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安倍総理の志は死なない!!

【再掲】「脱成長」論が実は「経済成長」を導いてしまう逆説

新自由主義が経済成長にブレーキをかけていた
「令和の新教養」研究会
2021年11月17日
総選挙を与党勝利の形で終えた岸田首相に「新しい資本主義」実現は可能なのだろうか(写真:tadamichi/iStock)
第101代内閣総理大臣に選出された岸田文雄氏。自民党総裁選から総理選出後にかけて、これまでの新自由主義的路線を転換し、「新しい資本主義」の実現を訴えている。総選挙を与党勝利の形で終えた岸田首相に「新しい資本主義」実現は可能なのだろうか。
中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、柴山桂太(京都大学大学院准教授)の気鋭の論客4名が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズに今回は古川雄嗣氏(北海道教育大学旭川校准教授)も参加し、徹底討議。今回は全3回の最終回をお届けする(第1回はこちら、第2回はこちら)。
脱成長派の誤り
中野:岸田総理は小泉政権以来の構造改革路線を転換すると表明しましたが、その代わりに政権のコンセプトとして掲げたのが「新しい資本主義」でした。新しい資本主義とは何かと言うと、成長と分配の好循環を作り出すことだというのが岸田総理の説明です。
これまでも経済成長と分配に関してはさまざまなことが言われてきました。成長が先か分配が先かとか、成長も分配も両方大事だとか、成長と分配は両立できるのかなど、多くの人たちがこの問題をめぐって議論を重ねてきました。
私が見るに、高尚な議論を好むインテリたちはたいてい「脱成長」を掲げ、経済成長に対して懐疑的な姿勢をとっています。彼らはかつてのような経済成長は望めないとか、経済成長そのものを目的とするのはよくないとして、幸福や公正など経済成長以外の価値を大事にすべきだと主張しています。特にリベラル派の中にはこの手の議論を好む人が多いですね。保守派にも脱成長を打ち出している人はいますが、やはり左派が中心だと思います。
また、脱成長派は経済成長に対してだけでなく、新自由主義に対しても批判的です。経済成長もやめるべきだし、構造改革もやめるべきだというわけです。
しかし、これは非常に奇妙な話なんですよ。たとえば、新自由主義者たちは経済成長を実現するために構造改革を実行すべきだと言ってきました。ところが、日本はずっと新自由主義政策をとってきたにもかかわらず、経済は全然成長していません。これは、日本だけではありません。1980年代以降、新自由主義政策を採用した国の成長率は、それ以前と比べて軒並み低くなっています。
何が言いたいかと言うと、経済成長を脱したいのであれば、新自由主義政策を実行すれば手っ取り早いということですよ(笑)。経済成長だけを追求するのはおかしいとか、幸福や公正など金銭的利益以外の価値を大事にする政策をとるべきだといった脱成長論者の議論は、それはそれで正しいと思いますが、しかし、そういう政策をとると、おそらく経済は成長します(笑)。でも、経済成長は彼らの望むところではないわけでしょう。自分たちが目指しているものと逆の結果をもたらす政策を追求してどうするのか。
要するに、新自由主義者も脱成長論者も、どうすれば経済成長するかということを根本的に理解していないということです。そういう意味では彼らは同じ穴のむじななんですよ。経済成長とは何かということをわかったうえで成長を脱するかどうかを議論しないと、話がかみ合いません。それでは議論が混乱するだけです。
佐藤:結局、人間はまだ社会システムを的確に制御する方法を知らないのです。ことさら経済を成長させようとすると、かえって成長しない。ゆえに新自由主義者が経済成長にブレーキをかけ、脱成長論者のほうが正しい発展の方法論を示すことになる。
けれども気になるのは、「成長と分配の好循環」は安倍総理も好んで使ったフレーズだということ。そして安倍総理は、新自由主義から転換するような主張を唱えつつ新自由主義に突き進んだ。「新自由主義からの転換にこだわると、むしろ構造改革が進む」というパラドックスが存在したらどうするか、ですね。
