Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

安倍元首相の下で自民党は「左傾化」、左派野党が壊滅した今の対抗勢力は?

ダイヤモンド・オンライン 提供 Lintao Zhang / Getty Images News
安倍晋三元首相が銃撃されて亡くなった。本稿では安倍氏に哀悼の意を表しつつ、首相としての歩みをじっくりと振り返る。第1次政権は「大失敗」と批判されたが、不器用さの中に改革への志を秘めていた。第2次政権では熟練度を増した一方、窮屈で息苦しそうにも見えた。そんな安倍氏の功績の一つは、本来ならば左派野党が取り組むべき「労働者への分配」などの政策を推進し、左派野党の居場所を奪って壊滅させたことである。この「左傾化」戦略は、日本にどんな影響をもたらしたのか。(立命館大学政策科学部教授 上久保誠人)
「大失敗」「敵前逃亡」と酷評された
第1次政権が秘めていた魅力

 安倍晋三元首相が7月8日、参議院選挙の応援演説中に銃撃を受けて死去した。心から哀悼の意を表する。私は14年間に及ぶ本誌での連載(前身含む)を通して、安倍晋三という政治家を見続けてきた。今回はその知見を踏まえて、憲政史上最長の「通算3188日」にわたって首相を勤めた政治家・安倍晋三を総括したい。
 安倍氏については、思い返すことが数多くある。まず、一般的には「大失敗」と評価される2006~07年の第1次安倍政権のことだ(本連載第101回)。
 第1次政権時、安倍氏は「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、歴代自民党政権が成し遂げられなかった「教育基本法改正」「防衛庁の省昇格」「国民投票法」といった「やりたい政策」の実現に突き進んだ。
 だが、「政治とカネ」の問題による閣僚の辞任が相次ぐなど、不祥事の噴出で支持率が急落。わずか365日での退陣を余儀なくされた。
 正直、第1次政権はお粗末極まりない政権運営だった。政治家としての経験が乏しかった安倍氏の盟友たちを閣僚や補佐官に起用した「お友達内閣」は政権の意思決定を混乱させた。
「消えた年金」問題では、野党の厳しい追及に対し、安倍氏による日替わりでコロコロ変わる軽い発言とパフォーマンスが、国民の批判に火に油を注ぐ形になってしまった。
 国会では野党との調整もうまく進まず、「強行採決」を乱発し、さらに国民の反感を買った。07年7月の参院選に惨敗した安倍氏は退陣を求められたが、拒否して首相の座に居座った。ところが結局、首相就任からわずか一年後、突如「病気」を理由に政権を投げ出してしまった(第45回)。
 この突然の辞任は、「敵前逃亡」「政権放り出し」「偽りの所信表明」などとメディアなどで酷評された。
 しかし、先ほどの「お粗末極まりない」という批評とは矛盾するようだが、私はこの第1次政権を、いくつかの観点では高く評価できると考えている。
単なる「お友達」ではない
信念と突破力を持つ側近たち

 第1次政権を評価できる最大の要因は、「お友達内閣」の人選に、優秀かつ信念を持ったメンバーが含まれていたことである。例えば、第1次政権で安倍氏の側近だった塩崎恭久元官房長官だ。
 塩崎氏は政界で「英語をしゃべる橋龍」という異名を持つ。英語に堪能であることと、故・橋本龍太郎元首相と同じく、官僚に厳しいことをかけたネーミングだ。
 塩崎氏はかつて「政策新人類」と呼ばれた改革派で、族議員・派閥との関係も融和的ではなかった。そのため、塩崎氏の調整力不足が、政権運営を混乱させたと批判された。
 だが、塩崎氏らは、政策実現には強いこだわりを持っていた。「争点隠し」をして逃げることもなかった。野党と非妥協的な姿勢を貫いての「強行採決」は国会を混乱させたが、前述のような多くの政策を実現させたのも事実だ。
 また、日本政治においてタブーとされる政治課題にも果敢に挑んだ。その代表例は、歴代自民党政権が成し遂げられなかった「教育基本法改正」である。
「郷土や国を愛する心」「日本の伝統と文化の尊重」などを盛り込んだ改正案は、日本教職員組合(日教組)が強く抵抗し、署名運動やデモを展開したが、塩崎氏たちは反対を押し切った。
「お友達」とやゆされながらも、当時の内閣は「公務員制度改革」にも意欲的に取り組んだ。具体的には、安倍氏が「突破力がある」と評価した渡辺喜美氏を行革担当相に抜てきし、縦割り行政の根源といえる「天下り斡旋」を禁じようとしたのだ。
 だが、この施策を受け、政権に対する族議員・官僚の抵抗はすさまじさを増した。また、官公労(各官公庁の労働組合)を支持母体とする野党側の抵抗にも、火をつけてしまった。
 さらに、「最強の官庁」と呼ばれる財務省とも対立的になった。国家による経済への介入を減らすことで成長を目指した「上げ潮派」と、介入をやむなしとする「財政タカ派」の反目を覚えている人も多いのではないか。
 当時の安倍氏は明確に「上げ潮派」路線を取り、同じ意見を持つ「お友達」を閣僚・補佐官に起用する一方で、財務省に近い関係にあるベテランは要職から排除した。財務省が目指した増税を明確に否定したのだ。また従来、財務省が仕切っていた政府税調会長の人事を官邸主導で行い、新しい税調会長に経済学者の本間正明氏を抜擢した。


