Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

加速主義が生み出す「頭でっかちな認知エリート」

ナショナリズムがインテリたちに不人気な理由
「令和の新教養」研究会
2024年03月15日


エリートたちが「地方」と「子ども」を切り捨てる理由とは(写真:w-ken0510/PIXTA)
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が、このほど上梓された。同書の筆者でもある中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)の各氏が、「社会的な合意形成」と「自由民主主義」について論じた座談会の第2回をお届けする(第1回はこちら、全3回)。
加速主義と認知資本主義
佐藤:現在の世界において、先進国の大部分は自由民主主義を標榜しています。しかし合意形成や意志決定を速くすれば上手くいくと考える「加速主義」が、それらの国々で台頭するに至った。近年はとりわけ、その傾向が顕著です。


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するとまず、自由民主主義の“自由”の部分がムダ、ないし「過剰」に思えてくる。そんなにゆっくり議論していられるかという話です。すると”民主”の部分はどうなるか。誰か代表を選出して、その人に全部一任しましょうという話になる。
こうすれば、確かにスピード感のある民主主義ができあがる。ただしそれは、実質的な独裁政治の容認なのです。
中野:加速主義で全部を説明するつもりはありませんが、例えば少子化は確かに加速主義の影響かなと思っています。子どもを生むのも育てるのも時間がかかる。だから、加速すると一番できないのが子どもだったりするのかなって。
佐藤:それについては、東洋経済から2001年に出した『未来喪失』で書きましたよ。結局、最終的な壁はそこだと。妊娠から出産までの時間は短縮できない。
中野:だから、どんどん「待て」なくなっている。例えば妊娠だって、昔と違って、女性は産後、職場復帰することが多くなった。最低でも2~3カ月は休む必要がある。だけどその短い期間でも、職場で置いていかれるかもしれないって心配するほど、世の中のスピードが速くなっている。子どもの成長や、議論に必要な時間なんかを考えると、人間の生理的なペースと、今の社会のペースが合ってない気がする。「認知資本主義」という言葉を聞いたことがありますが、確かに、認知能力だけが速くなっているけれど、それ以外の部分ではついていけなくて、それが色々な問題を引き起こしている可能性がある。
でも、妊娠の10カ月なんか典型ですけど、絶対解決できないこともある。これはもしかしたら、19世紀ぐらいから始まっていたのかもしれない。産業化が進んで本来の人間らしさから遠ざかっていて、農業をしていた頃のゆったりした時間感覚が失われてきているという話です。
中野:だから、とある元県知事のように「過疎地から移住しろ」と言う人間もいますが、しかし地方のほうが時間がゆったり流れているから、人間的にはいいかもしれない。このように、今の時間感覚の問題って、実はかなり深刻かもしれないなという気がしました。
認知エリートが社会のバランスを崩す
佐藤:過疎地のインフラ復興はコスパが悪い、だから被災者には移住してもらおうというのは、『新自由主義と脱成長をもうやめる』で施さんが取り上げた「エニウェア族」の物の考え方ときれいに重なります。
エニウェア族とは、自分はどこででも暮らしてゆけると思っている高学歴層を指す言葉ですが、被災者移住論はまさにこれ。住み慣れたところを捨てて、見知らぬ土地に移住しても問題は起こらないと構えるわけですからね。特定の地域に根を下ろして生きる人々、いわゆる「サムウェア族」とは発想の根本が違う。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)
施:エニウェア族、サムウェア族の区分を作ったのはイギリスのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハートという人ですけれども、彼は少し前に『頭 手 心』という本も書いています。そこでは、現代の世の中というのが、まさにエニウェア族的な認知的エリート、つまり学歴が高くて専門職に就いてる人たちが過度に社会的影響力を持っている一方、手を使う仕事――つまり製造業や農業などの仕事――や、心を使うケアの仕事の人々の社会的影響力は小さく、全体的なバランスが崩れていると指摘しています。頭でっかちな認知的エリートの声ばかりが大きくなって、それが時間感覚にも関係しているのかと感じます。
