Shinzo-Returns

安倍総理の志は死なない!!

「働かない国民」に悲鳴を上げるドイツ企業の末路

労働時間が減る一方で賃金が増えるドイツ
土田 陽介 : 三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部副主任研究員
2024年04月26日
ドル建ての名目GDP(国内総生産)で日本を抜き、世界3位の経済大国になったドイツ。そのドイツで4月16日、ドイツの連立与党の一角を占める自由民主党(FDP)があるイベントを主催した。その場で、ドイツ経営者連盟(BDA)とドイツ銀行の代表が、ドイツ人はもっと働くべきであると警鐘を鳴らしたことが話題となっている。
大幅に減少したドイツ国民の労働時間
ドイツ国民の労働時間は、この10余年で着実に減少している。具体的には、2010年から2023年の間に、ドイツの就業者の週当たりの労働時間は、36時間程度から34時間程度まで2時間ほど減少した。また就業者から自営業者を除いた雇用者の週当たりの労働時間も、40時間程度から37時間程度まで3時間ほど減少した。
ではなぜ、ドイツ人は働かなくなったのか。ドイツ労働市場・職業研究所(IAB)が2023年11月に発表した分析によると、その背景には、若い世代を中心に、働き方が多様化していることがあるようだ。学業や育児、介護との両立、共働き世帯の増加といった社会の変化を受けて、ドイツの労働時間は減少することになったとのことである。
社会のニーズの変化を受けて労働時間が減少すること自体は当然の成り行きであり、日本も共通するところである。問題は、労働時間の減少に見合わないほど、賃金が増えてしまったことにある。実際にドイツの就業者の平均月給の変化を確認すると、2010年から2023年の間に2400ユーロから3500ユーロと、ほぼ1.5倍になった。
消費者物価で実質化した平均月給は、2010年を100とした場合、2023年は108.5なので、かなり割り引かれる。それでも、労働時間の短縮との対比で考えれば、実質ベースでの月給もそれなりに増えているといえよう。これが労働生産性の改善を反映した現象なら大いに結構なことだが、少なくとも経済界はそう認識してはいないようだ。
ドイツを含めた先進国は、戦後のベビーブーマー世代のリタイアに伴う労働供給の減少という課題に直面している。ドイツの就業者数は、2010年から2023年の間に3650万人から4200万人と550万人増加したが、今後数年にわたって続くベビーブーマー世代のリタイアを考慮に入れれば、それでもなお、人手は足りない状況である。
一方で、就業者の労働時間は減少している。そのため、ドイツの経済に必要な労働投入量(=就業者数×就業者当たりの労働時間)を確保するには、就業者数を増やすか、就業者当たりの労働時間を増やすか、あるいはその両方を行う必要がある。とはいえ、就業者を増やそうとしても、すでに人手不足であるため、それは困難な選択である。
また賃金を増やそうにも、企業の業績に見合った範囲でしか、賃金を増やすことはできない。反して、労働時間に見合うだけ賃金を減らすという選択肢もあるが、労働者にとっては受け入れがたい選択となる。少なくとも賃金に見合う水準まで働く時間を増やさないと経済活動は維持できないと、ドイツの経済界のトップは主張しているのである。
最強労組は週休3日の導入を提案
このように危機感を強める経済界をよそに、労働界には労働時間のさらなる短縮を図ろうとする動きもある。例えば、金属産業の労働団体IGメタル(IG Metall)は、週4日勤務制の導入を提案している。IGメタルはドイツ最大の労組であるため、その社会的な影響力は大きい。それに、IGメタルは政治的な影響力が大きいことでも知られる。
実際にIGメタルは、オラフ・ショルツ首相を擁する社会民主党(SPD)のスポンサー団体でもある。支持率低迷に喘ぐSPDであれば、IGメタルの意向を優先し、週4日勤務制の導入を後押しするかもしれない。そうすれば、ドイツ社会全体で週4日勤務制が拡大して、ドイツ人がますます働かなくなる事態となりかねない。
いずれにせよマクロ的に見ると、ドイツ人は確実に働かなくなっている。かつてはそうした傾向を、ドイツの付加価値労働生産性の「高さ」に帰する評価が多かった。しかし目下のドイツの経済界の反応からは、むしろその付加価値労働生産性の「高さ」は、ドイツ経済の実勢に比べると労働者の賃金が「高過ぎる」ことを意味するものといえよう。
特にショルツ政権が誕生した2021年12月以降は、最低賃金が消費者物価の伸びを上回るテンポで引き上げられている。加えて、ドイツ人の労働時間は過去に比べると減少しているのだから、ドイツ経済の高コスト化はこの間に一段と強まったことになる。これではドイツでの投資に慎重になる企業が増えるのは当然といえる。
突き詰めると、今のドイツ経済に本当に必要な政策は、実質為替レートの切り下げなのだろう。しかしユーロを導入したことで、ドイツ自らの意思で通貨を切り下げることは不可能となった。そのため、財政緊縮を強化して需要を冷やし、国内の物価を下げるしか術はない。しかし、そのようなことは、バラマキを重視する左派のショルツ政権の下では不可能だ。
かといって、仮にドイツで次期政権が右派の立場となっても、デフレ政策は国民に苦痛を強いるため、政治的なハードルが高い。資本生産性や全要素生産性(TFP)が伸びれば話は別かもしれないが、そもそも企業がドイツ経済への投資に慎重である以上、そうした展開も望みにくい。何もしなければ、経済停滞の長期化は免れないことになる。
労働時間を増やすか所得を減らすか
ドイツに残された手段は、今働いている人々の労働時間を増やしていくか、それとも、働き方に応じた水準まで所得を減らしていくか、あるいは、その両方を進めていくかの3択となる。いずれも痛みを伴うわけだが、痛みが偏らないように、労働時間を増やしつつ所得の適正化を図るバランス戦術が、最も現実的な対応策なのかもしれない。
ドイツ経済は、一見すると順調に成長しているように見受けられるが、一方で経済の高コスト化という看過できない問題を抱えている。その高コスト化は、再エネと天然ガスに偏ったエネルギー政策の失敗によってももたらされているが、同時に労働政策の失敗も大きな要因になっていることが、一連の事実から窺い知れるところである。
いずれにせよ、ドイツ人は働かなくとも豊かな暮らしを実現しているという肯定的な評価は、ドイツ経済の実態を正しく描き出してはいないように見受けられる。

