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明治日本の近代化は「資源エネルギー戦略」の賜物

明治と昭和の明暗を分けた基幹エネルギー政策
平田 竹男 : 早稲田大学教授/早稲田大学資源戦略研究所所長
2023年06月26日
ウクライナ侵攻以降、国防に対する意識の高まりに伴って、エネルギー安全保障が注目されている。なぜエネルギー安全保障は重要なのか。基幹エネルギー戦略が国家の隆盛にどう関係するのか。
近著『世界資源エネルギー入門:主要国の基本戦略と未来地図』を上梓した、元資源エネルギー庁天然ガス課長で早稲田大学教授の平田竹男氏が、わが国のエネルギー戦略史から基幹エネルギー戦略の重要性を説く。
ペリー来航とエネルギー戦略の関係
日本の歴史において、1853年のペリー来航はよく知られています。ペリーが江戸幕府と結んだ日米和親条約は、1854年に締結されましたが、下田と函館が開港され、日本の鎖国を終わらせた歴史的に重要な条約です。


ペリー来航の背景には、実はエネルギーの確保という目的がありました。ペリーが突きつけてきた3つの要求を見ると、それがわかります。1つ目が、日米間の親睦、貿易の促進、2つ目が、船が遭難して日本に流れ着いた際の船員の生命、財産の保護、3つ目が、アメリカの商船、捕鯨船への石炭、薪、水、食料の補給のために港を開港することです。
捕鯨船への物資を補給するために開港してほしいとのことですが、なぜ鯨だったのでしょうか。このような要求の裏には、アメリカがエネルギーとして鯨油を必要としていたことが関係しています。当時のアメリカは、産業革命が進行して、機械を1日中動かす工場が増えていました。夜間に仕事をするためには、照明用のエネルギーとして鯨油が必要だったということです。さらに、鯨油は機械の潤滑油、ろうそくや石鹸にも使われました。
このように、アメリカは当時から、エネルギー確保のために世界を駆けめぐっていたということがわかります。日本の歴史が大きく変わった事件の背景には、産業革命で成長するアメリカのエネルギー確保というねらいがあったのです。
また、捕鯨船に対して、石炭の補給を要求されたことが、日本のエネルギー戦略に大きな影響を与えます。函館での石炭の補給のため、北海道白糠町釧路炭田で、それまでの露天掘りとは異なる日本初の坑内掘炭鉱が行われ、その後の日本全体の石炭生産拡大のきっかけになりました。このように、ペリー来航は日本のエネルギー戦略にも深く関わっていたのです。
石炭の消費は、江戸時代末期から、筑豊や唐津などで採掘された石炭を使用することから始まっています。さらに、1854年に日米和親条約が締結され、函館での石炭の補給を可能とするために、北海道での炭鉱開発などが行われるようになりました。
明治時代に入ってからは、鉄道が開通したことによって石炭の生産は全国に広がり、上海や香港など海外への輸出も行われました。1888年(明治21年)に200万トンであった石炭の国内生産量は、1902年(明治35年)には1000万トンに達しています。
ちょうどこの時期の1901年に、官営八幡製鉄所の操業が開始され、それ以降、石炭をエネルギー源として、軽工業のみならず製鉄、造船などが発展しました。つまり、石炭を自給できたことが、産業を発展させ、輸出による外貨の獲得にも貢献したのです。このように、日本の近代化は、石炭によって支えられていました。
一般的によく言われている、「日本は資源がない島国だが、勤勉な国民が頑張ったから成功できた」というのは明治においては誤りであり、明治維新以降の日本の近代化は、石炭という基幹エネルギーを自給していたからこそ可能でした。このことは、より広く認識される必要があると思います。
石炭から石油へのエネルギーシフト
1904~1905年の日露戦争において、日本の艦船がロシアのバルチック艦隊を破りましたが、当時の艦船は石炭を動力源に運航されていました。しかし、明治から大正になり、1914~1918年の第1次世界大戦中には、日本の海軍の燃料が石炭から重油にシフトし始めます。