認知的エリートの仕事は、依然と比べ、確かにどんどん速くなっている。昔はメールすらなかったですが、学生など若い世代とやり取りしているとメールすらまどろっこしいという者が多いですね。既読が付かず不安になるので、せめてLINEを使ってくれ、みたいな感じなんです。
池波正太郎の時代小説などを読んでいると、江戸時代は、人と会うためだけに宿に1週間ほど泊まり込んで、その人と連絡が取れるのを待つ描写がよくあります。その後は、手紙、電話、メールなどで連絡を取るようになりましたが、今ではLINEでも即座に反応がないと苛立ってしまう。
社会のバランスがやはり崩れ始めていると思います。認知的エリートだけでやっていければ、それでもいいのかもしれませんが、そういう人は社会の多数派ではありません。彼らの存在自体が、いろいろなそれ以外の人々、例えば農業などに支えられています。認知的エリートだけが強くなってしまった社会はかなりバランスが悪く、もろい感じがします。
施:ある元県知事のような話も、最近は多いですよね。九州でも災害でローカル線が寸断されると、「もう復旧するのはやめよう」というのが普通になってきています。
古川:北海道は完全にそうですよ。むしろ本当はずっと廃線にしたいと思っていたところに、都合よく災害が起こってくれたから、これ幸いと放置している感じがしますね。
施:ですよね。水道民営化でも今後はおそらくそうなるでしょう。水道管が破裂したら、「もう水道管直すのやめようぜ。田舎は捨ててコンパクトシティにしようぜ」みたいな感じで。
人間が頭でっかちになってしまったのと同じで、社会も、大都市だけがある程度栄えて、それ以外は荒野が漠々と広がる、みたいな感じになりそうですね。
迅速化のあげくオカルトに走る「覚醒存在」
中野:認知エリートって、本当に問題だらけだと思うんですよ。まず、彼らって頭がいいと思いがちだけど、実はそうでもないんです。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)
なぜなら、彼らはデジタルの0と1で処理速度を上げたがるんですけど、それって結局、複雑なことを考えずに、単純化して考えるほうが速いってこと。だから、官僚主義的になっちゃうんですよ。マックス・ウェーバーが言ったように、官僚制は問題を型にはめて処理するわけですから、事務処理スピードは迅速ですが、結局は定型的な思考になって、複雑な議論からは逃げてしまう。だから、頭は大きいけど、中身は空っぽ、ってことになるんです。
もう一つの問題は、認知エリートというのは、シュペングラーの用語で言えば「覚醒存在」と言って、頭でっかちでバランスが悪い。農業などをやって地に足がついている「現存在」とは違う。だから、シュペングラーによると、「覚醒存在」は、そのバランスを取るために、格闘技などのスポーツに夢中になるらしいです。シリコンバレーの連中みたいに、オカルトやオーガニック、民間療法にハマる傾向もあるが、それも同じことかもしれない。なんか、認知エリートの世界だけでは満足できなくて、超合理主義から一転、超自然的なものに走るんですよ(笑)。
佐藤:これは『新自由主義と脱成長をもうやめる』でアメリカを例に挙げて論じたことですが、近代の根底にあるのは「現実は自分の主観的認識に応じて、いくらでも作り変えることができるはずだ」という信念なんですよ。
社会や国家を巨大な人体に見立てる「ボディ・ポリティック」の概念を踏まえて言えば、現在の社会は脳と神経だけが異常に過敏になって、残りの肉体が壊死しはじめている状態だと思います。反射的な情報処理は素早いが、だからこそすべてに実体がない。その空虚感を埋め合わせるべく、スポーツやオカルトにハマるのでしょう。
中野:そう、反射的になっているんです。
佐藤:「覚醒存在」という表現自体、じつは非常に面白い。英語では覚醒剤を「スピード」と呼ぶんです。服用すると脳神経系が活性化して、しばらくの間は寝る必要もない。その代わり、体はボロボロになる。
中野:「現存在」がおかしくなってるんですよね。認知エリートが増えることは、シュペングラーに言わせれば、それこそ「文明の没落」そのもの。
近代文明をめぐる神話が崩壊した20世紀
佐藤:ただし認知エリートの知的空洞化が進んだのには、テクノロジーの進歩による世界全体の加速化とは別の要因もあると思います。つまり「近代文明は世界を豊かで幸せにする」という神話の崩壊。


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 
第1回の座談会で、消費税の導入には10年かかったという話をしましたが、じつはこの導入論議、「戦後批判の神話」とも言うべきものに支えられていました。敗戦以来、わが国は新しい国づくりを目指したわけですが、高度成長の終焉でまた挫折した。そこで「今までの福祉国家路線は間違っていた。新自由主義的な改革を推進すれば社会に活力が戻り、さらなる繁栄が達成される」という神話が生まれたのです。
