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コロナが明らかにした世界経済システムの大問題 「ネオリベラリズムによる秩序」は終わるのか

かつてない規模で世界の政治・経済を震撼させたコロナ・パンデミック。各国の政府や金融機関は、この未曾有の危機に対してどのように闘ったのか? コロナ禍が明らかにした、グローバル化した世界の脆弱性とは?


今回、世界が注目する気鋭の経済史家で、コンロビア大学歴史学部教授のアダム・トゥーズが、パンデミックに直面した世界の政治・経済・金融システムを読み解いた、『世界はコロナとどう闘ったのか? パンデミック経済危機』より、一部抜粋・編集してお届けする。
起きて当たり前だったリスク
 2020年初めに「SARS-CoV-2」と名づけられた新型コロナウイルスは、「ブラックスワン(黒い白鳥)」ではなかった。予想不可能で起こりえない出来事ではなかった。「グレーリノ(灰色のサイ)」だった。つまり、起きて当たり前とみなされていたにもかかわらず、軽視されがちなリスクだったのだ。
 そして、ついに物陰からその姿を現した時、グレーリノの新型コロナウイルスは大惨事の始まりを告げているように見えた。
 ウイルス学者が予測していたとおり、強い伝染力を持つインフルエンザに似た感染症だった。発生源になると危惧されていた場所のひとつで発生した。東アジアのあちこちに広がる、野生生物と農業と都市人口とが高い密度で交わる地域である。
 そして予想どおり、交通や運輸のグローバルチャネルを通じて世界中に広まった。率直に言って、ついにその時が来たのだ。
 経済分野の「チャイナショック」については、活発な議論が交わされてきた――2000年代初めのグローバリゼーションの高まりと、中国からの輸出の急増は、西洋の労働市場に大きな影響を与えた。
 新型コロナウイルスは、猛烈な勢いで襲った「チャイナショック」だった。シルクロードの時代、感染症はユーラシア大陸を東から西へと移動した。隊商が交易路を行き交う速度は遅く、感染の拡がりには限度があった。大航海の時代になると、感染者は旅の途中で命を落とした。
 2020年、新型コロナウイルスは航空機や高速列車とともに世界中に拡散した。
 2020年の中国湖北省武漢市は、出稼ぎ労働者をたくさん抱える裕福な大都市である。春節(旧正月)を祝うために、住民の半数が武漢をあとにした。新型コロナウイルスが武漢から中国全土に、さらに世界へと広まるまでにほんの数週間しかかからなかった。
 その1年後、世界は揺れていた。現代の資本主義の歴史のなかで、世界の95%近くの国において、ひとり当たりのGDPが一斉に縮小する事態は、2020年前半を除いてこれまでになかった。
混乱する日常生活
 世界中で30億を超える成人が一時解雇を言い渡されるか、慣れない在宅勤務を命じられた。16億人近い子どもたちが学校閉鎖に見舞われた。
 家庭生活は前例のない混乱に陥った。世界銀行の試算によれば、現在、生徒である世代が、人的資本の放棄によって失う生涯賃金は10兆ドルに及ぶという。
 世界がシャットダウンを望んだという点で、今回の事態はこれまでの景気後退とはまったく性質を異にした。誰が、どこで、どのような条件の下でシャットダウンの意思決定を行ったのか。それを描き出すことは、本書の極めて重要な責務である。
 シャットダウンによる混乱は、GDPや貿易、失業者の統計に表れる数字をはるかに上まわった。ほとんどの人にとって、日常生活がこれほど搔き乱された経験は初めてだった。
 ストレスや抑うつ、精神的な苦痛に悩まされた。2020年も終わる頃には、新型コロナウイルス感染症に関する専門的調査の大部分は、混乱が精神衛生に及ぼした影響について調査していた。
 2020年にどんな体験をしたのかは、住んでいる場所や国籍によって異なった。アメリカと英国にとっては、単に公衆衛生上の緊急事態か深刻な景気後退に見舞われただけではなかった。
 「トランプ」と「ブレグジット」という言葉に集約される国家危機の高まりにも、対処しなければならなかったのだ。