大正初期、秋田や新潟で採れる国内原油の生産量は年間約40万キロリットルであり、国内の需要をまかなえていました。しかし、次第に民間では農業用の発動機、漁船の動力、工場の動力などにも石油が使われるようになり、家庭でも暖房用の石油ストーブ、炊事用の石油コンロなど多くの用途に使われ、自動車も普及し始めます。
これによって、民間の石油消費量は年間55万~60万キロリットルに増加し、国産原油だけではまかないきれなくなり、石油の輸入が開始されました。その結果、1925年からは、輸入が上回るようになってしまいます。その後も近代化を進めるにつれて、原油の輸入量は右肩上がりに増えていきました。
資源について神様というのは実に不平等です。日本の近代化という歴史においては、神様は石炭を日本に与えましたが、石油は与えてくれませんでした。
第2次世界大戦では、戦闘機が使われるようになりましたが、当然のことながら、戦闘機は石炭ではなく、石油が必要となります。石油の確保は不可欠でしたが、大正時代以降、日本は石油の自給ができなくなりました。やがて日本は、石油輸入の90%をアメリカに依存するようになります。
1937年の日華事変を経て、アメリカは、1939年7月には「日米通商航海条約」の破棄を通告し、石油の対日輸出が禁止されます。石油の調達を急ぐ日本は、ドイツに敗れたオランダが宗主国であったインドネシアや、ベトナム南部での石油獲得を試みましたが、1941年、日本に対する石油禁輸が発表されました。
そして太平洋戦争に突入し、1945年に入ると、インドネシアのパレンバンなどの主要占領油田、製油所の石油生産量は空襲により激減します。さらに日本のタンカーが、アメリカ軍の潜水艦に破壊され、石油の輸送能力も激減しました。
日本の海軍が海上護衛総司令部を設立したのは、開戦から2年後の1943年11月ですが、シーレーンの防衛力は欠如していたと考えられます。追い打ちをかけるように、日本本土の空襲でも、石油関係施設が集中的に爆撃されました。
このように、極めて重要な石油の輸入を遠方のアメリカ一国に90%依存し、近くの東南アジアで石油確保ができていなかったことや、そのアメリカと敵対関係になったことが、命取りになったのです。したがって、太平洋戦争は、石油が自給できていないことが決定的な痛手となった戦争、という見方が可能でしょう。
日本は明治から大正、昭和にかけて、石炭から石油へのエネルギー・トランスフォーメーション(EX)に失敗し、飛行機が中心の世界に対応できなかったという事実が残っています。初めて燃料を総合的に総括する商工省燃料局ができたのも遅く、1937年になってからでした。日本は、エネルギー戦略について、世界の趨勢の把握に遅れ、それを先回りして行動をとらなかったために、不幸なことになったとも言えます。
エネルギー戦略では中国が先行
現在の日本も、エネルギーの自給ができていません。アメリカはシェール革命を実現し、エネルギー輸入国から輸出国に転じました。日本同様、エネルギー輸入国の中国は、エネルギー戦略で着実に結果を出しています。アフリカの石油利権確保、中央アジア、ミャンマー、ロシアからのパイプラインによる天然ガスの確保に加え、サウジアラビアとも戦略的パートナーシップを結んでいます。LNG、原子力発電、再生可能エネルギーも加速度的に推進されています。化石燃料や再エネに関しても自国の企業が育っています。
中国に比べると、日本の現状は明るくありません。日本が置かれた北東アジアの国際情勢は、日本のエネルギー戦略を難しいものにしています。ミサイル開発を進める北朝鮮や、ロシア、中国など、日本は友好関係にあるとは言えない国々に周りを囲まれています。
世界から見ると日本は、隣国とつながるパイプラインや送電線がない国で、エネルギー安全保障としては危惧すべきと言わざるをえません。一方で、日本はLNG受入基地と原子力発電所のインフラが充実した国であり、また今後は、再生エネルギーへの投資も増加すると思われます。
日本は、国家の独立、安定を確保しつつ、経済成長と地球温暖化対策を同時達成するという課題をどうクリアしていくのか。極めて難易度の高い日本のエネルギー戦略に世界も大きな関心を寄せています。