「親日」だからと甘えていいのか…戦争の記憶が薄れゆく日本人に、かつての「戦場」に住む人々が抱いている「意外な本音」

「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。


家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。


本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。


元日本兵の慰霊を続ける村
戦後七十数年ともなれば戦争の記憶の風化はもはややむを得ない。ビルマ戦場跡の各所に建てられた旧日本軍の慰霊碑や墓碑は現地社会に根ざすことなく次第に忘却され、慰霊巡拝に訪れる人もそれを管理する人も減少し経年劣化は進んでいる。2007年を最後に中村さんが行けなくなってから、ウェトレット村に日本人の慰霊巡拝者はほとんど来なくなった。元兵士だけでなく遺族も高齢化が進んでいるのである。
2016年と2017年の2年続けて、私は中村さんの意志を継ぐ日本人としてウェトレット村の3月8日の旧日本軍戦没者慰霊祭に参列した。毎年、ウエモンとその一族が中心になって慰霊祭に向けて1週間かけて準備する。ウエモン一族は招待状を作成し、村人約150人に参列を呼びかける。おもてなし料理の準備で女性たちも大忙しだ。当日は4、5名の僧侶を招いて村総出で慰霊祭に参列する。僧侶へのお礼やおもてなし料理など出費は相当の額になるだろう。「慰霊祭をやるにあたって中村に資金を要求したことはなく、できる範囲でやっている」とウエモンは言う(実際のところ中村さんは送金しているのだが……)。正直なところ、こんな小さな村の村人が毎年本当に旧日本兵の慰霊祭を行っているのか? なぜ?