 このようなタブーを恐れない強引な政権運営は、国民、官僚、族議員、野党、マスコミの激しい反発を買い、「お友達」たちは四面楚歌(そか)となった。政権のスキャンダルが次々と噴出することになったのは、タブーへの挑戦の代償といえなくもない。
わずか1年で夢破れ
第2次政権では「高支持率」路線に

 第1次安倍政権時の安倍氏と「お友達」たちは、一言でいえば不器用であった。だが、政策実現、改革への志は間違いなくあった。
 また、当時の安倍氏は「空気を読まない総理」だと批判されていた。記者会見では、首相の説明がまどろっこしく、何を言っているのか分からないといわれた。ただ、安倍氏は「国民に丁寧に説明しなければいけない」と言い、それでも熱心に語り続けた。
「マスコミではなく、国民に直接語りたい」とも言い、質問をした記者ではなく、TVカメラに目線を向けて話した。ところが、それはTVを見ている国民に「安倍氏は疲れて視線が宙をさまよっている」という印象を与え、さらなる批判を呼んでしまった。
 こうしたエピソードからも分かる通り、当時の安倍氏は不器用な姿をさらけ出す場面があった。だがそれは、国民に対して誠実な姿でもあった。おおらかで明るく、「美しい国、日本」の理想を素直に追った。
 正面からぶつかれば理想はかなうと信じた、政治家一族の“お坊ちゃま”。おそらく、これが本当の安倍晋三という人だったのだと私は思うのだ。
 一方、12年に発足した第2次政権時の安倍氏は、前回の失敗の経験をうまく生かし、高支持率を維持する手腕を身に付けていた。第1次政権の失敗から「やりたい政策」のためには、高支持率を維持することが大事だと考えたようだった。
 政権を奪還した安倍氏の目には、「失われた20年」で長年にわたるデフレとの戦いで疲弊し、「とにかく景気回復」を望む国民が映った。
 そこで安倍氏は、高い内閣支持率を得るには、とにかく国民をこの疲弊から解放することだと考え、「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」からなる「アベノミクス」を発表。公共事業や金融緩和を派手に断行した(第75回)。
 この戦略は結果的に「当たり」となり、高支持率の獲得に貢献した。こうした第2次安倍政権の世論に対する敏感さは、当時首相側近だった加藤勝信氏に課せられた役割にも表れている。
7つの顔を持っていた加藤・元一億総活躍相
その真の役割は「支持率調整役」

 加藤氏は当時、「一億総活躍相」に起用されたほか、「女性活躍担当」「拉致問題担当」など7閣僚を兼任していた。
 こうした1つ1つの担当業務には全く関連性がないように見える。だが実は、7つの業務には「国民の支持を受けやすい課題」に向き合っているという共通点があった。
 これが意味するところは何かというと、あくまで筆者の見立てだが、加藤氏の真の役割は「支持率調整担当相」だったといえる。
 加藤氏は首相官邸に陣取り、支持率が下がりそうになったタイミングで、国民に受ける施策を発表する役割だったということだ。
 実際、加藤氏は、内閣支持率回復のために「女性の活躍」と「子育て支援」に焦点を当てた。これは、ネット上で待機児童問題に関連して「保育園落ちた日本死ね!」という書き込みが広がるなど、政権に対する批判が強まったからだった(第122回)。
批判も多かったが
安倍氏の人柄は世界から慕われた