こうして「財政再建と格差容認」の方向性が打ち出される。しかるに格差を容認するのなら、累進性のある税を引き下げて、逆進性のある税で置き換えるのが望ましい。消費税が導入されたのも道理ではありませんか。
消費税の神話的背景については、2021年に刊行した『感染の令和』(KKベストセラーズ)や、オンライン講座『日本を救う主権への回帰』(経営科学出版)でじっくり論じたので、詳細はそちらをご覧いただきたいのですが、さすがに平成も後半になると、「新自由主義的改革による繁栄」という神話が崩壊を始めた。ところが今回は、それに代わる新たな神話が出てこない。
となれば現実を否認して「物事はうまく行っている、成果はちゃんと上がっている」と言い張りたくなるのが人情。しかしこれでは、自由な議論などできるはずがない。だから意見をすり合わせるふりだけして、意固地に突き進むのが政権運営の処世術となった。すべては必然の帰結という次第です。
世界的に見ても、20世紀は近代文明をめぐる神話が崩れだした時代でした。「ヒトラーには英雄の晴れやかさがない。ヒトラーは20世紀そのもののように暗い」と言ったのは三島由紀夫ですが、われわれは当の暗さをどうにもできないまま21世紀に入り込んでいる。それでテクノロジーのレベルだけ上がっていったら、認知エリートもおかしくなりますよ。
中野:シリコンバレーの認知エリートの影響で政治がめちゃくちゃになっていくという話で言うと、アメリカは大統領選を、トランプという認知が歪んでいる高齢者と、バイデンという認知の問題が疑われている高齢者とで争っているわけですよ。認知資本主義の行き着く先が、認知に問題がある大統領候補二人の争いという(笑)。
佐藤:ただしどちらが勝っても、アメリカの覇権衰退を引き受けねばならないのは同じ。となると政策の根本も、選挙結果によらず大きくは変わらないのではないか。
中野:だから、合意形成はなされているのですよ。
佐藤:「近代の没落」という20世紀以降の流れを止められず、文明の処理速度だけを上げてきたツケが、いよいよ回ってきたわけですね。
認知資本主義の究極は「肉体の否定」だ
中野:そういう意味では、認知エリート、覚醒存在の側ではなく、現存在、つまり大地のほうから大きな反発が来るような感じがするんですよね。
佐藤:『感染の令和』で書きましたが、コロナのパンデミックはまさにそれです。地球の生態系が、各国のボディ・ポリティックを病んだものにすることで、近代文明の暴走を抑え込みにかかった、そう解釈するとじつによくわかる。
中野:なるほど、そうだ! 気候変動も認知資本主義ではどうにもならない問題ですよ。現在、エネルギーや食料、原材料、労働力が希少化してインフレになっています。認知資本主義では、物質的なものの不足の問題は過去のものと見なしがちですが、実際はそうではない。メタバースで儲けよう的な話が出てきますが、メタバース以前に、ユニバースの基本的なニーズが満たされなくなっている。ウクライナの戦争では大砲を撃っているとか、塹壕を掘っている。アメリカではトランプが再び台頭するかもしれない。21世紀の認知資本主義が夢見ていたものと完全に逆のことが起きている。
佐藤:認知資本主義の究極の目標は、ずばり肉体の否定です。『2001年宇宙の旅』の共作者、アーサー・C・クラークが名言を吐いていますよ。いわく、「知的存在として見た場合、人間はまだ低レベルだが、生物としての進化はあらかた終わっている。真の知的存在は肉体の有限性を克服しているはずであり、すなわち『生き物』ではない」。
中野:AIだ。
佐藤:いや、機械化された知性でもせいぜい中間形態。真のゴールは、物理的な制約を完全に超越して、不滅の意識となることです。
20世紀前半のフランスを代表する劇作家ジャン・ジロドゥも、「人間とは、ずばり人間を超えようとする試みである」と書きました。で、台詞はこう続きます。「この試みの目的は、けがれた世界から人間を隔離することだ。それを達成する手段は二つ、名づけて政治と義務教育」。これこそ近代の本質です。
中野:でも、モラルってそういうもんですよ。モラルは「である」を超えようとして「すべきである」を目指すわけだから、モラルを持つということ自体が、ある意味、人間が人間を超えようとしてるわけで、それが本質ですよね。
インテリやエリートに不人気なナショナリズム
施:少し前から、「トランスヒューマニティ」という話題が一部で盛り上がっていますよね。ときどき、富裕層が自分の意識を何かデジタルな形で保存しようとしているなどという話も聞きます。意識をチップに移して、身体がダメになっても意識は残るみたいなことを考えているわけです。または、身体が老いたら機械の部品で置き換えようとか。まるで「銀河鉄道999」に出てくる機械伯爵のような話ですね。技術的には、そういうことも不可能ではなくなってきているようです。
