Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

ネコウヨ戦記 安倍総理と駆けた10年 094


安倍総理が暗殺されて1年間、ネット民として投票率の問題に正面から向き合ってこなかったという点を反省している。
思えば、失職の可能性こそ自浄作用の始まりである。労働者においては減給・解雇の危険、企業においては減益・倒産の危険があるからこそ、立ち直りのきっかけとなるのである。
したがって、まずは政治家に落選の恐怖を植え付けることから始めるべきであったのだろう。そして、官僚にはコントロールできる政治家が落選するというプレッシャーを与えるべきである。


安倍総理の暗殺=日本国民を敵に回す!!


この図式を敵に示すことができなかったこと、慙愧の念に堪えない。


#落選しろメガネ



私はネコである。名前はもうない。


【94】英語教育で「植民地化」される日本


From 施光恒(せ・てるひさ)@九州大学


おっはようございまーす(^_^)/


数日前に、こんな記事がありました。
「さいたま 小1から英語 政令市で初、正式教科に」(『東京新聞』2015年1月31日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015013102000135.html


さいたま市は、市立小学校で英語を小学校一年生から正式教科にすると発表しました。今年の四月からモデル校数校で先行実施し、二〇一六年度には市内の全百三校に導入するそうです。


上記の記事中でも触れられていますが、岐阜市はもっと力を入れていて、今年4月から市内全校で小学校一年生から英語を正式教科とする予定です。


あいかわらずの英語偏重教育だと半ば感心します…。
ヘ(´_`;)ヘトホホ…


ちなみに東京都は、公設の「英語村」を作る予定です。


「東京都が「英語村」開設へ 中高生向け、来春にも検討委」(『日本経済新聞』2014年12月22日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO81184200S4A221C1CR8000/


政府も負けてはおらず、「クールジャパン」の一環として、日本国内にもかかわらず英語を公用語とする「英語特区」を作るという話が昨夏、出てきました。


「「英語特区」創設を提言 クールジャパン有識者会議」(『産経新聞』2014年8月26日付)
http://www.sankei.com/economy/news/140826/ecn1408260011-n1.html


政府肝いりの「クールジャパンムーブメント推進会議」なる有識者会議は、オドロキの提案を行っています。日本人が自分たちの税金でわざわざ英語「租界」を作ってやろうというとても「クールな」(お寒い)提案です。外資は喜ぶでしょうけど。


例えば、「特区内では公共の場での会話は英語のみに限定する」、「視聴できるテレビ番組は(英語の)副音声放送がある番組とする」、「販売される書籍・新聞は英語媒体とする」、「特区内で事業活動する企業が、社内共通語の英語化や社員の英語能力向上に資する活動を積極的に展開する等の一定条件を満たした場合、税制上の優遇措置を図る」などです。
( ゜д゜)マサカマジデイッテルンスカ…


このような最近の英語偏重教育の流行について、私が最も懸念するのは、子どもたちが母語である日本語や日本文化を、英語や英語文化よりも、価値の低い、劣ったものだと考えてしまうのではないかという点です。


さいたま市や岐阜市だけでなく、数年後には日本中の小学校で英語を正式教科として教えるようになります。当然ながら、私立中学の入試では英語が課せられるでしょう。教育熱心な家庭では、子どもの英語圏への短期留学なども流行ります。


中学・高校の英語の時間では、原則的に日本語禁止の「オール・イングリッシュ」の方針がとられます。(これについては下記の過去記事もご覧ください)。
(【施 光恒】「「オール・イングリッシュ」の愚」『三橋貴明の新日本経済新聞』2014年5月2日配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/05/02/se-37/


大学でも、「一流大学」ほど講義が英語化されていきます。京大は教養科目の半分を英語による講義にするそうですし、九州大学は4分の1の授業の英語化を目標としています。


東京大学の理学部化学科にいたっては、すでにすべての授業を留学生に合わせて英語化してしまいました。日本語廃止ですな…。


(「東大理学部化学科、外国人編入生受け入れ 全授業を英語に」『日本経済新聞』2014年9月30日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H18_Q4A930C1CR8000/


こういう流れのなかで、今後の日本の子供たちは、まず間違いなく「日本語や日本文化は英語や英語文化よりも劣っている」と考えるようになるでしょう。省庁や自治体、国立大学などが「英語化を進めれば進めるほど先進的なのだ、知的なのだ」というイメージを周囲に振りまいているわけですから、子供たちは影響されるはずです。


そう遠くない将来、日本人の多くが、「あの大学、まだ日本語で授業してる。三流大学だなwww」、「社内で日本語が聞かれるようでは一流企業ではない」などと普通に思うようになるのではないでしょうか。


しかしそうなってしまったら、法的には独立国家の体裁を保っていたとしても、日本人のものの見方は植民地下に置かれた人々と似たようなものになってしまいます。


ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ氏は、ノーベル文学賞候補として毎年のように名前が挙がる人物です。グギ氏は、かつては英語で小説を書いていたのですが、ある時期から自分の母語であるギクユ語で執筆するようになりました。母語で書かなければ、自分たちの本当の感情は表現できないし、文化の独立や発展にもつながらないと考えるようになったのです。


グギ氏は、植民地体制下では一般に、宗主国の人間は自分たちの言語を、現地の言葉よりも価値の高い一種のステイタス・シンボルにしようとすると指摘します。その上で、次のように続けます。


「白人の言葉を学んだ者は誰もが、田舎者である大多数の者とその粗野な言葉を軽蔑しはじめる。選びとった言葉の思考方法と価値観を身につけることによって、彼は自分の母語の価値観から、すなわち大衆の言葉から疎外されるのである」(グギ・ワ・ジオンゴ/宮本正興ほか訳『精神の非植民地化──アフリカ文学における言語の政治学(増補新版)』第三書館、2010年、188頁)。


