Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

ソ連・ロシアのプロパガンダを30年伝え続けた「日本人ラジオ局アナ」が見た大国崩壊

かつてのソ連は、自陣営の優位性を世界に伝える多言語プロパガンダ機関として「モスクワ放送」を開局。短波や中波にいくつもの周波数をはりめぐらせ、ニッポン放送と混信することもあって、リスナーを困らせていた。ソ連の指示の下で日本語原稿を読み上げていた日本人アナたちが、当時の思い出を語った。※本稿は、青島顕『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社)の一部を抜粋・編集したものです。


ソビエト連邦の最後の年


夏のクーデターの行方は?


 1991年。20世紀に70年近く続いた人類初の社会主義国・ソビエト連邦は、最後の年を迎えようとしていた。
 経済の行き詰まりと共に、連邦を構成する共和国の一部から離脱の動きが顕在化するようになった。


 ゴルバチョフ大統領はロシアやウクライナなど主要な共和国による緩やかな連合体をつくり、資本主義体制への移行を進めようとする「新連邦条約」の制定を目指した。


 調印を目前に控えた8月19日。クリミア半島の別荘で夏休みを取っていたゴルバチョフ大統領は社会主義体制を堅持しようとする政権内の保守派から軟禁された。彼らは国家非常事態委員会を名乗って、クーデターを起こす。


 日本時間の夕方に放送されたモスクワからの日本語放送で、少し高い声の男性アナウンサーが非常事態委員会の声明を読んだ。


「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由により、大統領の職務を遂行できないことから、ソ連国家元首の権限がゲンナージ・ヤナーエフ副大統領に移りました」


 ニュースを読んだのは、当時26歳のアナウンサー兼翻訳員・山口英樹さん。モスクワに来て2年半だった。


 この日の朝から国家非常事態委員会が報道機関を統制下に置いていた。


 委員会は、外国に政府の情報を流すモスクワ放送にも声明の放送を命じていた。


 当日の放送の音源がYouTubeに上がっている。ニュースの枠ではなく、本来ならニュースの後に放送される「ニュース解説」の枠で放送されている。


 オープニング曲、ソ連の作曲家スヴィリードフの曲「時よ、進め!」の厳かな調べが流れる。それに乗って、山口さんが話す。


「ソ連指導部は声明を発表し、その中で、ソ連の特定地域に半年間、非常事態が導入されたことが指摘されました。国内全域が無条件で、ソ連憲法と連邦法の支配下に置かれます。また、国の管理と、非常事態体制の効果的な実現のため、ソ連国家非常事態委員会が作られました」


 モスクワ放送の流す内容は、日々変化していった。初日は国家非常事態委員会の言う通りの放送。2日目に中立になり、3日目は(クーデターに対抗する)民主派の動きを伝える内容に変わっていった。


 ソ連を構成する共和国のうち最大のロシア共和国の大統領・エリツィンの反発もあってクーデターは失速し、わずか3日で鎮圧された。大統領代行、国家元首を名乗ったヤナーエフらは捕らえられた。


ソ連は悪の帝国でも


理想の社会でもなかった


 山口さんがモスクワ放送に入局したのは、1989年初めだった。


「もともと、できる人はできるように、できない人もその人なりに暮らすことができるというソ連の社会に対して共感するところがあったのです。それに、日本で報道されていることは本当なのか。実際に見てみるとどうなのか。知りたくて行ったようなところがあります。行って見てみると、(日本の保守派が説くような)『悪の帝国』でもなく、(革新的な人たちが言うような)すばらしいところでもなく、極端に言われていることは、どちらも正しくないことが分かりました」


 ヤナーエフらの声明を読み上げるときのような、のっぴきならない状況を含めて、ソ連の国家が運営して西側陣営の日本に向けられたモスクワ放送は、いわばプロパガンダを流す場である。どんな考え方で働いていたのだろうか。


「聞かれた方が情報を取捨選択してください、という気持ちでした。『これはソ連の公式見解ですよ』と言いたかった。肩入れするとか、違うとか、自分のメッセージを込めることはなかった。自分の体感は、ニュース以外のところで伝えるようにしていました」


 夏のクーデター未遂事件を境に、ソ連は坂道を転げ落ちるように一気に崩壊への道を進んでいった。ゴルバチョフ大統領は権力基盤を失い、代わってロシア共和国のエリツィン大統領が主導権を握るようになった。