私は半信半疑だった。実を言えば、この目で確かめるまで信じられなかった。


3月の戸外は午前中でも30度を超すので、慰霊祭は朝一番に行う。色彩豊かなロンジーに身を包んだ老若男女が、早朝にもかかわらず7時には集まって来た。村人は中村さんが寄贈した慰霊塔とパゴダを前にして、地べたに並んで座る。4、5名の僧侶が慰霊塔とパゴダを背に、村人に向かって椅子に座る。私は中村さんから言付かった日本の菓子や酒を慰霊塔に供えた。とくに乾期のメークテーラ戦の最大の敵は水不足だと聞いていたので、私は日本のペットボトルの水をできるだけスーツケースに詰め込んでしこたま持参した。最期の時に水を求めた兵士に思いを馳せて供えた。


慰霊祭が始まった。僧侶による読経の最中、銀の器に水滴を垂らして「灌水供養」をする。「灌水供養」は本来ウエモンと中村さんの役目だが、この時は恐れ多くも中村さんの代わりを私が務めた(2016年)。功徳を回向するため、1滴ずつ水差しの水滴を銀の器に垂らすのだが、見ている以上に難しい。せっかちなせいか器がすぐに水でいっぱいになってしまった。読経が終わると参列者が1人ずつ慰霊塔前の台に花を供えた。


その後、「中村テンプル」に場所を移した。そこでも僧侶の読経と講話がある。その後、参列者皆でおもてなし料理(乾燥魚の煮物、スープ、マンゴーサラダなど)を頂く。近隣の村人や子どもたちや近くの工場の労働者や通りがかりの人まで、合わせて60名ほどが集まって賑やかに歓談する(2017年)。


最後に、唯一の日本人参列者の私が僧侶に呼ばれた。僧侶から私に特別な講話があった。僧侶はミャンマーでは大変尊敬されているので非常に有難いことである。私が僧侶に「なぜミャンマーの人々が旧日本軍の慰霊をされるのですか」と不躾な質問をすると、次のように諭された。


「国も民族も関係ありません。ビルマ戦で亡くなったすべての戦没者のための慰霊祭です。日本人のあなたが慰霊祭に参列することはとても良いことです。人間は必ず死を迎えます。生きている間にできるだけ良いことをしなさい。功徳を積むのです。それが仏様の教えなのです」


僧侶の言葉が心に沁みて、思わず涙がこぼれた。なぜ旧日本軍の慰霊祭を現地主導で行うのか? と疑問に思っている心を見透かされて身が縮む思いがした。地べたに額をつけるようにお経を唱える村人の敬虔な姿を見て、少しでも彼(女)らを疑った自分が恥ずかしくなった。


ミャンマー贔屓
元日本兵らは戦地で食糧の供給や傷の手当てなどをしてくれたミャンマー人への恩義に感謝の気持ちをもって、「ビルマ人は親日的だ」としばしば語る。日本人の「ミャンマー贔屓」は兵士だけでなく遺族らも同様である。彼らは「戦時中は父親が、戦後は自らが親切にしてもらった」と語ることで「ミャンマー好き」の慰霊旅行のリピーターとなる。日本の若者(孫の世代)もまた、祖父や親の世代の記憶をそのまま継承する。


私は十数年にわたり戦友会の戦没者慰霊祭や永代神楽祭の世話人をしてきたが、元兵士が中心に運営していた頃の戦友会や慰霊祭と、元兵士の人数が激減し一線から退いた後の戦友会や慰霊祭の「変質」には目をみはるものがある。