つまり「英語がことさら重視されることで、現地語は汚名を着せられ、英語と同等の価値がある言語とみられる可能性がなくなる。結果として現地の文化や言語の創造性が妨げられる」というのです。


もちろん日本は植民地下に置かれているわけではありませんが、近い将来の日本の子供たちの多くは、植民地下の人々と同じような状況に陥りそうです。英語的な価値観や思考方法こそ先進的でカッコいいと思いこみ、日本語や日本的価値観、ひいてはそれを身につけている大多数の日本人を軽く見るようになるのではないかと懸念せざるを得ません。


日本の政府や自治体、教育制度自体が税金を使って「これからは英語だぞ~、日本語は内向きで遅れた言語だぞ~、賢い子は英語で話し、学び、考えろよ~」と暗黙のメッセージを発しまくるわけですから。


ここ最近、朝日新聞的インテリの権威が地に堕ち、日本社会はやっと戦後の自虐史観から少しずつ脱しつつあるのに、また新たな、おそらくもっと強力な自虐的世界観が広まってしまいそうです。


「グローバル人材を育成するぞ!」と意気込んだのに、フタを開けてみたら自国の文化や言語に抜き去りがたいコンプレックスを抱えて打ちひしがれる「植民地人ができちゃいました…」なんてことになりそうです。ホント笑えません。
(´・ω・`)ショボーン


イカン、このまま終わると暗い気分を引きずりそうですので、最後にもう少し元気が出る話題を。


当メルマガで私がよく引用する言語社会学者の鈴木孝夫氏は、日本語の持つ「タタミゼ効果」について最近、よく書いています(例えば、鈴木孝夫『日本の感性が世界を変える──言語生態学的文明論』新潮社、2014年)。


「タタミゼ」とは、もともとは、フランス語で使われてきた比較的新しい言葉で(フランス人が)「日本かぶれする、日本びいきになる」「日本人っぽくなる」といった意味だそうです。柔道のさかんなフランスですので、「畳」が日本のシンボルなのかもしれませんね。


鈴木氏は、この言葉の意味を少し変えて、日本語が、日本語使用者に与える影響について語っています。


海外の日本語研究者や日本語学習者、あるいは日本語教師の間では以前から、「日本語を学ぶと、性格が穏和になる」「人との接し方が柔らかくなる」ということが指摘されていたそうです。


日本語の持つこうした「人を優しくする力」に着目して、鈴木氏は「タタミゼ効果」と名付けています。


鈴木氏は著書のなかで、多くの実例を挙げています。


例えば、アメリカ人のあるキャリアウーマンは、日本語を学び、日本で暮らした結果、万事控え目になり、自己主張があまりできなくなってしまったそうです。これではアメリカに戻ってきちんと暮らしていけなくなってしまうのではないかと心配になったとのことです。


ロシア人の元外交官は、日本語を学び、日本に滞在している間に、ロシアに帰国すると「日本人になったみたいだ」と冗談を言われるぐらい感じが変わり、やはり人当たりが柔らかくなったということです。


鈴木氏の著書によれば、多くの日本語学習者が、日本語を学ぶと、「柔和になった」、「一方的な自己主張を控えるようになった」、「相手を立て、人の話をよく聞くようになった」、「自分の非を認め、謝ることができるようになった」などの性格の変容を経験しています。


これ、非常に興味深いですよね。以前のメルマガ記事でも書きましたが、日本語の会話では、周囲の状況や他者の気持ちを読み取り、それに配慮して話すことが求められます。


例えば、自分のことを指すときは、英語では常に「アイ(I)」で済みますが、日本語だと、職場では「私は…」、友人の前では「俺は…」、自分の子供の前では「お父さんはな…」などと状況に応じて使い分けなければなりません。


また、日本語の会話では、例えば、ある人のお宅を訪問してそこから帰ろうとするとき、はっきり帰るとは普通言いません。だいたいこんな感じです。


「あのう、それではそろそろ…」
「そうですか。お構いもしませんで…」
「いえいえ、ではまた」
「お気をつけて」


互いに、周囲の状況や相手の気持ちを察する能力を鍛えて、身に付けていないと日本語の会話はなかなかよどみなく進んでいきません(佐々木瑞枝「日本語表現を通してみた『察しの文化』」(濱口惠駿編『世界のなかの日本型システム』新曜社、1998年、所収))。


日本語を学ぶということは、状況や他者の気持ちを読み取る「察する力」「共感」「思いやり」などの能力を発達させ、身に付けることが求められるのです。


日本の治安の良さ、「おもてなし」や「思いやり」の美徳などは、日本語のもつ力が大きいのだといえるでしょう。


(相変わらず日本はとても安全な国のようです。「世界で最も安全な都市ランキング、東京1位 大阪3位」『CNN.co.jp』2015年1月30日配信)
http://www.cnn.co.jp/business/35059735.html


鈴木孝夫氏は、日本語に現れている、他者との共存を大切にする柔和な日本文明の世界観を、世界の人々にもっと知ってもらうべきだと主張しています。私も賛成です。


しかし残念ながら、現在の日本の政治は、日本人自身が、「日本人らしさ」を身につけにくくなるように進んでいます。また子供たちが、日本語や日本文化に自信を持てず、逆に文化的コンプレックスを抱いてしまいかねない国作りに邁進しています。


ホント、日本人が、日本の税金を使いつつ、自分たちが住みにくい社会をわざわざ作っていくという近年のアホな流れをどうにかしないといけませんね。
(`・ω・´)キリッ


いつもながら長々と失礼しますた…
<(_ _)>