」より戦争末期の「抗日蜂起」が英国に評価され、アウンサンは対英独立交渉の途を開いた。アウンサンはビルマの独立(1948年1月4日)を見る前に暗殺されてしまうが、軍服を脱いで英国と非暴力による独立交渉を行ったアウンサンは賢明であった。


二度と戦争をしてはいけないと戦没者のために祈り続けるウェトレット村での慰霊祭は2023年も例年通りに行われたと聞いた。ウエモンも90歳を過ぎたが健在だ。


2011年の民政移管により一度民主化の果実を味わったミャンマーの人々を再び軍事的独裁政治下に戻すことはもはや不可能である。国軍は80年近く前に不当な植民地支配と軍事的抑圧に抵抗し、民族自決を求めて戦ったあの時代を思い出し、自らが少数民族を含む人々の権利を阻止する独裁権力になっていることを猛省すべきである。


先日、知り合いの在日ミャンマー人の女性が語った言葉がずっと胸に刺さっている。


「日本軍は国軍の産みの親であり、かつて日本軍はミャンマーを侵略した。今でも日本は経済的にも政治的にも国軍と決別していない。だから、ミャンマー人は国軍を『日本軍』と呼んでいる」


ミャンマーのクーデターは、いまの日本にとって「対岸の火事」ではないのだ。


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(*1)Report on the Burma Campaign, 1941-1942 By Sir Reginald Dorman-Smith, G.B.E., Governor of Burma(Printed in Simla, 10th November 1943)


(*2)根本敬『抵抗と協力のはざま 近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』岩波書店、2010年。


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さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。