Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

岸田政権が1兆円支援のリスキリング、学ぶべきはDX事情ではなく「文系数学」

野口悠紀雄


政府のリスキング支援策
セミナー業者への補助策に終わる?

 リスキリング(学び直し)が重要だと、さまざまな所で言われている。
 岸田文雄首相も、所信表明演説で日本経済の活性化のための「人への投資」の一環としてリスキリングの支援に、今後5年間でで1兆円を投じるとし、このほどまとめられた総合経済対策にも支援策が盛り込まれた。
 学び直しは大変良いことだ。日本の経済がここまで弱くなった最大の理由は、人的能力の劣化にあるからだ。世界が大きく変わっているので、新しいスキルを身に付けなければ、生き残ることは難しい。
 最近では、DX(トランスインフォーメーション)の最新事情などをテーマにしたリスキリングのためのオンラインセミナーが多数提供されている。そして、政府や自治体による補助制度が幾つも作られている。
 企業がこうした補助金を受け、社員にセミナー受講させるという動きが広がるだろう。
 ただそれによって、社員の知識は広がるかもしれないが、社員のスキルが向上する保障はない。結局は、オンラインセミナー事業者への補助だけで終わってしまうことにはならないだろうか?
何を学べばよいのか?
物事を評価する体系を身に付ける

 リスキングで重要な問題は、何を学べばよいのかということであり、これが1番難しい問題だ。
 文字通り、スキルを高めることが考えなければならない。単に知識を広げ、物知りになるだけではだめだ。
 そして、提供されているオンラインのセミナーのメニューの中から受動的に選ぶのではなく、一人一人がどういうスキルが必要かを能動的に判断することが必要だ。
 仕事についた後の再教育では、学校での教育のように標準的なカリキュラムはない。誰にとっても同じような内容を学べばよいわけではないからだ。
 時と共に学ぶべき内容が変わるし、現在の水準は人によって異なる。だから目標としてどれだけの水準を目指し、そこにたどり着くのにどれだけの勉強が必要かは人によって違う。
 スマートフォンなどのIT機器の使用に習熟することが必要な人たちもいるだろう。ただ、こうしたレベルで十分であるわけでは決してない。
 さまざまな変化に対応できる基礎的な知識を身に付けることが重要だと考える人が多い。
 では、データサイエンスの最先端で何が行われているか、最先端のAIが何をやっているか、などについての知識が必要なのだろうか?
 企業のリスキリング教育では、そうしたことの講座を選択している場合が多いように見受けられる。
 確かに、いま最先端で何が起っているかを知るのはよいことだ。しかし、それを知ったところで、自分が同じことをできるわけではない。
 では、機械学習やディープラーニングの手法を学ぶ必要があるか?しかし最初からそれを目指すのも難しいだろう。
 このように、カリキュラムの選択は難しい。
 いま何が起きているかの知識は、新聞や雑誌、あるいはウエブを見ていれば分かる。
 問題は、毎日大量に生じるニュースをどのように重要なものとして位置づけ、それをどのように自分の仕事に反映させていくかだ。
 そのためには、物事を評価する考え方を獲得する必要がある。つまり重要なのは、事実を学ぶことよりも、それらを評価できる体系を身に付けることだ。
統計学などの「文系数学」は
重要性を識別する最強の道具

 こうした観点からいうと、日本の多くの人にとっては必要なのは数学の基礎的な訓練だと私は思う。
 いろいろなことを知って教養を広げるより、物事の重要性を識別できるスキルや道具の方が重要だ。そうした道具として最強力のものは数学だ。
 日本では、数学は理工系の仕事に就くためには必要だが、それ以外の分野では必要ないと考えている人が多い。よく「私は文系だから、数学は必要ない」という言い訳を聞く。
 しかしこれは間違いだ。
 文系の仕事であっても数学が必要だ。ただ、必要とされる数学が理系の数学とは違うというだけのことだ。
 私は、「文系数学」というものがあると思う。そして、日本ではこの教育が著しく欠けていると思う。
 理工系(とくに物理学系統)で必要とされる数学は、微分積分学を中心とした数学(解析学)だ。これに対して、文系の仕事で必要なのは線形代数学と統計学だ。
 これらは、データサイエンスやファイナンス理論を学ぶには、どうしても必要なものだ。この訓練が足りないことが、日本がデータサイエンスやファイナンス分野で遅れをとる大きな原因だと私は考えている
地中海交易の基礎に「危険分散の理論」
欧州を中世社会から脱却させた

 例えば、「分散」(variance)という概念は統計学の基礎的な概念の1つだが、それが理解できていない人が多い。
 大学のファイナンス研究科の面接入試で、「分散は何か?」という質問に正しく答えられる受験生は3分の1しか程度しかいないのに愕然としたことがある。
 分散を知らないでファイナンスの勉強しようとするのは、無謀としか言いようがない。だから、平均収益率だけを見て金融資産の優劣を判断するような誤りに陥る。
 実は、私自身がそれと似た誤りに陥っていたことがある。
 危険分散(risk diversification)がなぜ重要かが、理解できなかったのだ。
 中世の世界で、地中海の航海は冒険航海だった。現代の用語で言えば、「ハイリスク・ハイリターン」だった。
 しかし、彼らは決して無謀な航海を行ったわけではない。リスクに対処したのだ。
 それが保険の仕組みであり、株式会社の仕組みだ。その基礎にあるのが危険分散の理論だ。
 シェイクスピアの『ベニスの商人』で、アントニオは、自分の船を世界のさまざまな港に分散している。これによって危険分散を図っている。
 ベニスの商人の物語を、私は大学生の時に知っていたが、なぜ分散がよいことなのかを、明確には理解していなかった。工学部の数学は解析学が中心で、統計学はごくおざなりにしか勉強しなかったからだ。
 危険分散の本当の意味を理解できたのは、ずっと後になってファイナンス理論を勉強してからのことだ。
 そして、中世のイタリアで発達した危険分散の理論が、貿易による異なる世界との交流による技術や知識拡大、市民社会形成につながり、ヨーロッパを中世から脱却させたことを知って感激した。
 これは、「文系数学」がいかに強力であるかを示す例だ。
統計学の基礎知識、日常の仕事で
活用できれば大きく変わる

 ところが、日本人にはこの類の発想をできない人が多い。
 例えば、食糧危機に対処するも最も重要な方策は供給源を世界に分散することだ。
 しかし、日本では、全く逆に、国内自給率を高めることが必要だと考えられている。
 あるいは、金融資産を期待収益率だけで評価しようとする。そして、リスクを無視する。
 危険分散の理論は、中世のイタリアで既に知られていたことであり、現代の最先端理論ではない。しかし、その理論を知り、それを実際の仕事に活用できることは、現代の世界でも間違いなく最も強力なスキルだ。
 これを学ぶのに、オンラインセミナーを受講する必要はない。独学すればよい。
 私は日本企業の全員が、統計学の基礎知識を身につけ、それを日常の仕事で活用するだけで日本は大きく変わると思う。
 それは、社員がオンラインセミナーでDXの最新事情を知るよりはずっと重要なことだ。
(一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)