 第2次安倍政権は他にも、高支持率の維持を意識した結果、「全方位社会保障」「教育無償化」「働き方改革」「改正入管法成立」といった数々の成果を上げた。
 これによって高い支持率を保つことが、「特定秘密保護法」「安全保障法制」「テロ等準備罪(共謀罪)法」といった、安倍氏が第2次政権で「本当にやりたかった政策」を実現するための布石になったともいえる。
 しかし、一連の政策は、「自民党の歯止め役」を自負する連立パートナー・公明党の意見と折り合いを付ける形で生まれたのも否めない。そのためか、「どれも中途半端」「日本国民の安全や、日本の領土を守り切れるのか疑問だ」などと批判を受けるケースもあった。
 アベノミクスも結局、斜陽産業の保護にはつながったが、経済を成長させる新しい産業を生むことはなかった。その現実は、新型コロナウイルス感染拡大によって露呈した。日本社会のIT化、デジタル化などが世界から大きく遅れていたことを、日本国民はコロナ禍を機に痛感した(第294回)。
 そして、安倍氏の悲願であった「憲法改正」には、ついに届かなかった。
 外交においても、確たる成果はない。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領とは27回も会談し、北方領土問題を解決しようとしたが進展はなかった。北朝鮮拉致問題の解決にも尽力したが、大きな成果は上げられなかった。
 だが、安倍氏の人柄は世界から慕われた。銃撃事件を受け、ウクライナ紛争の渦中にあるプーチン大統領が弔電を寄せたほどである。コワモテのドナルド・トランプ米前大統領や習近平中国国家主席も「安倍さんなら」と会談した。
 決して偉そうにはしない。どの国にも公平かつ穏やかに接し、大国に一目置かれる信頼を得る。安倍氏は、日本外交のあるべき姿を見せてくれた。
 政権末期には「森友学園問題」「加計学園問題」「桜を見る会」など、「権力の乱用」と批判される問題が次々に起きたのは確かだ(第226回)。ただ、これらも今思えば、自身に群がるさまざまな人たちを無下に扱わず、丁寧に対応していた安倍氏の人柄から起こってしまったのかもしれない。
安倍氏が生んだ「自民党左傾化」の流れが
新たな時代の萌芽をもたらした

 第1次政権時と比べると、第2次政権以降の安倍氏は熟練の大政治家に変身した。その一方で、高支持率の維持のために四方八方に気を使い、どこか窮屈で、息苦しそうにも見えた。
 そんな第2次安倍政権の功績は、大きく二つあると私は考える。
 一つ目は、世論への応答性が高かったことで、本来は左派野党が取り組むべき「労働者への分配」などの「社会民主主義的」政策を実現したこと。二つ目は、この戦略によって左派野党の居場所を奪って壊滅させたことである。
 岸田文雄首相が率いる現政権も、この流れをくんで「弱者・高齢者・マイノリティー・女性の権利向上」「教育無償化」「外国人労働者の拡大」など、“左右”に大きく広がる政策を展開している。
 一連の施策によって左派野党は完全に存在意義を失い、先日の第26回参議院選挙で惨敗した(第307回)。
 このことは、安倍氏が生んだ「自民党左傾化」の流れによって、伝統的な「保守(右派)VSリベラル(左派)」の対立軸が、現代社会にそぐわないものになった結果だといえる。
 一方その裏側で、新たな対立軸も生まれている。筆者の見立てでは、今の自民党の「対抗勢力」は、左派野党や政治家ではなく、市場での競争に勝ち抜いて富を得ようとする人たちの集団になりつつある。具体的には、SNSで活動する個人、起業家、スタートアップ企業・IT企業のメンバーなどである。
 彼らは政治への関心が薄い。「勝ち組」を目指す人たちにとって、格差是正は逆効果になるからだ。彼らの関心事は、日本のデジタル化やスーパーグローバリゼーションを進めることである。