 15共和国のうち、バルト3国が独立を宣言。ロシアなど有力な共和国が独立国家共同体(CIS)を結成した。ソ連という国が間もなく何かに変容していくのは明らかだった。


 寒さが増すモスクワで、日向寺康雄アナウンサー(編集部注/1987年冬、29歳で入局)が歴史の転換点となるアナウンスをした。1991年12月下旬のことだった。


「ソ連がその存在を停止する」


 ロシア語の原稿を翻訳してみると、そんな日本語になった。この一文にあった「スシェスブーエット(存在する)」という動詞の変化形が頭にこびりついているという。


 仕事を終えて家に向かうとき、モスクワは新年を前にした、いつもの街だった。不穏な空気はなかった。だが、外国人職員に与えられたアパートの部屋に帰ると、日本から問い合わせの電話が次々に鳴った。


「ソ連がなくなってしまうのですね」


 自分が読み上げた原稿に関して、マスコミ関係者らが確認を求めたり、街の様子を尋ねたりしてきた。


東西イデオロギーの対立が終わっても


日本語放送は2017年まで続いた


 12月25日、クレムリンにはためいていた赤地に金の鎌と鎚のマークがついたソ連国旗が降ろされ、代わりに白青赤三色のロシア連邦旗が掲げられた。


 モスクワ放送は「ロシアの声」と名を変えた。インターバル・シグナルもムソルグスキー(ロシアの作曲家)の曲に変わった。“キエフ(キーウ)の大門”をテーマにした曲だ。


 日向寺さんが「別の国(ウクライナ。かつてはソビエト連邦の構成国だったが、ソ連崩壊で独立国家になった)のことをテーマにしているのでは?」と尋ねたが、ロシア人のスタッフは「ルーシ(古代ロシア)はあそこから全てが始まっているのだから」と問題にされなかった。


 1990年代半ば、ロシア社会は「ギャング資本主義」と呼ぶ混迷の時代に突入していった。局を統括する政治家は「儲からないものは民営化」の路線に転換し、モスクワからの外国語放送は30言語ほどに減らされた。


 東西冷戦はとうの昔に終わり、さらに東側そのものが世界から消えていた。東西双方の陣営にとって、放送を通じてお互いの思想をアピールし合う時代ではなくなっていた。


 イデオロギーに縛られることはなく自由になったが、それは同時に、放送を運営する国家からすれば、お金をかけてまで宣伝するものがなくなっていたことを意味する。


 2014年のソチ冬季オリンピックを前に、「ロシアの声」とノーボスチ通信社が合併することが大統領令で決められた。日本語放送はその名が「ラジオ・スプートニク」と改められ、ラジオからインターネットだけの放送へと変わった。


 ついに2017年5月にネット放送も停止。日向寺さんはその年の6月、神奈川県海老名市に住む両親の介護のため、モスクワを離れた。


「3.11」に打ちひしがれた日本へ


ロシアより友情を込めて


 30年にわたって「モスクワ放送」「ロシアの声」でアナウンサーを務めた日向寺さん。社会や経済の混乱の中で、大変な思いをしながら働いてきたはずだ。中でも、ソ連・ロシアの公式見解を伝える仕事は心を苦しめなかったのだろうか。


「ニュースそのものはロシアの立場を伝えるものだった。これは誰かがしなければならない大切な仕事だと考えている」


 いつもロシア当局の言いなりで放送していたわけではなかった。例えば、北方領土の4島について、ソ連・ロシアは自国領という立場を取ってきている。そのニュースを伝えるとき、日本人職員は、ソ連・ロシア側の立場である「南クリル4島」という言い方をせず、「南クリル4島、いわゆる北方領土」と言い換えていた。そうしなければ日本のリスナーには伝わらなかったからだ。


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『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』 (集英社) 青島顕 著
『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』 (集英社) 青島顕 著
© ダイヤモンド・オンライン
 宮城県美里町に住む主婦の青木郁子さん(72)は「ロシアの声」の熱心なリスナーだった。2011年、東日本大震災のとき、暗闇の中でぼうぜんとしたままラジオをつけ、ダイヤルをモスクワ放送に合わせると、日向寺さんの担当する音楽の時間だった。流れてきたのはアンナ・ゲルマンの「ナジェージダ(希望)」。1970年代のソ連を代表する女性歌手だ。


  希望――それは私にとって、地上のコンパス


  幸運は勇気への報酬


 今どきの歌謡曲とは違うスローテンポな調べに、やさしい歌声が合っていた。日向寺さんは震災で大きな被害が出た日本に心を重ね、少しでも励まそうとこの曲を選んだのだろう。


 青木さんは言う。


「今でも決して忘れられません。この世の全てが終わりなのではないのだと。放送を聞いて、かすかな希望を感じることができました」