激戦地で戦った元兵士は戦争を美化しなかった。彼らは積極的に戦争の暗部を語らなくとも、占領地や植民地の人々に塗炭の苦しみを与えたことを体験、あるいは見聞しているからだ。戦友会や慰霊祭に興味や関心を抱く「奇特な」若者にたまに出会う。彼(女)らは得てして戦争を肯定的に捉え(「自虐史観」の否定)、元兵士を盲目的にリスペクトする傾向が強い。遺族でもない若い世代が慰霊祭に参加するのは喜ばしいことだが、彼(女)らは元兵士なら共有している戦場での残虐な「加害」体験は継承せずに(兵士たちが語ってこなかった)、インパール作戦のような悲惨な被害体験やそれに付随した「親日的なビルマ」というノスタルジックな記憶を継承したがっている。


彼(女)らは戦域や時期や階級に関係なく戦場体験者を無条件に崇め、戦没者を純粋に「英霊」として顕彰する。靖国神社で行われていたビルマ方面軍戦没者慰霊祭で70代(当時)の遺族は「私たちの目下の最大の課題は、総理大臣と天皇陛下に公式の靖国参拝をしてもらうことだ」と挨拶した。戦没者の遺骨収集と慰霊が最大の目的のはずだったのだが……。遺族の挨拶には保守政治勢力との根強い関係性が色濃く投影されていた。


最後に決まって「海ゆかば」を斉唱するこの一連の流れには、アジアの人びとが被った凄まじい戦争被害への反省のまなざしはまったく感じられない。同時 に、「(中国は反日的だが)ビルマは親日的だ」という言説が継承されているように感じるのは私だけであろうか。


ビルマは「親日的」なのか
ウェトレット村の旧日本軍戦没者慰霊祭の事例は、元将校の中村清一さんと元村長のウエモンの長年の人的絆と信頼が現地主導の慰霊祭の継続に繋がっている特異な事例だ。


ウェトレットの慰霊祭を知った日本人はこれこそが「日緬友好の証だ」と絶賛するに違いない。まさにその通りなのだが、十分に留意しないと「ビルマ戦は英国の植民地支配からビルマを解放した戦争だ」と主唱する人たちにウェトレット村の事例は都合の良い「証拠」を提供することになりかねない。現に最初に中村さんを紹介してくれたのが保守系右派団体の日本会議の40代の男性であり、彼は都合の良い「証拠」としてウェトレット村を語っていた。歴史的事実に基づいたビルマ戦の記憶の継承のためにも、戦場の真相を日英緬から多面的に検証すべきだ。中でも日本占領期のビルマのナショナリズム運動の特質を理解することなく「ビルマ人は『親日的』だ」という安易な「親日論」が次世代のビルマ戦の記憶となっては非常に危うい。


さて、英軍側の興味深い史料がある。英領ビルマ総督(Reginald Dorman-Smith)が避難先のシムラー(インド北部の都市)でまとめた日本軍のビルマ侵攻に関する1943年11月10日付の報告書だ(*1)。植民地行政府の長から見た英国のビルマ作戦(日本軍に敗北した初期のビルマ防衛戦)に関する記録である。日本のビルマ侵攻を、日本側からでも、ビルマのナショナリスト側からでもなく、敗退した英国側行政トップから見た記録だけに非常に興味深い。この報告書には「英軍撤退時、ビルマ人は西欧人に対して親切な行動をした。彼らは親日的ではないと解釈できるが、一方で、日本軍敗退時に同じような親切を日本兵にも行った」と記載されている。