 かつて世界の覇権を握り、公衆衛生の分野で世界のお手本だったはずのふたつの国が、なぜ今回の感染症対策であれほど手痛い失敗をしてしまったのか。なにかもっと深い問題を反映しているに違いない。
 ふたつの国に共通する、ネオリベラリズム(新自由主義)に対する信奉だろうか。あるいは、この数十年にわたる衰退がついに来るところまで来たというわけか。それとも、偏狭な政治文化の表れなのか。
大規模な財政・金融政策
 コロナ危機の経済政策は、2008年の世界金融危機の体験を手本とした。今回の財政政策は2008年の財政政策の規模を凌ぎ、対応も早かった。
 中央銀行の介入には、さらに目を見張るものがあった。もしそのふたつを、つまり財政政策と金融政策とを緊密に結びつけるならば、かつて急進的なケインズ学派が提唱し、新たに「現代貨幣理論(MMT)」のようなドクトリンによって、ファッショナブルに甦った経済理論の基本的な考えの正しさを裏づけていた。
 家計と違って、国家財政には制限がない。もし紙幣を刷る主権国が、資金調達の計画を技術的な問題にすぎないとみなす時、それ自体が政治的な選択である。
 第2次世界大戦中に、ケインズもこう答えている。「われわれが実際に行えることは、なんでもわれわれには買うことができます」。
 本当に難しいのは――真の政治的な問題は――私たちがなにをしたいのかについて同意し、それを成し遂げる方法を見つけ出すことだった。
 2020年に経済政策の実験に取り組んだのは、裕福な国だけではなかった。
 連邦準備制度理事会(FRB)が解き放った莫大なドルのおかげとはいえ、あちこちの新興市場国の政府は、グローバルな資本移動の激動で培った数十年の経験を活かし、優れたイニシアティブを発揮してコロナ危機に対応した。
 グローバルな金融統合のリスクをヘッジできる、金融政策のツールキットを活用したのだ。
 中国がウイルスの封じ込めに成功したことから、2008年と違って、中国の経済政策は皮肉にもかなり保守的に見えてしまった。
 メキシコやインドでは、感染症がまたたく間に蔓延したにもかかわらず、政府が大規模な経済政策を行わなかったために、ひどく時代遅れに見えた。
 左派とされるメキシコのロペス・オブラドール政権が、2020年に大規模な財政赤字を出さなかった――充分な財政出動を行わなかった――ことを理由に、IMFに非難されるという話題を振りまいた。
 転換期を迎えた、という感覚は避けようもなかった。1980年代以降、経済政策の主流を占めてきた正統派の学説がついに終焉を迎えるのだろうか。それは、ネオリベラリズムの終焉の前兆だろうか。
 おそらく政府の一貫したイデオロギーとしては、終わりを迎えるのだ。「経済活動の自然な限界は無視できる」、あるいは「市場の規制に委ねられる」という考えは、現実にそぐわなかった。
 「あらゆる社会的、経済的ショックに応じて市場は自主規制する」という考えも、同じく非現実的だった。
膨張を続ける金融市場
 2008年の時よりも緊急に、生き残りを懸けた介入が決まった。第2次世界大戦以来の莫大な規模だった。
 教条主義的なエコノミストは息がとまりかけた。だが、大規模な介入自体は驚くことではない。
 経済政策を熟知している正統派はいつも、現実と乖離していたからだ。権力の実践において、ネオリベラリズムはつねに急進的なほど実際的だった。ネオリベラリズムの真の歴史は、資本蓄積を目的とした国家による介入の歴史であり、彼らは時に国家的暴力に強く訴えて反対勢力を強制的に排除した。
 ドクトリンがどんな紆余曲折を経ようと、1970年代以降、市場革命と密接な関係にあった社会的現実――政治や法、メディア、そして労働者の権利剝奪に富が強く影響を及ぼす現象――は続いた。
 ネオリベラルによる秩序の堤防を決壊させていた歴史的な力とは、なんだったのか。本書が探っていくのは、階級闘争復活の物語ではない。急進的な大衆迎合主義者による異議申し立ての物語でもない。被害をもたらしたのは、頓着のない成長が解き放った感染症と、金融の蓄積がまわし続ける巨大なフライホイール(弾み車)だった。
(翻訳:江口泰子)