悪いのは丸山眞男
中野:そのとおりです。こうした話は経済成長だけに限りません。
たとえば、自由民主主義とは人々が何の制約もなく自律的に決定することだと見られていますよね。しかし、議会主義や市民社会が何に由来するかと言うと、封建制です。封建制では教会や貴族、あるいは寺社勢力やギルドなど、こうした団体や階級が権力を持っていたので、専制君主が勝手に振る舞うことができませんでした。これが今日の議会制民主主義の根本にあります。
つまり、自由民主主義は前近代的な遺制を残すからこそうまくいくのです。純粋に経済成長を求めることが結果的に経済成長を妨げるように、純粋に民主主義を求めることは結果的に民主主義を阻害することにつながる。制約やしがらみがあってこそ、自由民主主義は成立するんですよ。
施:政治学の世界では、トクヴィルが中間団体がなければ民主主義は成り立たないと言っていますね。教会やギルドなどがこの中間団体にあたります。
中野:そうです。これは政治学や社会学の定説と言っていいと思います。
ところが、戦後の日本では、丸山眞男や桑原武夫など、いわゆる近代主義者たちがこうした議論を逆転させ、日本には前近代的な遺制が残っているから自由民主主義が根付かず、不合理な戦争に突入していったのだなどと言っていました。
その結果、戦後の日本は、前近代的な要素を徹底的に取り除く必要があるとして、中間団体をはじめ、とにかく市民が自発的に選んだもの以外はすべて排除するようになりました。それが加速したのが、平成の構造改革です。これは、特に丸山眞男の影響力が大きかったと思います。
柴山:中間団体が「圧力団体」とのみ捉えられて、それを排除しなきゃダメだという話になったわけですね。
社会契約論自体が、もともと新自由主義的
中野:それが特に顕著だったのがアカデミズムの世界です。私は大学生のときにある憲法学者の授業をとったことがあるのですが、彼は「憲法の役割は個人を丸裸にして国家と対決させることだ」などと言っていました。私はそれを聞いて「ああ、この人は、トクヴィル的な意味における反自由主義者だ」と思い、授業に出るのをやめました。法学部への進学をやめたのもこれがきっかけです。それくらい当時は「個人」が強調されていたのです。こんな教育ばかり受けていれば、新自由主義者が増えるのは当然ですよ。
佐藤:社会契約論自体が、もともと新自由主義的なのです。裸の個人が、国家に帰属することのコストとベネフィットを合理的に計算、コスパがよさそうだから国家の一員になったという発想ですからね。主流派経済学には「合理的経済人」の概念がありますが、近代の政治学は「合理的政治人」を前提にしています。
近代主義、ないし合理主義にこだわるかぎり、憲法とは個人と国家の「手打ち」の条件をまとめた文書でしかありえない。この発想が、新自由主義者として知られたマーガレット・サッチャーの有名な発言「社会など存在しない。個々の男女と家族、それに政府があるだけだ」を思わせるのは偶然ではないでしょう。
とはいえ、合理主義的国家観は間違っています。ヨラム・ハゾニーが『ナショナリズムの美徳』で論じたとおり、裸の個人など存在しません。私たちは家族に帰属し、そこにアイデンティティーの基盤を見いだす。当の基盤は、家族から氏族、部族へと広がり、やがて国家にいたる。国家は手打ちをする相手ではなく、拡大された自分自身、文字どおりのボディー・ポリティック(政治的身体。「統合により一体化した国民」を意味する表現)なのです。
無駄とゆとりを失った大学
古川:中野さんのご指摘は大学改革にもまさに当てはまります。大学改革の目的も結局は経済成長で、特に「イノベーションの創出」ということがしきりに言われます。第1回で触れた菅前首相の「稼げる大学」というのも、それを露骨に表現したものです。
それに対して、主にリベラル派の人たちは「大学を経済成長の道具にするな」と怒っていて、それはそれで正しいのですが、私のスタンスは少し違っていて、むしろ「経済成長したいのなら、まずは大学改革をやめてください」ということを言っています。