つまり、戦時中のビルマ人は「親日的」でもあり「親英的」でもあった。僧侶の言葉を借りれば、ビルマ人は民族に関係なくお釈迦様の教えに忠実に目の前の苦しんでいる人を助けたのである。功徳を積んだとも言い換えられる。私がウエモンに、不躾な質問だが「日英軍の戦闘をどう思うか」と尋ねると、しばらく考えて「空から爆弾を落とされたら、落としたのが日本軍でも英軍でも嫌に決まっている。嫌な記憶は我慢して乗り越えた」と答えた。どこの国だろうと戦争はご免こうむりたいのは当然である。ビルマ人は民族自決、独立を成し遂げるためには「親日的」にも「親英的」にもなり得るのだ。ビルマ近現代史の専門家の根本敬さんはビルマ人のアンビバレントな立場を「抵抗と協力のはざま」と分析する(*2)。協力姿勢を見せて相手の信頼を得ながら、自己主張と抵抗の基盤を徐々に拡大するやり方だ。これも生き抜く術なのだろう。


元日本兵が語る、「ビルマ人によくしてもらった、彼らは『親日的だ』」という記憶は、中村さんの体験からも事実だと思う。でもビルマ戦の記憶を受け継ぐ私たちは、それを鵜呑みにして終わらせてはいけない。そこでどんな戦いがあったのか、現地の人の土地や財産や命まで奪う戦場の実像を知った上で、戦争の記憶を次世代に受け継がなければならない。それこそが、元日本兵の慰霊祭を続けているウェトレット村の人びとに対する「真の友好の証」である。ビルマの人びとの微笑みに甘えて、日本人は過去をさっさと水に流してはいけない。


独裁政権の生みの親は日本
2021年2月1日、ミャンマー国軍によるクーデターが起きたが、いまだ事態に収束の兆しはまったく見えない。ミャンマーは今、政治、経済から社会まで混乱し、人びとの生活は困窮を極めている。大都市での民主化を求める市民の弾圧が強化されたため、国軍に抵抗する市民が地方都市や農村やタイ国境の少数民族の部落などに逃げているそうだ。


かつては植民地支配からの民族自決を求めて戦ったビルマ国軍であったはずなのに、いまやミャンマーの民主化を抑圧する自国内の独裁権力になっている。


歴史を遡ればその国軍を作ったのが日本軍なのだ。1941年末、アウンサンスーチーの父であるアウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が日本軍のビルマ謀略機関(南機関)の肝いりで誕生した。日本軍はビルマ侵攻にビルマ人の反英ナショナリズムを利用した。民族自決を掲げるアウンサンらも英国の植民地支配から独立するために自分たちの軍隊をもつことは好都合であった。ところが、ビルマ戦での日本軍の敗退が決定的になってくると、彼らは日本軍を見切って抗日蜂起し英軍側に翻った(1945年3月27日)。これこそ「抵抗と協力のはざま」の体現化である。戦後、戦時中の「日本軍協力」より戦争末期の「抗日蜂起」が英国に評価され、アウンサンは対英独立交渉の途を開いた。アウンサンはビルマの独立(1948年1月4日)を見る前に暗殺されてしまうが、軍服を脱いで英国と非暴力による独立交渉を行ったアウンサンは賢明であった。


二度と戦争をしてはいけないと戦没者のために祈り続けるウェトレット村での慰霊祭は2023年も例年通りに行われたと聞いた。ウエモンも90歳を過ぎたが健在だ。


2011年の民政移管により一度民主化の果実を味わったミャンマーの人々を再び軍事的独裁政治下に戻すことはもはや不可能である。国軍は80年近く前に不当な植民地支配と軍事的抑圧に抵抗し、民族自決を求めて戦ったあの時代を思い出し、自らが少数民族を含む人々の権利を阻止する独裁権力になっていることを猛省すべきである。


先日、知り合いの在日ミャンマー人の女性が語った言葉がずっと胸に刺さっている。


「日本軍は国軍の産みの親であり、かつて日本軍はミャンマーを侵略した。今でも日本は経済的にも政治的にも国軍と決別していない。だから、ミャンマー人は国軍を『日本軍』と呼んでいる」