こういう動きをみても、身体や自然をコントロール下に置こうとする考えが強まっているのは確かだと思うんですよね。頭でっかちな認知的エリートが、身体や自然を価値が低いものと見て、合理的にコントロールしたいって考えているのかもしれません。これが啓蒙主義の行き着く先であるっていうのは当然だと思います。啓蒙主義的なインテリや認知的エリートは、そういう意識的にコントロールし難いものは、文化や伝統なども含め、あまり好まないのです。
でも、いわゆる保守思想というのは、「認知だけでは足りない」「頭でっかちではいけない」という点を強調する必要があります。
保守は、意識や認知が身体的なものや自然に根差していると、当たり前ですが考えます。人間の半ば無意識の心の領域や文化も重視します。個々人の認知や意識の基礎には半ば無意識のものや身体的なものがあります。同様に社会の基礎には、文化や伝統など多数の人々が何世代にもわたって半ば無意識に作り上げてきたものが存在しています。
だから、ナショナリズムに関するものも、インテリや認知エリートには不人気なんでしょうね。なぜかと言ったら、ナショナリズムは、その半ば無意識の領域から生まれ出てくる人間の絆とか、社会のある種のまとまりとか、「社会のここからここまでは一つのネーションなんだよ」っていうような境界設定を含んでいますからね。
佐藤:「ネーション」の語源は、いみじくも「出産」ですからね。しかし戦後日本の保守は、本当にナショナルなものを守ろうとしているか。一部の例外的な人々を別にすれば、アメリカとの一体化を目指す方向に行ってしまったのが実態でしょう。そのせいもあって、サムウェア族、つまり大衆に語りかけることもやめてしまった印象を受けます。
中野:でも、大衆に語りかけるって言ったって、日本で保守と呼ばれる人たちの中には、最近SNSか何かの影響で、認知が完全に陰謀論で歪んでいる連中がいる。
佐藤:陰謀論というのは、現実認識における「幻肢」のようなものだと思いますね。幻肢とは、病気や事故で四肢を切断した人などが、ないはずの手足があるように感じること。帰属すべき共同体、ボディ・ポリティックを喪失した者は、何らかの悪の勢力が自分から共同体を奪ったと錯覚することで、欠落感を埋め合わせているのではないか。
ここで想起されるのが、今や各国の国家目標は「どこでもないどこか」から来るという、第1回の座談会で出た話です。グローバル企業のオーナーといえども、どこかの国に属しているはずなのですが、実際には「すべての国の外側」にいるとしか思えない。すなわち彼らは、存在しえない場所にいるのです。となれば、陰謀論が一定のリアリティを持ってしまうのも仕方ないことでしょう。
「総駆り立て体制」とニヒリズム
古川:哲学者のハイデッガーが言った「総駆り立て体制」のようなものですね。


古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)
佐伯啓思先生も『近代の虚妄』で論じていられますが、簡単に言えば、効率性や合理性の観念そのものが究極の目標として立てられ、それに向かってあらゆる人やモノが無限に駆り立てられるという、近代の状況です。「何のため」の効率性や合理性なのかが、もはや問われないという点で、まさにニヒリズムそのものです。ですから、現象的には、グローバル企業やそれと結託した政府が、人やモノを駆り立てているわけですが、実は彼ら自身もまた、効率性や合理性といった観念そのものに駆り立てられているとも言える。あらゆるものが、いわばどこにも存在しない「無のもの」に駆り立てられているわけです。
社会の加速化もそうですよね。価値が失われた世界において、「より速く」ということ自体が、疑似的な価値として盲目的に追求されているということです。「どうしてそんなに速くなくちゃいけないんですか」と問うても、「だって速いほうがいいに決まっているじゃないか」と。
例えばリニア新幹線なんかも、その典型だと思うんですよね。たった数十分速くするために7兆円もの開発費用をかけているそうですが、その一方で北海道にはいまだに新幹線が走っていません。これは本州で言えば東京~名古屋や京都~広島に新幹線が走っていないのと同じですから、北海道が発展から取り残されるのは当然なんです。やっと函館から札幌まで延伸されるのが2030年度の予定で、札幌以東・以北については議論にさえなりません。
かつて田中角栄が構想したように、北海道の全域にまで新幹線を延伸すれば、はるかに国土全体の豊かさや強靭さに資するはずです。なのに、まったく眼中にない。国土の豊かさや強靭さといったナショナルな価値が見失われ、ただ抽象的な「より速く」ということだけが疑似的な価値になってしまっているようにしか見えないですね。