イノベーションの問題がわかりやすいと思うのですが、そもそもイノベーションそのものを意図的に起こすことはできません。歴史をみても明らかなように、これは学者たちが自由に研究する中で、偶然起こるものだからです。突然変異で出てきた新しい個体がたまたま環境に適応して大当たりをとるという自然進化のメカニズムとよく似ています。したがって、イノベーションを起こしたいのであれば、かつての日本のように大学に自由に使えるお金を落とし、学者たちに時間的余裕を与えて自由に研究させるのが、実は一番の近道なんですよ。
これは「偶然が生起する余地を意図的に設計する」ということです。ここには「無駄を許容する」ということも含まれるので、いっけん非合理なのですが、実はこちらのほうが、より高次の意味で「合理的」なのです。しかし、改革派はこの逆説がわかっていないので、ひたすら無駄を削ぎ落し、偶然を排除するということを「合理的」と称してやり続けている。その結果、かえってイノベーションが生起する余地をどんどん奪っているわけです。
施:昔の京都大学とか一橋大学などにはイノベーションが起こる余地がありましたよね。大学教員の中には12月に入ったら授業なんかしたことがないと言っているような人たちがたくさんいました。学生が授業に出席していようがいまいが、平気で単位を出していました。いま同じことをやれば厳しく批判されますが、こういう環境の中から優れた学者たちがたくさん出てきたんですよ。もちろんつまらない学者もたくさんいたと思いますが、ゆとりがあったからこそイノベーションが起こったことは間違いありません。
佐藤:発酵と腐敗が同じ現象であるように、ゆとりとはつまり無駄のことです。無駄を排除するところにゆとりはない。だから偶然も入り込めず、イノベーションが起こらない。
大衆文化のイノベーションが起きた理由も中間層の存在
施:大衆文化だってそうでしょう。日本の大衆文化が一番元気だったのは、昭和の終わりごろだと思います。アニメとかアイドルとか、あるいはファッションにしてもそうですが、日本の文化がアジア諸国に広く受け入れられていました。いまも世界的に人気の高いドラえもんやキャプテン翼やポケモンなどは、たいてい昭和の終わりやその影響が残っていた平成の初め頃に出てきたものです。社会が豊かで、お金と時間を比較的自由に使える分厚い中間層が存在したから、勝手にイノベーションが起きたのです。
これはいつの時代にも言えることですね。私は園芸が好きなのですが、日本の江戸時代の園芸文化は世界トップクラスでした。万年青(おもと)という観葉植物がありますが、万年青の愛好者は斑入り(葉っぱの白い斑点や縁取り)の葉っぱを高く評価します。このように斑入りの植物を愛でるようになったのは日本が先駆けだそうです。当時のイギリス人もそのことを認めています。江戸時代の美的感覚は非常に進んでいたのです。なぜかと言えば、江戸の人々は武士も庶民層も世界的に見ても豊かで、時間的余裕があったからですね。武士もあまり仕事がなく、3日に一度くらいお城に通えばよかったと言われています。
中野:「旗本退屈男」なんて言われるくらいですからね(笑)。
施:そのとおりです。まさに退屈した旗本が朝顔を作ったり、仕事のない鉄砲組の侍がツツジを作ったり、あるいは鉄砲鍛冶が花火を作ったりしていたのです。
近年、日本は「クールジャパン」などと言って、政府主導で日本の大衆文化を世界に売り込もうとしていますよね。しかし、日本の大衆文化の元気がなくなってきたのは、クールジャパンを始めたころからですよ。中野さんがよくおっしゃっていますけど、クールジャパンはまさに「寒い日本」です。こんなことをするより、お金と暇のある分厚い中産階級を作ったほうが、よほどイノベーションが起こると思います。
どうすれば経済成長するか
中野:岸田総理が「新しい資本主義」を実現するためには、経済成長とは何か、どうして起きるのかをきちんと押さえる必要がありますね。
柴山:最近では政権が変わるたびに「こうすれば経済成長できる」といった成長戦略が出てきますが、本当に経済成長は政治がコントロールできるものなのか。経済成長が政治の目標に入ってきたのは比較的最近のことです。でも、どうすれば経済成長が起きるのか、経済学でもまだわかっていないことが多いですからね。確実に経済成長する方法がわかっているなら、人類の物質問題は解消しているはずです。