ミャンマーのクーデターは、いまの日本にとって「対岸の火事」ではないのだ。


* * *


(*1)Report on the Burma Campaign, 1941-1942 By Sir Reginald Dorman-Smith, G.B.E., Governor of Burma(Printed in Simla, 10th November 1943)


(*2)根本敬『抵抗と協力のはざま 近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』岩波書店、2010年。


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さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。

ネコウヨ戦記 安倍総理と駆けた10年 164


安倍総理が暗殺されて1年間、ネット民として投票率の問題に正面から向き合ってこなかったという点を反省している。
思えば、失職の可能性こそ自浄作用の始まりである。労働者においては減給・解雇の危険、企業においては減益・倒産の危険があるからこそ、立ち直りのきっかけとなるのである。
したがって、まずは政治家に落選の恐怖を植え付けることから始めるべきであったのだろう。そして、官僚にはコントロールできる政治家が落選するというプレッシャーを与えるべきである。


安倍総理の暗殺=日本国民を敵に回す!!


この図式を敵に示すことができなかったこと、慙愧の念に堪えない。



私はネコである。名前はもうない。


【164】中国の一帯一路、完成するのは「でこぼこ道」
Andrew Peaple
2018/10/10 11:51


――WSJの人気コラム「ハード・オン・ザ・ストリート」
***
 中国の広域経済圏構想「一帯一路」の陰で、パキスタンは一つの大きな問題に直面する。パキスタンはこれまで、中国が約70カ国のインフラ開発に数千億ドルを投じようとするこの構想の最大の受益者だった。だが中国から約620億ドル(約7兆円)相当の投資の約束を取りつけたにもかかわらず、パキスタンの総選挙後に樹立された新政権は、国際通貨基金(IMF)との協議を余儀なくされている。積み上がった債務の返済期限が迫る中、最終的に120億ドル規模の支援を要請する可能性がある。
 パキスタンが抱える問題は、一帯一路構想に寄せられてきた期待に影を落とす。この構想は、端的に言えば、新たな経済大国がその資金力に物言わせ、友好国や外交的影響力を手に入れようとするものだ。この先何年にもわたり、新興国市場全体が力強く成長するという夢を語る原動力となってきたが、その一方で、融資を中国企業の受注契約や雇用に結びつければ、中国の慢性的な過剰生産能力を軽減するのに役立つと考えられる。
 中国政府は一帯一路には善良な意図があると世界に受け止められるよう望んでいる。だがパキスタンでは、吸収しきれないほどのペースで中国マネーが急速に流れ込んだ。
 パキスタンでは過去5年間に外国からの融資が急増。昨年の融資総額100億ドルのうち、中国は40%近くを占める。その資金を元に進めるインフラ事業の資材を輸入するため、同国の貿易赤字は膨れ上がった。中央銀行は通貨ルピーの下落を食い止めようとし(成果は出ていない)、外貨準備は4年ぶりの低水準に落ち込んだ。通貨安と原油価格の上昇で、コアインフレ率は8月に7.7%まで上昇。一段と危機的状況になる中、パキスタンの株式市場は今月に入って7%超下落し、指標となる国債利回りは急上昇している。
 この結果は、一帯一路構想の最終的な狙いが、中国に依存する債務国ネットワークを作り出すことだという懸念を鎮めるのにはほとんど役立たない。中国は国内に債務問題を抱えており、過去には外国の諸問題に巻き込まれるのを避けようとしてきた。そう考えると、これはややマキャベリズムのように見える。IMFが今パキスタンに融資を与えることは、外交上の注意を要するだろう。米国は中国の銀行に資金が吸い込まれるような金融支援には慎重な姿勢をとっている。
 中国の経済外交にまつわる誇大宣伝には気をつけよ――。これが投資家へのメッセージだ。マレーシアなど他の国々も最近、世界第2位の経済大国からあまりに巨額の投資を受け入れることには否定的な考えを表明した。パキスタンのように中国と運命を共にする国が、市場の混乱から無縁ではいられないのは明らかだ。