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安倍総理の志は死なない!!

中国共産党初の党大会、議論についていけずただ黙り通した毛沢東

(譚 璐美:作家)
 7月1日、中国では「中国共産党創立100周年」の記念式典が、北京の天安門広場で盛大に開催された。習近平・国家主席は演説で、中国共産党は「中華民族の偉大な復興のために、歴史書を光り輝かせる偉大な業績を上げた」、「中国共産党がいなければ、新中国はなく、中華民族の偉大な復興もない」として、「強国」という言葉を何度も口にした。
 中国共産党は目下9500万人の党員数を誇り、世界最大の政治団体に膨れ上がった。しかし、中国共産党は創立当初のことからして、今も謎だらけなのである。
最初の党全国大会、議事内容も判然とせず
 100年前の1921年7月23日頃、上海で第一回中国共産党全国代表大会が開かれた。出席者はわずか13人で、平均年齢は26.4歳。ほぼ半数が現役の大学生だった。出席者はだれも議事録をとっておらず、開催日時も議事内容もあいまい。
 開催日時については、近年、ようやく「7月23日」だったと、ほぼ確定したが、すでに毛沢東が「7月1日を創立記念日にしよう!」と決めた後だったので、この事実は闇に葬られた。
 議事内容についても、出席者たちが後に書いた日記や回想録を見てみても、具体的なことはほとんど忘れてしまい、自己中心的な感情表現ばかりが目立って、はっきりしない。
 また、大会で決めたはずの「共産党綱領」も、未だに発見されていない。後に出席者のひとりだった陳公博が、米国・コロンビア大学の修士論文に英語で書いた「中国共産党綱領」と、第一回代表大会にオブザーバーとして参加したロシア人社会主義者が、本国へ宛てて書いたロシア語の報告書の内容がほぼ一致したことから、「どうやらこれが綱領らしい」と推察しているだけで、心細いことこの上ない。
 しかも、習近平が「歴史書を輝かせる偉大な業績を上げた」という中国共産党は、自分の出自すら忘れてしまったのか、あるいは故意に隠しているためか、創立当時に日本から受けた思想的な影響について、多くを語ろうとしない。
第一回党大会、出席者13人の中に日本留学経験者が4人
 実は、13人のうち、4人までが日本留学中の学生か日本留学経験者だった。東京第一高等学校に在学中の李達(りたつ)、鹿児島第七高等学校を卒業して、京都帝国大学に入学直前の周佛海(しゅうふつかい)、法政大学在学中の董必武(とうひつぶ)、そして暁星中学から東京帝国大学卒業まで14年間日本に滞在し、帰国して3年目の李漢俊(りかんしゅん)の4人である。
 しかも第一回全国代表大会が開かれた場所は、上海のフランス租界の高級住宅街にあった李漢俊の自宅の客間だった。その場所は、今日では「一大跡地」として記念館になり、上海の観光名所になっている。
 日本との縁でいえば、13人の出席者から「おやじ」と慕われた43歳の陳独秀(ちんどくしゅう)は5回も日本に滞在し、北京大学教授の李大釗(りたいしょう)は早稲田大学出身で「長男」と呼ばれ、出席者たちは「弟」を自称するという、さながら陳独秀ファミリーの親子・兄弟関係だった。

© JBpress 提供 陳独秀(写真:akg-images/アフロ)
議論についていけず座っていただけの毛沢東
 第一回代表大会の波乱に満ちた会議の様子は、拙著『中国共産党を作った13人』(新潮新書)をご覧いただきたい。一言だけ付け加えれば、この会議で、今日の中国共産党が言うような、「毛沢東が理路整然と会議をリードした」という事実はない。28歳の毛沢東は社会主義思想をめぐる議論についていけず、ただ黙って座っていたというのが本当のところだ。湖南省の師範学校しか出ていない毛沢東の目には、海外留学で新思想を存分に吸収した者や、北京大学の知識豊富なエリート学生の息巻く姿が、まぶしく映ったのではないだろうか。

© JBpress 提供 青年時代の毛沢東(写真:アフロ)
 当時の状況をかいつまんで説明しよう。
 20世紀初頭、明治維新を成し遂げてアジアで最初の先進国となった日本には、清国からの留学生が引きも切らず、1906年には8000人以上の中国人の若者たちが滞在していた。
 1917年に「ロシア革命」が起こると、日本は「大正デモクラシー」の時代を迎え、欧米諸国から自由主義や無政府主義など各種思想が流入して、欧米の思想書が数多く日本語に翻訳出版された。堺利彦、高畠素之ら社会主義の信奉者はマルクス主義の紹介記事を雑誌に載せ、河上肇の雑誌『社会問題研究』は飛ぶように売れた。中国人留学生たちも新思想に憧れて、中国語に翻訳(あるいは重訳)して中国へ送り、メディアの中心地・上海で次々に出版した。1919年からの4年間に、中国で翻訳出版された日本の図書は、少なくとも120冊にのぼったとされる。
 陳独秀は日本から帰国して雑誌『新青年』を創刊し、新文化運動の火付け役となり、1919年の「五四運動」へと繋がった。陳独秀と李大釗の奮闘によって、中国各地に共産主義グループが生まれたのは、1920年のこと。
党創立の陰に日本の知とソビエトの金

© JBpress 提供 『中国共産党を作った13人』(譚璐美著、新潮新書)
 1921年、陳独秀は李大釗に紹介されて面会したロシア人の社会主義者たちから資金を提供され、その金で、全国の共産主義グループに対して、「旅費と宿泊費を出すから、夏休みを利用して上海へ集まるように」と呼びかけた。「アゴ・アシ付き小旅行」のご招待会議だ。それが中国共産党第一回全国代表大会である。
 つまり、中国共産党が創立した陰には、日本の「知」とソビエト(当時)の「金」が大きな影響を及ぼしていたのである。
 現在の中国は、創立当初のこうした事実を一切公表していない。いや、歴史学者たちが怠慢で知らないわけではない。自由な研究を封じられ、中国共産党が都合よく史実を書き替えているのである。南シナ海の領有権や台湾の中国化を主張する前に、もっと冷静になって自分の出自から見つめ直してみるべきではないか。