これまで政治がこだわってきたのは、成長ではなく分配でした。成長が実現できるとは限りませんが、分配は政治的に調整可能です。もっと言うと、政治とはそもそも分配闘争です。労働者と資本家の分配もそうですし、業界団体間における分配もそうです。政治は限られた資源を、どういうルールに基づいて分配するかを問題にし続けてきたわけです。
経済学者は、市場原理に基づいて分配が行われると考えますが、それは事態の一面でしかありません。いつの時代だろうと、分配には政治が介入します。労働者や資本家たちがそれぞれ自分たちの取り分を要求し、政治がそれを調整するのです。
この間、日本を含め多くの国では資本家に有利な分配が行われ、社会的弱者や庶民が苦しい立場に置かれてきました。こうした状況を変えることができれば、結果的に経済成長が起こる可能性は十分あると思います。だから政治は経済成長を目標にするのではなく、分配の是正を目標にすべきです。
中野:確かにそうですね。日本では1950年代、60年代に高度成長を実現しました。これは歴史的に見て驚くべきことでしたが、当時の日本は必ずしも経済成長の実現だけを目指していたわけではありません。日本は戦争によって大きな打撃を受け、多くの人たちが日々の生活に苦しみ、貧困にあえいでいました。そのため、政府は貧困をなくし、雇用を確保し、格差を是正しようと努めたのです。貧困が続くと日本が共産化する危険があったので、大衆をなだめる狙いもあったと思います。その結果、日本経済は成長していたのです。
しかしその後、長を目指して改革するようになった途端、日本経済はかえって成長しなくなってしまった。人間は意識的にやればやるほど失敗するということです。
佐藤:経済成長の実現「だけ」を目指していたわけではないとは、微妙にして意味深長ですね。問題は目標設定のさじ加減なのでしょう。
新自由主義を脱却するために不可欠な存在の中間団体
中野:経済成長を目指せば経済が成長するなら、学問なんて必要ないですよ。
佐藤:原理原則を自明のごとく見なし、実践にばかりこだわるのは、現実的な態度のように見えて、根本の問題から逃げているだけのことが多い。だから自滅が待っている。もっとも、政治とは実践だというのも事実ですが。
中野:経済成長を目指しても経済が成長しないというパラドックスがあるからこそ、社会科学や社会哲学が必要にもなるのです。
施:柴山さんのおっしゃるように、分配のあり方を変えるためには農業や業界団体などの存在も重要になります。こうした中間団体は新自由主義を脱却するために不可欠の存在です。
テキサス大学で政治学を教えているマイケル・リンドという人がいますが、彼は新自由主義やグローバリズムから脱却するには、中間団体を再生する必要があると言っています。新自由主義の世の中ではグローバル企業や投資家などの政治的影響力が非常に大きくなる反面、庶民の声が政治に反映されにくくなります。
もともと庶民が政府に意見を届けることは難しく、彼らの声は中間団体を通して政治に反映されていました。しかし、最近では中間団体は「既得権益」「抵抗勢力」だと批判され、力を落としています。そのため、グローバル企業などの影響力がさらに強くなり、庶民の声はますます政治に反映されなくなってしまっています。
中野:中間団体の力が強ければ、一部の人だけが得をするような新自由主義政策はとれません。中間団体の言うことを聞きながら利害調整をしていれば、絶対に新自由主義にはならないのです。グローバル企業や投資家たちはそのことがよくわかっているから、目障りな中間団体を攻撃してきたわけです。中間団体が復活しない限り、新自由主義を食い止めることはできません。
施:岸田総理は自らの特技は「聞く力」があることだと言っています。そうであれば、ぜひ中間団体の話を根気強く聞き、かつての自民党のような調整型の政治に戻してほしいですね。これはリベラル派が一番苦手な分野で、リベラル派にはこういうまねはできません。そういう意味でも岸田総理の責任は重大だと思います。
(構成:中村友哉)